荒井寛方
1878-1945, 日本画家 ウィキペディアから
1878-1945, 日本画家 ウィキペディアから
荒井 寛方(あらい かんぽう[1]、明治11年(1878年)8月15日 - 昭和20年(1945年)4月16日)は、近代の日本画家。本名は寛十郎[2]。栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)生まれ。院展同人。
紋所や提灯の上絵を描く家に生まれる。父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいた。明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門[3]、歴史画・風俗画を学ぶ。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。この頃、木版口絵も描いている。第一回文展に「菩提樹下」が入選し、第二回から第四回展まで連続受賞。この頃巽画会や紅児会にも参加し、原三渓の庇護を受ける。
大正3年(1914年)再興第一回院展で「暮れゆく秋」(さくら市ミュージアム蔵)を出品し、院友となる。翌年、第二回展の「乳糜供養」では、スジャーターが粥を釈迦に捧げる場面を描いて、院の東洋主義的理想とも合致し、中村岳陵・冨田溪仙と共に同人に推される。以後は院展で活躍した。大正5年(1916年)詩人のラビンドラナート・タゴールに招かれて、ビチットラ美術学校の絵画教授としてインドに渡り、アジャンター石窟群の壁画などを模写。大正7年(1918年)帰国後は、仏教関連に多く題材を得て院展を中心に作品を発表、「仏画の寛方」と呼ばれ、大正期院展の傾向であるインド的趣向の代表者として認められた。
大正13年(1924年)から翌年にかけて、中国を訪問。この頃から画風が変わり、伝統的な日本の古典に取材するようになる。大正15年(1926年)、渡欧しローマの遺跡などを訪問。昭和15年(1940年)から法隆寺金堂壁画の模写事業の主任画家に選ばれ、春秋は斑鳩の里の阿彌陀院に住み模写に力を注いだが、昭和20年福島県郡山駅で急逝し、完成を見ることはなかった。
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 出品展覧会 | 落款・印章 | 備考 |
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乳糜供養 | 絹本著色 | 六曲一隻 | 129.9x253.0 | 東京国立博物館 | 1915年(大正4年) | 第二回再興日本美術院展 | ||
玄奘と太宗 | 紙本著色 | 四曲一隻 | 栃木県立美術館 | 1927年(昭和2年) | 再興第14回院展[4] | |||
羅浮仙 | 絹本著色 | 六曲一隻 | 横浜美術館 | 1927年(昭和2年)[4] | ||||
玄奘と太宗 | 紙本著色 | 四曲一隻 | 栃木県立美術館 | 1927年(昭和2年) | 再興第14回院展[4] | |||
龍虎図 | 紙本著色 | 二曲一双 | 168.8x181.2(各) | 栃木県立美術館 | 1931年(昭和6年) | 再興第18回院展[5] | ||
富岡製糸場行啓 | 明治神宮聖徳記念絵画館 | |||||||
当麻寺天井画 | ||||||||
竹生島弁天壁画 | ||||||||
日光東照宮社務所壁画 | ||||||||
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