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日本の政治学者 (1859-1946) ウィキペディアから
浮田 和民(うきた かずたみ、安政6年12月28日(新暦1860年1月20日) - 昭和21年(1946年)10月28日)は、日本の思想家・政治学者。法学博士、早稲田大学高等師範部長。同志社英学校最初の卒業生。熊本バンドの一人。
軍人の石光真清、石光真臣兄弟は従兄弟にあたる。和民の母は栃原知定の姉、先妻・末、後妻・五女は共に下村孝太郎の妹である。長女・操は原安三郎の妻、次女・恵美子の子は若林貴世志、三女・東子の子は浮田克躬。外交官の浮田郷次は甥[1]。
熊本藩の下級武士の三男として生まれる。幼名は栗田亀雄。11歳の時に浮田姓を名乗る[2]。生家は宇喜多秀家の末裔であると言い伝えられている[3]。 熊本洋学校でL.L.ジェーンズの薫陶を受け、キリスト教に入信する。熊本洋学校が閉校になると、開校間もない同志社英学校に転じ、D.W.ラーネッドからの影響を受けた。なお、浮田は同志社の初期卒業生の中で新島襄との関わりが最も薄かったとされる[4]。
卒業後しばらくは牧師を務めたが短期間で辞め、日本最初のキリスト教雑誌『七一雑報』『六合雑誌』の編集に携わる[5]。その後、約11年間母校の教員を務め(その間イェール大学に2年間留学)、同志社政法学校では政治学、国家学、憲法講義などを担当する。明治30年(1897年)、アメリカン・ボードと同志社の分離独立問題をめぐる学内紛争により同志社を辞職。
東京専門学校(現早稲田大学)に移籍する。早稲田に移籍後は山田一郎、高田早苗、安部磯雄らと共に早稲田政治学の基礎を形成。また総合雑誌『太陽』の編集主幹として活躍。当時の若者に大きな影響を与える。「内に立憲主義、外に帝国主義」という「倫理的帝国主義」を標榜しており、のちの民本主義につながる理論を最初に提唱したのは浮田であるとされ、吉野作造の民本主義は彼の理論を受け継いだものだと言われている。大隈重信のブレーンでもあった彼を評して坪内逍遥は浮田を「早稲田の至宝」と呼んだ。墓所は多磨霊園。
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