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明治から大正初期の評論家、歴史家 ウィキペディアから
山路 愛山(やまじ あいざん、元治元年12月26日(1865年1月23日) - 大正6年(1917年)3月15日)は、日本の明治から大正初期に活躍した評論家、歴史家。本名は彌吉。愛山はその号である。初め如山と号したが、静岡の愛鷹山に由来する愛山の名は明治20年(1887年)頃から用いられた。
幕臣・山路一郎の子として、江戸淺草の天文屋敷に生まれた。山路家は幕府の天文方を代々歴任した。最後の天文方の一人山路彰常(金之丞)は祖父にあたる。愛山の母である奥留種敏の娘・けい子は彰常の従妹(一郎から見れば大叔母の娘)にあたった。
慶応3年(1867年)に母が病死する。翌年、一郎は幕府方として彰義隊に加わり、上野戦争に従軍する。さらに、箱館に転戦し箱館戦争に従軍する。政府軍と戦うが、降伏し捕虜になる。釈放されて後、祖父母とともに静岡に移った。
戊辰戦争に敗れた失意の中で、一郎は酒癖が悪く、家庭を省みなかったため、愛山は幼くしてみずから家を支えなければならなかった。愛山は初め奥村孚について漢学を修め、静岡警察署の雇吏となりつつ、学問を好み倦むところを知らなかったという。
カナダ・メソジスト教会監督・平岩愃保、宣教師D・マクドナルドらに英語を学び、キリスト教に入信した。静岡教会に所属し、静岡バンドの一員になる。
明治19年(1886年)10月31日 静岡教会で平岩愃保牧師より高木壬太郎らとともに洗礼を受ける[4]。
明治21年(1888年)2月には『國民之友』が創刊される。『國民之友』に有名な徳富蘇峰の「嗟呼國民之友生れたり」が掲載された。
愛山は「これを越前福井の足羽山上に読み、山に上り山を下るの間遂に山光水色の何たるを知るに及ばなかつた」と言い大きな影響を受けたという。同年、上京して東洋英和学校神学部に入り神学教育を受ける。卒業の後、静岡教会で伝道師として3年働いた。この間初めて愛山の名で『女學雑誌』に投書した。
ふたたび上京し、徳富蘇峰の知遇を得、民友社に入り、『國民新聞』記者として、政治および史論に筆をとった。主として『國民之友』『國民新聞』に筆をふるい、キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の主筆であった。
明治23年(1890年)東洋英和学校神学部を卒業[4]。柳田國男らと共に、慶應義塾大学部文学科史学科教授に就任。のちの『三田文学』創刊にも携わる。
明治24年(1891年)キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の最初の主筆となる[4]。
明治26年(1893年)には民友社より『荻生徂徠』を、翌27年(1894年)には『新井白石』を刊行。
明治30年(1897年)に、末松謙澄が主宰する毛利家の『防長回天史』編集所に入り、その編集主任となった。この時、一緒になったのが堺利彦(枯川)で、以後親しい友人となった。
明治31年(1898年)4月9日、信濃毎日新聞より主筆として招聘された。愛山は、信州人の豪放な気質を心から愛し、死の直前には「我らの信州に住み若くは信州に来往したること足掛十九年なり」と述懐している。
明治33年(1900年)には『高山彦九郎』を、翌34年(1901年)には『青年立身録』『読史論集』を刊行。明治35年(1903年)には『懺悔』を刊行。同年には信濃毎日新聞をやめて上京、1月より雑誌『獨立評論』を創刊した。
創刊号には、内村鑑三への公開状ともいうぺき「余は何故に帝国主義の信者たる乎」が掲載された。これは内村が明治28年(1895年)に発表していた「余は如何にして基督信徒となりし乎」をもじった題であった。
内村はこの愛山の公開状に対して『正教新報』において、『獨立評論』第1号の書評を試みつつこの論文に言及し、愛山を徳富蘇峰とともに「君子豹変の実例」ときめつけた。内村は日清戦争については「義戦」として評価していたが、その後の戦禍について平和主義に傾き、日露戦争開戦前には非戦論を主張していた。
明治37年(1904年)2月、日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し、「草木皆兵」を論じ、愛国心の鼓舞につとめた。4月には『戦争に於ける青年訓』を刊行した。
明治38年(1905年)2月には『孔子論』を出版。以降41年に至るまで中国思想史に関する論文が連続『獨立評論』に掲載されている。
明治38年(1905年)8月には、斯波貞吉、中村大八郎らと「国家社会党」を創立した。その宣言書には、古代における我国の皇室が或る意味における社会主義の実行者であると説き、「我国民は宜しく皇室の力に依りて官費の専横を抑制すべし」と論じた。この年、三男の山路平四郎誕生。
明治39年(1906年)3月には旧友の堺利彦がつくった日本社会党と共同戦線を張って、東京市内電車の電車賃値上反対運動をおこなったが、国家社会党はこれだけで自然消滅したようである。同年6月には『社会主義管見』を発表したが発禁となった。国体論と社会主義の野合として、北一輝は痛烈な批判を加えている。
