三溪園
神奈川県横浜市中区にある庭園 ウィキペディアから
神奈川県横浜市中区にある庭園 ウィキペディアから
三溪園(さんけいえん)は、神奈川県横浜市中区本牧三之谷にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって1906年に造園され[1]、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。財団公式サイトでは旧字体の「溪」を使うが、横浜市公式サイトなど新字体で三渓園と表記することも多い。
三溪園 Sankeien Garden | |
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大池と旧燈明寺三重塔
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分類 | 法人経営における公園 |
所在地 | |
座標 | 北緯35度25分1秒 東経139度39分32秒 |
面積 | 175,000m2 |
開園 | 1906年5月1日 |
設計者 | 原三溪(富太郎) |
運営者 | 公益財団法人 三溪園保勝会 |
駐車場 | 80台(バスと兼用) |
公式サイト | https://www.sankeien.or.jp/ |
三溪園は、国の重要文化財建造物10件12棟(移築元:京都府5棟、和歌山県3棟、神奈川県2棟、岐阜県1棟、東京都1棟)、横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、17棟の建築物を有する。三溪園の土地は、原富太郎三渓の養祖父である原善三郎が1868年(明治元年)頃に購入したものである。単に各地の建物を寄せ集めただけではなく、広大な敷地の起伏を生かし、庭園との調和を考慮した配置になっている。園内にある国の重要文化財建造物10件12棟は、全て京都など他都市から移築した古建築である。移築自体に本来の価値に対する評価を投げかける意見もあるが、中には現地で荒廃していた建築物を修復して移築したものも含まれている。
原富太郎は岐阜県出身の実業家で、横浜の原商店に養子として入り、生糸貿易で財を成した。原は事業のかたわら仏画、茶道具などの古美術に関心を持って収集した。平安時代仏画の代表作である『孔雀明王像』(国宝、東京国立博物館蔵)をはじめ、国宝級の美術品を多数所蔵し、日本の美術コレクターとしては、益田孝(鈍翁)と並び称される存在であった。彼は古美術品のみならず、室町時代の燈明寺にあった三重塔をはじめとする京都ほか各地の古建築を購入して移築。庭園も含めて整備を進めていった。1906年(明治39年)5月1日に市民へ公開し、その後も建造物の移築は続けられた。
1923年の関東大震災と太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月10日の横浜空襲で被害を受け、一部の建造物を失った。なお、旧燈明寺本堂、合掌造の旧矢箆原(やのはら)家住宅などは第二次世界大戦後に三溪園へ移築したものである。また大戦中に抑留された連合国側の民間人が、三渓園で抑留所同士の野球の交流戦を行っている。
原富太郎の古美術コレクションは戦後の混乱期に散逸し、建造物だけがかろうじて残った。1953年(昭和28年)に財団法人三溪園保勝会が設立され、再び庭園の整備を行い、今日に至っている。1970年(昭和45年)1月には本牧海岸の埋め立てに伴い、海側に南門が設置された。
1989年(平成元年)9月には内苑の御門そばに、原の業績に関する資料や原自筆の書画・原にゆかりのある作家の作品等を展示する三溪記念館が開館した。2000年(平成12年)には、会議、パーティーなどにも利用できる、鶴翔閣(かくしょうかく、旧原家住宅)を復元した。この建物は横浜市指定有形文化財に指定されている。
毎年、観梅会、観桜の夕べ、蛍の夕べなどの季節に応じた催物を開催している。最近、梅の木は少なくなっており、観梅会はないが、中国からの珍しい「臥竜梅」と「緑萼梅」は数本ある。[2]
公共交通機関を利用する場合は以下の通り。
イベント等の際に根岸駅から無料のシャトルバスが運行されることがある。また、毎年2月末にパシフィコ横浜で行われるカメラ展のCP+の開催時にはパシフィコ横浜から三渓園まで無料のシャトルバスが運行されている[4]。
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