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ジャーナリスト (1863-1957) ウィキペディアから
徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られている。
徳富 蘇峰 | |
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『蘇峰自伝』掲載の写真(1935年) | |
ペンネーム |
菅原 正敬 大江 逸 大江 逸郎 山王草主人 頑蘇老人 蘇峰学人 |
誕生 |
徳富 猪一郎 1863年3月14日 (文久3年1月25日) 肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町) |
死没 |
1957年11月2日(94歳没) 静岡県熱海市 |
墓地 | 多磨霊園 |
職業 |
ジャーナリスト 歴史家 評論家 政治家(貴族院議員) |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 同志社英学校中退 |
活動期間 | 1885年 - 1957年 |
文学活動 |
時事評論 伝記執筆 歴史研究 |
代表作 |
『将来之日本』(1886年) 『吉田松陰』(1893年) 『大日本膨脹論』(1894年) 『時務一家言』(1913年) 『勝利者の悲哀』(1952年) 『近世日本国民史』(1918年 - 1952年) |
主な受賞歴 |
恩賜賞(1923年) 文化勲章(1943年) |
デビュー作 | 『第19世紀日本の青年及其教育』(1885年) |
配偶者 | 徳富静子 |
子供 | 徳富太多雄(長男) |
親族 |
徳富一敬(父) 徳富久子(母) 阿部賢一(三女の夫) 徳富敬太郎(孫) 浜田義文(孫の夫) 竹崎順子(伯母) 横井津世子(叔母) 横井小楠(義叔父) 矢嶋楫子(叔母) 湯浅初子(姉) 徳冨蘆花(弟) 湯浅治郎(義兄) 藤島正健(従兄) 横井時雄(従兄) 海老名みや(従姉) 海老名弾正(義従兄) 久布白落実(姪) 湯浅八郎(甥) |
ウィキポータル 文学 |
蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号に山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。
小説家の徳冨蘆花は実弟である。
1863年3月14日(文久3年1月25日)、肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬の第五子・長男として生れた[1][2][3]。徳富家は代々葦北郡水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」[注釈 1] のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した[1][4]。
蘇峰は、8歳まで水俣(浜村、通称居倉)[5] に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った[6]。1871年(明治4年)から兼坂諄次郎に学んだ。読書の力は漸次ついてきて、『四書』『五経』『左伝』『史記』『歴史網鑑』『国史略』『日本外史』『八家文』『通鑑網目』なども読み、兼坂から習うべきものも少なくなった。1872年(明治5年)には熊本洋学校[7] に入学したが、年少(10か11歳)のため退学させられ、このことはあまり恥辱でもなかったが、大変不愉快な思いを憶えたという[8]。その後1875年(明治8年)に再入学する。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧約聖書』などにふれて西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、1876年(明治9年)、横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった[2][9]。
熊本洋学校閉鎖後の1876年(明治9年)8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都の同志社英学校に転入学した。同年12月に創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け[2]、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった[1]。若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした[1]。
1880年(明治13年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退した[注釈 2]。蘇峰は、こののち東京で新聞記者を志願したがかなわず、翌1881年(明治14年)、帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、寄稿もしてナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している[2]。
1882年(明治15年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設する。1886年(明治19年)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた[2]。その門下には宮崎滔天や人見一太郎らがいる[注釈 3]。
