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原義・古代的には全学術(の根底)であり、近代・現代的には文化系学術(主に美学、倫理学、認識論) ウィキペディアから
哲学(てつがく、フィロソフィー[1]、英: philosophy[1][注 1])とは、存在や理性、知識、価値、意識、言語などに関する総合的で基本的な問題についての体系的な研究であり、それ自体の方法と前提を疑い反省する、理性的かつ批判的な探求である。
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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによれば、哲学は思想を論理的に浄化する活動それ自体のことをいう[2]。
歴史上、物理学や心理学など、多くの個別的な科学が哲学の一部から発生した。
哲学の主要な分野としては、認識論、倫理学、論理学、そして形而上学が挙げられる。認識論では、知識とは何かという問題と、どのようにして知識を得ることができるかという問題について研究する。倫理学では、道徳的な原則と、正しい行いを構成するものは何かということについて研究する。論理学では、正しい推論についての研究と、良い論証と悪い論証をどのように見分けることができるかについての研究を行う。形而上学は、現実や存在、客体と属性の最も一般的な特徴についての検討を行う。哲学のその他の分野としては、美学、言語哲学、心の哲学、宗教哲学、科学哲学、数学の哲学、歴史哲学、政治哲学などが挙げられる。これらそれぞれの分野において、異なった原理や理論、方法を推し進める学派が存在する。
哲学を行う者は哲学知を得るために多くの方法を用いる。例えば、概念分析、コモン・センスや直観を頼ること、思考実験、自然言語の分析、現象を記述すること、批判的問いかけなどである。哲学は、科学、数学、ビジネス、法、ジャーナリズムなど、様々な分野と関連する。哲学は学際的な視点を提供し、様々な分野における基本的な概念とそれらの分野の範囲を研究し、それらが用いる方法やその倫理的意味合いについても研究する。
歴史上、影響力のある哲学の伝統としては、西洋哲学、アラブ・ペルシア哲学、インド哲学、中国哲学などがある。西洋哲学は古代ギリシアに起源を持ち、哲学における幅広い下位分野をカバーする。アラブ・ペルシア哲学における主要なトピックは理性と啓示の関係であり、インド哲学はどのようにして悟りに達するかの精神的な問題と、現実の本質や知識にたどり着く方法の探求を結びつける。中国哲学は主に正しい社会的行動や統治、そして自己修養に関する実践的な問題に焦点を置く。
「哲学」は英語で「フィロソフィー」といい、語源は古典ギリシア語の「フィロソフィア」に由来する。直訳すれば「知を愛する」という意味である。「哲学」という日本語は、明治時代に西周がフィロソフィーに対してあてた訳語である[4][5]。
古典ギリシア語の「フィロソフィア(古希: φιλοσοφία、philosophia、ピロソピアー、フィロソフィア)」という語は、「愛(友愛)」を意味する名詞「フィロス(古希: φίλος)」の動詞形「フィレイン(古希: φιλεῖν)」と、「知」を意味する「ソフィア(古希: σοφία)」が合わさったものであり、その合成語である「フィロソフィア」は「知を愛する」「智を愛する」という意味がある[4][5]。この語はヘラクレイトスやヘロドトスによって形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが[6]、名称として確立したのはソクラテスまたはその弟子プラトンが、自らを同時代のソフィストと区別するために用いてからとされている。
古典ギリシア語の「フィロソフィア」は、古代ローマのラテン語にも受け継がれ、中世以降のヨーロッパにも伝わった。20世紀の神学者ジャン・ルクレール(en:Jean Leclercq)によれば、古代ギリシアのフィロソフィアは理論や方法ではなくむしろ知恵・理性に従う生き方を指して使われ、中世ヨーロッパの修道院でもこの用法が存続したとされる[7]。一方、中世初期のセビリャのイシドールスはその百科事典的な著作『語源誌』(羅: Etymologiae)において、哲学とは「よく生きようとする努力と結合した人間的、神的事柄に関する認識である」と述べている[8]。
