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かつて日本の神奈川県横浜市に存在した路面電車 ウィキペディアから
横浜市電(よこはましでん)、横浜市営電車(よこはましえいでんしゃ)は、かつて横浜市交通局が経営していた軌道(路面電車)である。
横浜電気鉄道を買収し、1921年(大正10年)4月1日に横浜市電気局(現・横浜市交通局)によって運行が開始された。主に横浜市中心部(概ね1927年以前の市域)を運行していた。車両は単車が比較的後年まで多く使用され、塗色も青を基調としたものが採用されていた。上半分クリーム・下半分青、あるいは上下青・窓回りクリーム等で最末期は市営バスと似た肌色に青帯であった。運転系統は循環系統が多く、特徴の一つとされていた。ワンマン運転化が遅れ、全てワンマン運転となったのは全廃一年前であった。
戦後、市街地が急拡大し、また交通量も増加。輸送力や路線網、渋滞の原因となった路線敷等あらゆる意味で市電は中途半端な存在となり、根岸線の開通や交通局の財政悪化も繋がって1972年(昭和47年)に全線が廃止された。
市電廃止前後は、37両の市電車両が静態保存されていたが、ほとんどが荒廃などにより撤去された[1]。現存する市電車両は、横浜市電保存館に7両(523・1007・1104・1311・1510・1601・電動貨車10)、久良岐公園に1両(1156)[2]、横浜市立中田小学校に1両(1508)、野毛山動物園に休憩スペースとして1両(1518)の、8形式合計10両。市電保存館には当時の備品も現存している。
京都市電や大阪市電などが全廃時も含めて車両が大量に他都市に譲渡され現在でも現役の車両が存在するのに対し、横浜市電は軌間が1372mmという特殊性や、後述通り同じ軌間の都電に比べて近代化が遅れていたことなどもあり、他の事業者に譲渡された例はない。
市電の線路については廃線後に開発が進んだ地域も多く線路の遺構はほぼなく、当時の風景のおもかげが残る地域も一部であるが、車庫や停留所の一部は市営バスと横浜市電保存館に転用されている。[3] 軌道に敷設されていた御影石は一般に払い下げられ、そのうち3000枚が神奈川大学横浜キャンパスに移され、1号館前の東屋に敷かれている[4]。このほかに関内駅近くの大通り公園の石の広場や、山手地区の山手本通りの歩道、横浜文化体育館の正面広場、久良岐公園の保存車両のそば、横須賀市の観音崎公園の遊歩道の一部などでも使用されているが、ほとんどが改修などで撤去され、現存するのはごく一部である。
長崎源之助と村上勉による絵本『はしれ ぼくらのしでんたち』(偕成社、1974年)では廃止後に車両が魚礁となる描写があるが、2017年の調査では魚礁化の構想はあったものの事実は確認できなかったとされている[5]。また、廃止時には横浜市民という条件をつけて37両が民間供出され、この絵本にもその模様が描かれた。モデルとなった車両について、2023年現在現存するものはないが、供出車両として登場する6両中3両については実際の譲渡内容を踏まえたものであったことが確認されている(車番や用途については脚色あり)[6]。このうち、緑区の後谷公園に設置された1504号はのちに図書館となり、1986年の解体後に後を継いだ自治会館にも「しでん文庫」の名称が残されるとともに、車輪を設置した記念碑が建てられている[6]。
横浜電気鉄道によって1904年(明治37年)7月15日に開業し、1921年(大正10年)4月1日に横浜市電気局(現・横浜市交通局)によって買収され横浜市による運行が開始された。
1923年(大正12年)9月1日正午前に関東大震災が発生し、保有車両143台のうち、半数の72台が高島町車庫の火災・運転中の沿線火災で焼失、13台が滝頭車庫の倒壊・運転中に横浜刑務所の石塀の倒壊で大破した。高島町変電所・常磐町変電所も焼失し、千歳橋変電所は全壊。また道路・橋梁・架線の破損も甚大であった。 復旧にあたっては、3線計画(杉田線・本牧線の延長、久保町線の新設)のために用意されていた資材が流用され、また日本陸軍鉄道第一連隊の工兵約300人が復旧に携わったこともあり、早期に復旧することが出来た。