大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれるヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった[10]。1882年(明治15年)夏に上京し、慶應義塾に学ぶ従兄の江口高邦に伴われて福澤諭吉に面会[11]。
蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含むものであった[10]。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』[12] に展開されたが、いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである[2][注釈 4]。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。
蘇峰は1886年(明治19年)の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった板垣退助(自由党総理)を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている[13] [注釈 5]。同書は蘇峰の上京後に田口卯吉の経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して論壇デビューを果たした[9][15]。これが蘇峰の出世作となった。
1887年(明治20年)2月には東京赤坂榎坂に姉・初子の夫・湯浅治郎の協力を得て言論団体「民友社」を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰した。この誌名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『The Nation』から採用したものだといわれている[16]。
民友社には弟の蘆花をはじめ山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南ら政教社の掲げる国粋主義(国粋保存主義)に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、1888年(明治21年)から1889年(明治22年)にかけては、大同団結運動支援の論陣を張った。また、平民叢書第6巻として『現時之社会主義』[注釈 6]を1893年(明治26年)に発刊するなど社会主義思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった[9][18]。
その一方で蘇峰は1888年(明治21年)、森田思軒、朝比奈知泉らとともに「文学会」の発会を主唱した。会は毎月第2土曜日に開かれ、気鋭の文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後に1人ないし2人が文学について語り、また参加者全員で雑談するという会合で、坪内逍遥や森鷗外、幸田露伴などが参加した[19]。
1890年(明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたってオピニオンリーダーとして活躍することとなった[2]。さらに蘇峰は、1891年(明治24年)5月には『国民叢書』、1892年(明治25年)9月には『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東(The Far East)』)を、それぞれ発行している[1]。このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする「随意ノ結合」を説いていた[10]。蘇峰は、『國民新聞』発刊にあたって、
当時予の最も熱心であったのは、第一、政治の改良。第二、社会の改良。第三、文芸の改良。第四、宗教の改良であった。 — 『蘇峰自伝』
と記している[19]。
蘇峰は1891年(明治24年)10月、『国民之友』誌上に「書を読む遊民」を発表している。そこで蘇峰は、中学校(旧制)に進学せず、地方の町村役場で吏員となっている若者や小学校の授業生(授業担当無資格教員)となっている地方青年に、専門的な実業教育を施して生産活動に参画せしむるべきことを主張している[20]。
一方では1889年(明治22年)1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、1894年(明治27年)、対外硬六派に接近して第2次伊藤内閣を攻撃し[注釈 7]、日清戦争に際しては、内村鑑三の「Justification of Korean War」を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。蘇峰は、日清開戦におよび、7月の『国民之友』誌上に「絶好の機会が到来した」と書いた(「好機」)。それは、今が、300年来つづいてきた「収縮的日本」が「膨脹的日本」へと転換する絶好の機会だということである[22]。蘇峰は戦況を詳細に報道、自ら広島の大本営に赴き、現地に従軍記者を派遣した[注釈 8]。 さらに蘇峰は、参謀次長・川上操六、軍令部長・樺山資紀らに対しても密着取材を敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した『大日本膨脹論』を刊行した[24]。
従軍記者として日清戦争後も旅順にいた32歳の蘇峰は、1895年(明治28年)4月のロシア・ドイツ・フランスによるいわゆる三国干渉の報に接し、「涙さえも出ないほどくやしく」感じ[25]、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、国家に対する失望感を吐露した[15]。
蘇峰は、