日本で現在用いられている「哲学」という訳語は、大抵の場合、明治初期の知識人西周によって作られた造語(和製漢語)であると説明される[9][10][11][12][4][5]。少なくとも、西周の『百一新論』(1866年ごろ執筆、1874年公刊)に「哲学」という語が見られる[注 3][13]。そこに至る経緯としては、北宋の儒学者周敦頤の著書『通書』に「士希賢」(士は賢をこいねがう)という一節があり[14][13]、この一節は儒学の概説書『近思録』にも収録されていて有名だった[15]。この一節をもとに、中国の西学(日本の洋学にあたる)が「賢」を「哲」に改めて「希哲学」という語を作り、それをフィロソフィアの訳語とした[11]。この「希哲学」を西周が借用して、さらにここから「希」を省略して「哲学」を作ったとされる[11][注 4]。西周は明治政府における有力者でもあったため、「哲学」という訳語は文部省に採用され、1877年(明治10年)には東京大学の学科名に用いられ[5][9]、1881年(明治14年)には『哲学字彙』が出版され、以降一般に浸透した[13]。なお、西周は「哲学」以外にも様々な哲学用語の訳語を考案している[注 5]。
「哲」という漢字の意味(および同義字)は「賢人・知者(賢)、事理に明らか(明)、さとし(敏)」などがある[16]。字源は「口」+音符「折」からなる形声文字である[17]。
「哲学」という訳語が採用される以前、日本や中国では様々な訳案が出されてきた[12]。とりわけ、儒学用語の「理」あるいは「格物窮理」にちなんで、「理学」と訳されることが多かった。
17世紀・明末の中国に訪れたイエズス会士ジュリオ・アレーニ(艾儒略)は、西洋の諸学を中国語で紹介する書物『西学凡』を著した。同書のなかでフィロソフィアは、「理学」または「理科」と訳されている[12][18]。
日本の場合、幕末から明治初期にかけて、洋学(西洋流の学問一般)とりわけ物理学(自然哲学)が、「窮理学」と呼称されていた[9]。例えば福沢諭吉の『窮理図解』は物理学的内容である。一方、中江兆民はフィロソフィアを「理学」と訳した[9][18]。具体的には、兆民の訳書『理学沿革史』(フイエ Histoire de la Philosophie の訳)や、著書の『理学鉤玄』(哲学概論)をはじめとして、主著の『三酔人経綸問答』でも「理学」が用いられている。ただし、いずれも文部省が「哲学」を採用した後のことだった[9]。なお、兆民は晩年の著書『一年有半』で「わが日本古より今に至るまで哲学なし」と述べたことでも知られる[19]。
上記の中国清末民初の知識人の間でも、「哲学」ではなく「理学」と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった[20][21]。
「理学」が最終的に採用されず、「哲学」に敗れてしまった理由については諸説ある。上述のように「理」は既に物理学に使われていたため、あるいは「理学」という言葉が儒学の一派(朱子学・宋明理学)の同義語でもあり混同されるため、あるいはフィロソフィアは儒学のような東洋思想とは別物だとも考えられたため、などとされる[9][21]。上記の西周や桑木厳翼も、本来は「理学」と訳すべきだが、そのような混同を避けるために「哲学」を用いる、という立場をとっていた[22][13]。
明治哲学界の中心人物の一人・三宅雪嶺は、晩年に回顧して曰く「もしも旧幕時代に明清の学問(宋明理学と考証学)がもっと入り込んでいたならば、哲学ではなく理学と訳すことになっていただろう」「中国哲学・インド哲学という分野を作るくらいなら理学で良かった」「理学ではなく哲学を採用したのは日本の漢学者の未熟さに由来する(漢学は盛んだったがそれでもまだ力不足だった)」という旨を述べている[9][12]。
英語をはじめとした多くの言語で、古希: φιλοσοφίαをそのまま翻字した語が採用されている。例えば、羅: philosophia、英: philosophy、仏: philosophie、独: Philosophie、伊: filosofia、露: философия、阿: falsafahなどである。
漢語の本場である中国では、西周による「哲学」が、逆輸入されて現在も使われている[10]。経緯としては、清末民初(1900年代前後)の知識人たちが、同じ漢字文化圏に属する日本の訳語を受容したことに由来する[23][24]
哲学の実践には、複数の一般的な特徴があるとされる。すなわち、理性的な探究の一形態であること、体系的であることを目指すこと、そしてそれ自体の方法と仮定を批判的に考える傾向があるということである[25]。加えて、人間の状態の中心をなし、挑戦的で、厄介かつ、忍耐を必要とする問題に対する、注意深い熟考が求められる[26]。