焼失した車両の穴埋めに、焼け残った車両18台を改造した屋根無しの「バラック電車」が運行された(1924年1月廃止)。また水道が復旧するまでの間、散水車2台が給水車として運行された[7]。
軌間が同じ京王電気軌道より旧型2軸車(京王電気軌道1形電車)を購入した。なおこの際、新宿から生麦まで、東京市電・京浜電鉄[注釈 1]経由で自走回送した[8]。
12月には、5か年計画で12路線22kmを新設、17.8kmを移設・置き換え、1.4kmを撤去、そして設備の増設・車両の新造を行う復興計画が決定した[7]。
横浜電気鉄道の買収時(震災の2年前)に発行した公債、そして震災復興計画で発行したドル建ての公債の償還に加え、世界恐慌による為替相場の下落でドル建ての公債が元金の支払いだけでも2倍以上に膨れ上がり、1941年(昭和15年)には3年間で元金が30万円から150万円に膨れ上がっていた。日中戦争による軍需の高まりで乗客が増えて増収となったものの、相変わらず公債償還のために新たな電車事業整理公債を発行する自転車操業は続いていた[9]。
逼迫した財政状況の中で太平洋戦争に突入。ドル建て公債の償還は国が肩代わりすることになり、鉄道省の交通事業統制政策により運賃が7銭から10銭に大幅に引き上げられた。このため財務が改善して営業係数が50を下回り、黒字が出るようになった。1944年(昭和19年)には鶴見線の新設に着手する余裕も生まれた。しかし1945年(昭和20年)5月29日、横浜大空襲が発生。保有車両202台のうち45台を焼失し、千歳橋変電所も焼失してしまった。架線・線路の被害も甚大であった[9]。
戦後はインフレによる物価の暴騰で、線路・設備の本格的な復旧や車両の修理・新造などの経費が高騰したにもかかわらず、連合国軍最高司令官総司令部の指導で運賃の値上げ幅が抑えられたため、再び赤字に転落。1947年(昭和22年)には鉄道事業の赤字が、2年間で446万円から6031万円に膨れ上がっていた[9]。
1952年(昭和27年)に地方公営企業法が施行され、交通局が地方公営企業として独立。 しかし市電を廃止した1972年(昭和47年)時点で、累積赤字が91億5125万円に達しており、逼迫した財務状況の中で、経費が安くつく横浜市営バスの拡充・横浜市営トロリーバスの新設に転換したもののどうにもならず、1966年(昭和41年)10月には地方公営企業法に基づく財政再建団体に指定されることになった。
1966年(昭和41年)10月、第一次財政再建計画として「再建整備5か年計画」が策定された。運賃の値上げ、市電・市営バスのワンマン化、市営バス・高速鉄道(現・横浜市営地下鉄)への切り替えを前提とした市電の縮小、市営バス・トロリーバスの増車を行うというものだった。ただし高度経済成長による職員給与のベースアップや、政府の公共料金抑制政策による運賃の値上げ抑制、そしてバス路線の展開が旧市域に限られたことでバスの増強に見合った運賃収入が得られなかったことなどが原因で、経営は悪化する一方であった。 「再建整備5か年計画」とモータリゼーションによる慢性的な道路渋滞で定時運行が困難になり、更に1964年(昭和39年)に根岸線が磯子駅まで延伸開業したことで並行する本牧線・杉田線の乗客が15%と大幅に減少(1億4000万円の減収)、そして横浜市の急速な郊外への都市化も重なって[10]、1972年(昭和47年)3月31日に市電・トロリーバスが全廃された[11](法令上の廃止日は翌4月1日)。
なお1973年(昭和48年)8月に「地方公営交通事業の経営の健全化の促進に関する法律」が施行され、1974年(昭和49年)3月に第二次財政再建計画として15ヶ年計画が策定され、市電の債務は市営バスと市営地下鉄に引き継がれることになった[9]。
以下の路線は街路整備等に伴い、昭和初期に移設されたものである。
後述通り晩年まで機器流用車や少数派が多かった。横浜市が港町であることから、古い車両の特徴として、開業時の車両の車号がローマ数字で表示されていたこと、腰羽目に錨の縁取り模様があったこと、塗装で青色がよく用いられていたことも挙げられる[18]。また、運営企業の資金難から、車両は中小や新興のメーカーにより製造されることがほとんどであった。[19]