明治40年(1907年)、『支那思想史・日漢文明異同論』を発表。
明治41年(1908年)以降は、雑誌『太陽』に人物月旦の筆をとり、また『國民雑誌』の主筆として活動した。同年5月、『現代金権史』発表。
明治42年(1909年)には『足利尊氏』『加藤清正』『豊太閤』『源頼朝』、翌43年(1910年)には『西郷隆盛』 など英雄列伝を発表。明治43年(1910年)10月に『武家時代史論』、翌44年(1911年)5月『勝海舟』、同8月に『佐久間象山』を発表している。
明治45年(1912年)1月『國民雑誌』誌上で、唯物史観をめぐって、山路と堺利彦との間で論争があった。『國民雑誌』2月1日に「唯物的歴史観―堺枯川君に与ふる公開状」を発表し、堺が次号に反批判を発表した。同年には『伊達騒動記』『加賀騒動記』の御家騒動叢書を刊行。
大正2年(1913年)、『為朝論 附・義経論』『日本歴史 家庭講話』『書斎独語』『愛山史論』を刊行。同年頃より未完の『日本人民史』の著作の準備をはじめ、『獨立評論』を再興し、その言論活動は晩年まで活発であった。大正3年(1914年)には『偉人論』 『岩崎弥太郎』 『現代富豪論』、同4年(1915年)には『徳川家康』 を刊行。
同年、丹毒で一時危篤となるがその後回復した。
大正5年(1916年)『支那論』 発表。同年秋に『信濃日々新聞』が発刊されると、これに主筆として多大の援助を与えた。 大正6年(1917年)3月15日、疫痢に心臓病を併発し死去[5]。享年54。葬儀の司式は平岩愃保、葬儀場は高木壬太郎が当時院長だった青山学院講堂であった。死のほぼ一時間前に、「這(この)娑婆はとても去られぬ世なれども生れぬ先の國へ行かなむ」の辞世を残した[6]。同年5月には『世界の過去現在未来』 が刊行された。墓所は青山霊園(1イ-7-4乙)
山路愛山の文学観は、明治26年(1893年)に北村透谷との間に展開された論争に見られる。愛山は、『国民之友』に掲載した「頼襄を論ず」(頼山陽を論じた)の中で「文章即ち事業なり。……若(も)し世を益せずんば空の空なるのみ。(中略)文章は事実なるがゆえに崇むべし」と論じた[7]のに対し、透谷は自身が主催する『文学界』に寄稿した「人生に相渉るは何の謂ぞ」の中で「〔愛山は〕「史論」と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻りに純文学の領地を襲わんとす[8]」と反発し、文学者が史論家のように「事業」をなすために文を作るのではないこと、「勝利」を至上目的にするわけではないことを弁護しようとしたのである。この愛山と透谷の論争は、透谷の評論から「人生相渉論争」と呼ばれる[7][9]。
この論争は、愛山が文学と政治を同一視し、さらには個人と国家の目的を分けようとしないこと、思想とは行動を引き起こさなければ無益であると考えていることを示した。
キリスト教に対する愛山の態度もこの通りであり、「余は正義と人情とを世界に植ゆる最後の手段はただ腕力に頼るの外なきを信ずる者なり」と考えていた。愛山の宗教上の模範は、鉄騎隊を率いたクロムウェルである。
平和にして無為な宗教ではなく、事業と行動を伴い思想を剣で強要する宗教である。このようにしてかれにとって帝国主義や社会主義は、国民を一致団結させ国家に事業を興させる手段であり、マキャヴェッリのように、祖国のために個人の意志は吸収され、国家そのものが崇拝の対象となる。
内村鑑三と同様、イギリスの思想家トーマス・カーライルに影響を受けた[10]。カーライルは1881年に没したが、没後間もない明治20年代半ば(1880年代後半)には民友社で平田久『カーライル』が、丸善で石田羊一郎ほか訳『英雄崇拝論』が出版され、同書は詩人・土井晩翠訳が、春陽堂より明治31年(1898年)に刊行している。
実学として歴史を考えた愛山には、「古は猶今の如く、今は猶古の如く、人生は同じ法則に因りて動き、國は同じ運命を循環して盛衰する」という信念があった。従って歴史上の偉人は模範としての個人であって、時代をもっともよく表現し、ヘーゲルの絶対精神のような存在であった。
愛山の史論は、荻生徂徠の『政談』を経て、マキャヴェッリの『ディスコルシ』のような政論とも比べられる。史実に関する博学・考証より、歴史人物のうちに生動する時代の本質への洞察を尊ぶ。時代への感情移入と、政論家としての国家独立への志が、徳富蘇峰をして「もし君の勝ち場を求めば、史論に如くはなし」といわせた叙述となった。
思想・政治は、愛山にとって「密着して離れざるもの」であり、歴史をそうした全体として考え、経済社会の背景にも特に関心を払っていた。明治42年(1909年)『太陽』に掲載された「日本現代の史学及び史家」のなかで、歴史を経済の観点から見る新しい傾向に期待を寄せ、「此の如き研究方法は即ち新しき目を以て過去を読むものにして、将来の史学はおそらくは此の傾向に依りて新時期を作るに至らんか」と言っている。
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