伏見桃山陵

京都市伏見区にある明治天皇の陵 ウィキペディアから

伏見桃山陵map

伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ、ふしみももやまりょう)は、京都府京都市伏見区桃山丘陵にある明治天皇桃山御陵(ももやまごりょう)。

概要 伏見桃山陵, 所在地 ...
伏見桃山陵
Thumb
所在地 京都府の旗 京都府
京都市伏見区桃山町古城山
位置 北緯34度56分13.8秒 東経135度46分52.3秒
形状 上円下方墳
築造時期 1912年大正元年)
被葬者 明治天皇
陵墓 宮内庁治定「伏見桃山陵」
テンプレートを表示
閉じる
Thumb
伏見桃山東陵

概要

1912年(明治45年)7月30日明治天皇は東京の宮城・明治宮殿で崩御した。同年(大正元年)9月13日に東京・青山練兵場(現在の神宮外苑)にて大喪儀が執り行なわれた後、翌14日に埋葬された。

陵の敷地の桃山は、豊臣秀吉の築いた伏見城本丸跡地で、京都に墓所が営まれたのは明治天皇の遺言によるものという。すぐ東には皇后である昭憲皇太后伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接する。また、桓武天皇柏原陵にもほど近い。周囲一帯は宮内庁の管理地「桃山陵墓地」となっており、京都市南西部から旧山陽道、旧西海道地域の陵墓を管理する宮内庁書陵部桃山陵墓監区事務所がある。

墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨を納めた。槨内の隙間には石灰を入れた上で石蓋を被せてコンクリートで固めた。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたという[1]

伏見桃山陵では、千数百年ぶりに埴輪が焼かれた。桓武天皇が王城鎮護のために木偶を埋めた故事に倣い、「御陵鎮護の神将」として弓取るものが一対、矛取るものが一対、計四体が墳丘の四隅に埋められた。東京帝室博物館歴史部の三宅米吉、和田千吉、関保之助武人埴輪群馬県太田市世良田町出土、国指定重要文化財天理大学附属天理参考館所蔵)を参考に図案を考案し、同館の収蔵品修復や模造品を手掛けた彫刻家・吉田白嶺が制作した。同様の埴輪は伏見桃山東陵の造営時にも制作された[2]

幕末孝明天皇についで火葬にせず、天武天皇以前の古制に戻した[3]

歴代天皇の陵は本陵に至るまですべて近畿以西に作られているが、東京奠都後の大正天皇(多摩陵)と昭和天皇(武藏野陵)の各陵は武蔵陵墓地東京都八王子市)に作られている。

交通アクセス

Thumb
伏見桃山陵パノラマ

余談

伏見桃山陵にある230段の階段は、明治天皇教育勅語を下した1890年明治23年10月30日に由来する。階段の段数は教育勅語が出された明治23年10月の23と10をかけた数になっている。また、陵墓内に7段の階段があるが、これは明治23年の23とこの階段の段数を足すと教育勅語が出された30日になるという話がある。

      明治23年 × 10月 = 230段     明治23年 + 7段 =30日   

主な出来事

脚注

関連項目

外部リンク

Wikiwand in your browser!

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.

Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.