1923年の関東大震災により当時の車両の過半数が焼失した[20]が、他社局からの車両購入のほか、300型以降の新型車両の導入により補充したうえで、さらに震災以前の旅客車両も全て置き換えた[21]。1928年に1000型の導入により、ボギー車が横浜市電で初めて導入された[22]。一方、市の財政難により以降は車両新造が抑制され、太平洋戦争中の車両不足の原因となった[21]。1945年の横浜大空襲では保有車両203両中48両が被害を受けた[23]。
戦後は輸送力不足への対応として大型車両の3000型が導入された[24]。さらに、戦後復興に伴い、バスやタクシーとの競争力を高めるため、加減速性能や防振防音性の高い車両として1500型が導入された[25]。その後は製造コストの安い1150型が導入された[23]。1967年以降は、人件費削減を目的としたワンマン運転化改造工事が1100型、1150型、1500型合計47両に対して施工された[26]。
1972年までに市電が全廃され、車両もそれまでに全廃された[27]。以降、車両7両は横浜市電保存館で保存されている[28]。なお、六大都市の市電で唯一、廃車が他都市に譲渡されていない[18]。 *を付したものは保存車が現存する車種。
型式 | 車両数 | 車両番号 | 製造初年 | 区分消滅年 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
単車 | |||||
電動客車 | 188両 | 1 - 107・111 - 191号車 | 1904年 | 1937年[21] | 一部は現在の都電、京王、大阪市電からの譲受車 |
200型 | 24両 | 200 - 209・215 - 228号車 | 1923年 | 1947年[30] | 初めて形式の概念が与えられたグループ |
300型 | 61両 | 300 - 309・330 - 380号車 | 1924年 | 1952年[30] | |
400型 | 32両 | 400 - 431号車 | 1924年 | 1966年 | 20両は300型からの改造車 |
500型* | 60両 | 500 - 559号車 | 1928年 | 1969年 | |
600型 | 15両 | 601 - 615号車 | 1947年 | 1969年 | 500型の改造車 |
700型 | 17両 | 701 - 717号車 | 1939年 | 1967年 | 200型、300型の改造車 |
800型 | 32両 | 801 - 832号車 | 1947年 | 1965年 | 200型、300型、元成田鉄道デハ1形、デハ11形の車両の改造車 |
ボギー車 | |||||
1000型* | 20両 | 1000 - 1019号車 | 1928年 | 1970年 | 初のボギー車 |
1100型* | 5両 | 1100 - 1104号車 | 1936年 | 1972年 | ロマンスカーの愛称を持つ流線型車両 |
1150型* | 22両 | 1151 - 1172号車 | 1952年 | 1972年 | 10両は800型の改造車 |
1200型 | 5両 | 1201 - 1205号車 | 1942年 | 1970年 | 登場時は2600型(2601 - 2605号車)[31] |
1300型* | 30両 | 1301 - 1330号車 | 1947年 | 1971年[31] | 登場時は3000型(3001 - 3030号車) |
1400型 | 10両 | 1401 - 1420号車 | 1949年 | 1970年 | |
1500型* | 20両 | 1501 - 1520号車 | 1951年 | 1972年 | |
1600型* | 6両 | 1601 - 1606号車 | 1957年 | 1970年 | 800型の改造車 |
事業用車 | |||||
電動貨車* | 25両 | 1 - 15・21 - 30号車 | 1911年 | 1972年[32] | 大半が電動客車、東京市電、300型の改造車・有蓋貨車と無蓋貨車が存在 |
散水車 | 6両 | 1 - 6号車 | 1911年 | 1929年[33] |
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