この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にはほとんど別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足らぬわけゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと確信するにいたった。
— 『蘇峰自伝』
遼東半島の還付(三国干渉)に強い衝撃を受けた蘇峰は、翌1896年(明治29年)より海外事情を知るための世界旅行に出かけた。同行したのは国民新聞社社員の深井英五であった。蘇峰は、渡欧する船のなかで「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民之友』に掲載した[16]。その欧米巡歴は、ロンドンを皮切りにオランダ、ドイツ、ポーランドを経てロシアに入り、モスクワでは文豪レフ・トルストイを訪ねた[注釈 10]。その後、パリに入ってイギリスに戻り、さらにアメリカ合衆国に渡航している[10]。ロンドンでは、『タイムズ』や『デイリー・ニューズ』などイギリスの新聞界と密に接触し、日英連繋の根回しをおこなっている[16]。このころから蘇峰は、平民主義からしだいに強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。
帰国直後の1897年(明治30年)、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任、従来の強固な政府批判の論調をゆるめると、反政府系の人士より、その「変節」を非難された[15][注釈 11]。
蘇峰は「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べているが、田岡嶺雲は蘇峰に対し「一言の氏に寄すべきあり、曰く一片の真骨頂を有てよ。説を変ずるはよし、節を変ずるなかれと」と記して批判し[29]、堺利彦もまた「蘇峰君は策士となったのか、力の福音に屈したのか」とみずからの疑念を表明した[10]。
1898年(明治31年)には『国民之友』の不買運動がおこり、売り上げは低迷した。蘇峰は、この年の8月『国民之友』のみならず『家庭雑誌』『欧文極東』も廃刊して、その言論活動を『國民新聞』に集中させた。なお、蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として政治家と交際し、政界や官界に影響力を持った政客として活動することで政治を動かそうとしたとして肯定的な評価もある[30]。
蘇峰はこののち山縣有朋や桂太郎との結びつきを深め、1901年(明治34年)6月に第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、その艦隊増強案を支持し続け、1904年(明治37年)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した[16]。しかし、1905年(明治38年)の日露講和会議の報道では講和条約(ポーツマス条約)調印について、
と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、9月5日の日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって襲撃を受けた[16]。社の印刷設備を破壊しようとする暴徒と社員が社屋入り口付近でもみ合いとなり、駆けつけた日比野雷風が抜刀してかろうじて撃退している[31]。
1910年(明治43年)、韓国併合ののち、初代朝鮮総督の寺内正毅の依頼に応じ、朝鮮総督府の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。『京城日報』は、あらゆる新聞雑誌が発行停止となった併合後の朝鮮でわずかに発行を許された日本語新聞であった[32][注釈 12]。
翌1911年(明治44年)8月24日には貴族院勅選議員に任じられている[33]。前年5月には大逆事件の検挙が始まり、1911年(明治44年)1月には幸徳秋水ら24人に死刑判決が下った。弟の蘆花は、桂太郎首相に近い蘇峰に対し幸徳らの減刑助命の忠告をするよう求めたが、処刑の執行は速やかにおこなわれたため、間に合わなかった[34]。
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇崩御。蘇峰は明治天皇の死について、
国家の一大秩序は、実にわが明治天皇の御一身につながりしなり。国民が陛下の崩御とともに、この一大秩序を見失いたるは、まことに憐むべきの至りならずや。
1913年(大正2年)1月の第一次護憲運動のさなか桂太郎の立憲同志会創立趣旨草案を執筆している[注釈 13]。 『國民新聞』は大正政変に際しても第3次桂内閣を支持したため、「桂の御用新聞」と見なされて再び襲撃を受けた[1]。『蘇峰日誌』などによれば、このとき国民新聞社社員は活字用の溶解した鉛まで投げて群衆に抵抗し、社員のなかの1名はピストルを発射、それにより少なくとも死者1名、重傷者2名を出し、更に日本刀による応戦で負傷者多数が生じている[38]。
蘇峰は、同年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は「文章報国」を標榜して時事評論に健筆をふるった[9]。1914年(大正3年)の父・一敬の死後は『時務一家言』『大正の青年と帝国の前途』を出版して『将来之日本』以来の言論人に立ち返ることを約した[1]。
第一次世界大戦のさなかに書かれた『大正の青年と帝国の前途』のなかで蘇峰は、特徴的な「大正の青年」について、模範青年、成功青年、煩悶青年、耽溺青年、無色青年の5類型を掲げて論評しており、「金持ち三代目の若旦那」のようなものだと言っている。日清・日露の両戦争に勝利した日本は、独立そのものを心配しなくてはならないような状況は見あたらないから、彼らに創業者(維新の青年)のようにあれと求めても無理であり、彼らが「呑気至極」なのもやむを得ない、と述べたうえで、むしろ国際競争のなかで青年を呑気たらしめている国家のあり方、無意識的に惰性で運行しているかのような国家のあり方が問題なのであり、国家は意識的に国是を定めるべきだと主張した[39]。
1915年(大正4年)11月、第2次大隈内閣は異例の新聞人叙勲をおこなっている。蘇峰は、このとき黒岩涙香、村山龍平、本山彦一らとともに勲三等を受章した[40]。なお、蘇峰の『國民新聞』は立憲政友会に対しては批判的な記事を掲載することが多く、それは第1次西園寺内閣時代の1906年(明治39年)にさかのぼるが、「平民宰相」となった原敬が最も警戒すべき新聞として敵視していたのが『國民新聞』であった[41]。二個師団増設問題の解決をめぐって互いに接近したこともあったが、1918年(大正7年)の原内閣成立後も、原は『國民新聞』に対する警戒を解かなかった[42][注釈 14] [注釈 15]。
1918年(大正7年)5月、蘇峰は「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した[1]。同年7月、55歳となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰のライフワークであり[45]、当初は明治初年以降の歴史について記す予定であったが、明治を知るには幕末、幕末を知るには江戸時代が記されなければならないとして、結局、織田信長の時代以降の歴史を著したものとなった[46]。『近世日本国民史』は、東京の大森(現大田区)に建てられた「山王草堂」と名づけた居宅(現在の山王草堂記念館)で執筆された。山王草堂には、隣接して自ら収集した和漢の書籍10万冊を保管した「成簀堂(せいきどう)文庫」という鉄筋コンクリート造、地上3階、地下2階の書庫が建てられた[46][47]。
1923年(大正12年)には10巻を発表した段階で『近世日本国民史』の業績が認められ、帝国学士院の恩賜賞を受賞した[48]。この年は9月1日に関東大震災が起こっているが、その日神奈川県逗子にいた蘇峰は、周囲が津波に襲われるなか、庭先で『近世日本国民史』の執筆をおこなっている[46]。
1925年(大正14年)6月、蘇峰は帝国学士院会員に推挙され、その任に就いた。また、同年、皇室思想の普及などを目的とする施設「青山会館」が、蘇峰の寄付によって東京・青山に完成している。
ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえている[49]。1927年(昭和2年)、弟の蘆花が死去。1928年(昭和3年)には蘇峰の「文章報国40年祝賀会」が青山会館で開催されている。
帝国学士院会員としては、1927年(昭和2年)5月に「維新史考察の前提」、1928年(昭和3年)1月に「神皇正統記の一節に就て」、1931年(昭和6年)10月には「歴史上より見たる肥後及び其の人物」のそれぞれについて進講している[1]。
なお、関東大震災後に国民新聞社の資本参加を求めた根津嘉一郎が副社長として腹心の河西豊太郎をすえると根津と河西のあいだに確執が深まり、1929年(昭和4年)、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社した[50]。その後は、本山彦一の引きで大阪毎日新聞社・東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。
1931年(昭和6年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズムないし皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」[注釈 16]、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。
1935年(昭和10年)に『蘇峰自伝』、1939年(昭和14年)に『昭和国民読本』、1940年(昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、この間、1937年(昭和12年)6月に帝国芸術院会員となった。1940年(昭和15年)9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、1941年(昭和16年)12月には東條英機首相に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔勅を添削している。
1942年(昭和17年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は内閣情報局職員の立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれた。ここでは、皇国史観で有名な東京帝国大学教授・平泉澄や、京都帝国大学の哲学科出身で京都学派の高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高らの発言権が大きかった[52]。
1943年(昭和18年)4月に蘇峰は、三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年に蘇峰は80歳となり、三叉神経痛や眼病を患うようになったが、『近世日本国民史』の執筆は病気をおして継続している[46][注釈 17]。1944年(昭和19年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。
1945年(昭和20年)7月にポツダム宣言が発せられたが、蘇峰は受諾に反対。昭和天皇の非常大権の発動を画策したが、実現しなかった。
1945年(昭和20年)9月、自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、同年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部の逮捕命令対象者のリストに名を連ねた(A級戦犯容疑の第三次逮捕者59名中の1人)[54]が、老齢と三叉神経痛のために自宅拘禁とされ、後に不起訴処分が下された。公職追放処分を受けたため、1946年(昭和21年)2月23日に貴族院勅選議員などの公職を辞して静岡県熱海市に蟄居した。また同年には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして文化勲章を返上した。1948年(昭和23年)12月7日、妻の静子が死去。熱海に蟄居となったこのころの蘇峰は、さかんに達磨画を描いている。
蘇峰は終戦後も日記を書き続けており[注釈 18]、その中で、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている[注釈 19]。
1951年(昭和26年)2月、終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、1952年(昭和27年)4月20日、ついに全巻完結した。『近世日本国民史』は、史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書であり、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされている。高齢のため、98巻以降は口述筆記された[46]。平泉澄の校訂により時事通信社で刊行されたが、100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の1963年(昭和38年)、孫の徳富敬太郎の手によってなされた[46]。
1952年(昭和27年)9月『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版、1954年(昭和29年)3月から1956年(昭和31年)6月まで『読売新聞』紙上に明治・大正・昭和の人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者の悲哀』では、近代アメリカ外交を批判すると同時に日本人にも反省を求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰の死後、『三代人物史』と改題されたうえで刊行された。
1954年(昭和29年)には山中湖畔の双宜荘を同志社に寄贈し[56]、翌年11月に行われた同志社創立80周年記念式にも老躯を押して出席するなど[57]、同志社との関わりは生涯にわたって続いた。
1957年(昭和32年)11月2日、熱海の晩晴草堂で死去。享年95(満94歳没)。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。葬儀は東京の霊南坂教会でおこなわれた。墓所は東京都立多磨霊園にある。
思想家、言論人としての蘇峰は、その思想の振幅が大きく、行動が変化に富み、活動範囲も多岐にわたるため、その全体像をつかむのは容易ではない[15]。蘇峰自身も、
維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり。
と述べている(「日本国民の活題目」、『国民の友』第263号)。それについて、「変節漢」あるいは時流便乗派という否定的な評価があることも事実であり、終戦後の1946年(昭和21年)に同志社大学学長となった田畑忍は蘇峰に向かって「どうぞ先生、もう一度民主主義者になるような、みっともないことをしないでください」と述べたという[58]。
それに対し、松岡正剛は、敬虔なクリスチャン、若き熊本の傑物、平民主義者、国民主義者、皇室中心主義者、大ジャーナリスト、文章報国に生きた言論人、そのいずれでもあったが、しかし、そのなかのどれかひとつに偏った人ではなかった、そして、歴史の舞台の現場から退くということのなかった人であると評価している[10]。
戦前における国権主義的な言論活動については評判が悪く、戦後の日本史学界では、上述の蘇峰「日本国民の活題目」にみられるような情勢判断こそが近代日本のアジア進出さらには軍国主義の台頭を許した元凶ではないかとする見解が少なくない[10]。
その一方で、久恒啓一は蘇峰が人びとにあたえた影響力の大きさを「影響力の広さ×影響力の深さ×影響力の長さ」で示すならば、蘇峰は近代日本社会にきわめて大きな影響をあたえた人物にほかならないとしている[15]。
近代日本思想史を語るうえで重要な、三国干渉後の「蘇峰の変節」については、今日では仮に軽挙妄動の部分があったとしても決して蘇峰自身の内部では思想上の変節ではなかったとする評価が力を得ており、こうした見解は海外の研究者であるジョン・ピアーソン(1977年)、ビン・シン(1986年)によって示されている。すなわち、かれらは蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、上述「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに疑義を呈している[10]。
歴史家としての名声は山路愛山とならび、特にその史論が高く評価される[9]。
史書『近世日本国民史』は民間史学の金字塔と呼ぶべき大作である。蘇峰は歴史について、こう語っている[59]。
所謂過去を以て現在を観る、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞であり、新聞は明日の歴史である。従つて新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべしとするものである。
『近世日本国民史』は、第1巻「織田氏時代 前編」から最終巻までの総ページ数が4万2,468ページ、原稿用紙17万枚、文字数1,945万2,952文字におよび、ギネスブックに「最も多作な作家」と書かれているほどである[46]。『近世日本国民史』の構成は、
の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている[10]。
蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。しかし蘇峰は、「御一新」は未完のままあまりに短命に終息してしまったとみており、日本の近代には早めの「第二の維新」が必要であると考えた。それゆえ、蘇峰の思想には平民主義と皇国主義が入り混じり、ナショナリズムとグローバリズムとが結合した。なお、この件について松岡正剛は、蘇峰はあまりにも自ら立てた仮説に呑み込まれたのではないかと指摘している[10]。
蘇峰は執筆当初、頼山陽の『日本外史』(22巻、800ページ)を国民史の分量として目標としていた。しかし、結果的には林羅山・林鵞峰の『本朝通鑑』(5,700ページ)や徳川光圀のはじめた『大日本史』(2,500ページ)の規模を上まわった[46]。
『近世日本国民史』の第十八巻は元禄赤穂事件にあてられている。義士否認論では佐藤信方らの見解を記すとともに、「吉良を故君の仇と思ふは愚の至り」と思想も述べられる[60]。但し、「大石の放蕩は敵を欺く為の計略といふ深慮遠謀などではなく、只の救い難き好色による処である」「寺坂の離脱は密命を帯びた為でなく、単に臆病だった為」等の独断による主観的な赤穂義士への悪口も散見される。
同書の最終巻は西南戦争にあてられている。その後の日本が興隆にむかったため西郷隆盛は保守反動として片づけられがちであるが、蘇峰は西郷をむしろ「超進歩主義者」とみており、一身を犠牲にした西郷率いる薩摩軍が敗北したことによって、人びとは言論によって政権を倒す方向へと向かったとしている[61]。
杉原志啓によれば、アナキストの大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、正宗白鳥、菊池寛、久米正雄、吉川英治らによっても愛読されていた。松本清張は歴史家蘇峰を高く評価しており、遠藤周作も『近世日本国民史』はじめ蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたという[62]。
蘇峰は、『近世日本国民史』を執筆しながら「支那では4,000年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のために国が滅びる」として、同書完成のあかつきには支那史(中国史)を書きたいとの意向を示していたという[53]。
蘇峰は死ぬまで昭和維新、日本国憲法第9条、朝鮮戦争等のそれぞれの事象について、つねに独自の見解、いわば「蘇峰史観」をもっていた。その意味で蘇峰は松岡正剛によれば、日本近現代史においてはきわめて例外的な「現在的な歴史思想者」であったとしている[10]。
蘇峰が1916年(大正6年)に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は約100万部にのぼった。当時のベストセラー作家だった夏目漱石の『吾輩は猫である』は、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)に出版し、1917年(大正6年)までに1万1,500部(初版単行本の大蔵書店版)であるから、その影響力の大きさがわかる[16]。
蘇峰は朝比奈知泉、福地源一郎(桜痴)、陸羯南などと同様、当時のメディアをリードした傑出した編集者であり記者であったが、その本質は政客的存在に近いものであった。社内では経営権をもち、創立者でもあることから広汎な自律性と裁量権を有するが、ゆえに一方で経営上・編集上の責任を負い、場合によっては政界の力を必要することもあった[63]。逆言すれば、蘇峰・桜痴・羯南らは、いわばみずから組織をつくりあげたことで政治的存在となったのであり、後年の「番記者」のごとく既存の組織に属することによって活動して自らの地位を築いたのではなかった[64]。当時にあっては、「国民新聞の蘇峰」というよりは「蘇峰の国民新聞」だったのである。その意味で、蘇峰らは「純粋な新聞界の住人というよりは政界と新聞界の両棲動物で、現住所は政界に近い」[63] と評される[注釈 20]。しかし蘇峰は、生涯にわたって、みずから一記者であることを「記す者」という本来の意味において誇りに思っていた[10]。
蘇峰は、新聞・雑誌のみならず、講演者としても活躍した。日本各地で数多くの講演をおこない、数百人、場合によっては1,000人をこえる聴衆を集め、つねに盛況だったといわれる[15]。
蘇峰の交友範囲は広く、与謝野晶子、鳩山一郎、緒方竹虎、佐佐木信綱、橋本関雪、尾崎行雄、加藤高明、斎藤茂吉、土屋文明、賀川豊彦、島木赤彦らの名前を掲げることができる[46]。また、後藤新平[13]、勝海舟、伊藤博文、森鷗外、渋沢栄一、東条英機、山本五十六、正力松太郎、中曽根康弘とも交遊があった。そこにイデオロギーや職業の違いはなく、あらゆるジャンル、年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望、大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している[46]。
親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の短歌を詠んでいる[46]。
- わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
- 高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪
神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の書簡が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている[66]。『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身も『蘇翁言志録』(1936年)で、
ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なり。
と述べるように、書簡を大切なものと考えていた[13]。
蘇峰自身も手紙魔であり、朝食前に20本もの書簡を書いていたというエピソードがある[15]。
徳富蘇峰記念館所蔵の書簡は、館員の高野静子による解説(正・続)が出版。
『蘇峰とその時代-そのよせられた書簡から』(1988年)では、勝海舟、新島襄、徳富蘆花、坪内逍遥、森鴎外、山田美妙、内田魯庵、中西梅花、幸田露伴、森田思軒、宮崎湖処子、志賀重昂、佐々城豊寿、酒井雄三郎、小泉信三、松岡洋右、中野正剛、大谷光瑞などとの書簡が、、紹介されている。
『続 蘇峰とその時代-小伝鬼才の書誌学者 島田翰』(1998年)では、島田翰、与謝野晶子、与謝野鉄幹、吉屋信子、杉田久女、夏目漱石、竹崎順子(伯母)、徳富久子(母)、徳富静子(妻)、矢島楫子(叔母)、潮田千勢子、植木枝盛、依田學海、野口そ恵子、吉野作造、滝田樗陰、麻田駒之助、菊池寛、山本実彦、島田清次郎、賀川豊彦、が紹介されている。
平成22年(2010年)には、高野静子編『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』が出版された(各・下記参照)。
祖父は辛島鹽井の高弟で津奈木手永御惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。
父は幕末維新期に肥後で開明思想家として活躍した徳富一敬で、藩政改革に際し雑税免除の大減税令を発した人物である。他地域では一敬のおこなった「肥後の大減税」を目標に百姓一揆が起こっている。一敬は93歳の長寿をまっとうした。一敬は横井小楠の第一の門弟であり、坂本龍馬が小楠を訪ねた時にも同席し、その様子を書き留めている。父方の伯父に一義、高廉、昌龍、伯母にますも、はるがいる。
母久子は上益城郡杉堂の矢嶋家出身で、禁酒運動家として活躍した。久子は91歳まで生きている[67]。久子の姉・順子(竹崎順子)は熊本女学校(現熊本フェイス学院高等学校)の設立者で熊本における女子教育の先駆者、妹のつせ子(津世子)は横井小楠の妻で、同志社大学の基礎をきずいた海老名みや子の母である。禁酒・廃娼を主張して婦人矯風会を設立した矢嶋楫子も久子の妹で、久子は楫子の矯風運動を支援している[68]。順子・久子・つせ子・楫子の4姉妹は四賢婦人と称されている[69]。久子たち姉妹の兄である矢嶋源助は小楠の第二の門弟であり、順子の夫である竹崎律次郎もまた小楠の門弟であった。姉妹の長姉である藤島茂登子は熊本藩士藤島昌和の妻で、富山県・千葉県の官選知事を務めた藤島正健の母である。
妻は静子(旧姓は倉園)。蘇峰は妻思いで知られ、講演など全国どこへ行くのにも彼女を同伴したといわれる[46]。
子は、静子とのあいだに男子は太多雄、萬熊(万熊)、忠三郎、武雄、女子は逸子、孝子、久子、直子、盛子、鶴子がいる。鶴子は一時期蘇峰の弟蘆花の養女となった。
蘇峰の長男・太多雄は、弟の萬熊・武雄らと共に東京府立第一中学校卒業。1912年(明治45年)に海軍兵学校を卒業し(海兵40期)海軍士官となるが、1931年(昭和6年)9月9日、42歳で亡くなっている[67]。最終階級は海軍中佐。
太多雄には3男2女がいたが、太多雄の死後は蘇峰が父親代わりとなり、太多雄の未亡人・美佐尾を援け、5人の孫の教育をした。
弟は小説家の徳冨蘆花(詳細後述)。姉の初子は政治家の湯浅治郎の後妻となった。初子は、日本で初めて男女共学による教育を受けた女性で、叔母同様、禁酒・廃娼運動家として活動した。治郎と初子との間には昆虫学者の湯浅八郎らが生まれている。初子の上に、常子、光子、音羽の姉がおり、蘆花のほかに夭逝した弟・友喜がいた。
小説『不如帰』で知られる5歳年下の弟・徳冨蘆花は、1903年(明治36年)に兄への「告別の辞」を発表して絶交。何かにつけて兄に反発していたが、大逆事件では幸徳秋水らの減刑について兄に取りなしを頼んでいる。この件は失敗に終わり、蘆花はその直後第一高等学校で「謀叛論」と題する有名な講演をおこなっている。これ以後、兄弟は長いあいだ疎遠な状態がつづいた。
1927年(昭和2年)、蘆花が群馬県伊香保で病床に就いた際に再会する。蘇峰が「おまえは日本一の弟だ」と話しかけると、蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうかいままでのことは水に流してくれ」と泣きながら訴えており、周囲の人に深い感動をあたえている[46]。臨終の席で蘆花は兄に「後のことは頼む」と言い残して亡くなったといわれる[70][注釈 21]。
久恒啓一は、1人の人物について5つもの「記念館」が存在することは他に例をみないとして蘇峰の偉業を称えている[15]。そのうちの2館は旧宅、1館は生家である母の実家である。
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