知恵を追求する哲学的探究では、一般的で基本的な問いを立てることを含む。このような営みは必ずしも単純な答えを導くわけではないが、特定の物事についての理解を深めたり、自らの人生を吟味したり、混乱を晴らしたり、自らを騙している先入観に基づく偏見を克服することの助けになる[27]。例えば、ソクラテスは「吟味されざる生に生きる価値なし」と言い、哲学的探究を個人の実存と結びつけた[28]。バートランド・ラッセルは「全く哲学に触れない者は、習慣的観念や生まれた時代、国家、そしてよく熟慮された自らの理性の協力と同意なしに自らの考えの中に根付いた信念からくる常識としての感覚から導き出される偏見の檻の中で人生を過ごすことになる」とした[29]。
哲学にさらに正確な定義を与えようとする試みには議論があり[30]、これらはメタ哲学で研究される[31]。全ての哲学において共有される本質的な特性の集合があると主張するアプローチも存在すれば、より弱い家族的類似性しか持たないか、単なる無意味な包括的単語であると主張されることもある[32]。明確な定義は、特定の学派に属する理論家によってのみ受け入れられる場合が多く、セーレン・オーヴァーガードらは、それらが正しいとすると哲学に属すと思われる多くの哲学の部分が「哲学」の名に値しなくなるという点で、修正主義的であるとしている[33]。
一部の定義では、哲学をその方法(例えば、純粋な推論など)との関係によって特徴づけたり、その主題(例えば、世界全体における最も大きなパターンを見出そうとすることだったり、大きな問いに答えようとするようなこと)に焦点を当てたりする[34]。このようなアプローチはイマヌエル・カントによって追究され、カントは、哲学の仕事を「私は何を知ることができるか?」「私は何をすべきか?」「私は何を望むか?」そして「人間とは何か?」の四つの問いを合わせたものであるとした[35]。ただし、これらのアプローチは、それらが哲学以外の分野を含んでしまうという意味であまりに広範であるという問題と、哲学における下位分野をいくらか除外してしまうという点で狭すぎるという問題がある[36]。
他の多くの定義では、哲学の科学との密接な関わりを強調する。このような見方では、哲学それ自体を正当な科学として理解することがある。W.V.O.クワインのような自然主義哲学者によれば、哲学は経験的だが抽象的な科学であり、特定の観測によるものではなく、広範な経験的パターンに関するものであるとされる[37]。科学を基礎とした定義は一般に、なぜ哲学がその長い歴史の中で、科学と同様に、同程度まで発展しなかったのかという問題に行き当たる[38]。この問題については、哲学は未成熟で暫定的な科学であり、一度発展した哲学の一分野はそれを以て哲学ではなくなるのだと考えることによって回避することができる[39]。この考え方により、哲学は「科学の助産師」であると言われることがある[40]。
また、科学と哲学の対照性に焦点を当てる定義もある。そのような概念における一般的なテーマは、哲学は意味と理解、言語の明快化に関するものであるということである[41]。 ある視点によれば、哲学は概念分析であり、概念を適用するための必要十分条件を見つけることを含む[42]。ある定義では哲学は考えることについて考えることとし、その自己批判的で、反省的な性質を強調する[43]。また他の定義では、哲学を言語的治療であるとし、例えばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学は混乱を招きやすい自然言語の構造によって人間が陥りやすい誤解を取り除くことを目的としているとしている[44]。
エトムント・フッサールのような現象学者によれば、哲学は本質を追究する「厳密科学」とされる[45]。現象学者は、現実についての理論的な仮定を根本的に停止して、「物事それ自体」つまり経験の中でもともと与えられていたものに立ち戻ることを実践する。また、このような経験における基本的な水準が、より高位の理論的知識のための土台を提供するものであり、より後に来るものを理解するにはより前にあるものを理解する必要があると主張する[46]。
古代ギリシアとローマ哲学における初期のアプローチには、個人の理性的キャパシティを育てる精神的な実践が哲学であるというものが見られる[47]。このような実践は哲学者の愛知の表現であり、思慮深い生活を送ることによって個人のウェルビーイングを向上させることが目的とされた[48]。例えば、ストア派は哲学を心の鍛錬の実践であるとし、それによりユーダイモニアを達成し、人生を繁華させることを目指した[49]。
なお、以下は哲学用語としての「学(がく)」の説明:
観念論的な形而上学に対して、唯物論的な形而上学もある[52]。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学(人文科学)とされる場合もある[53][注 6][注 7]。
近現代哲学において代表的な哲学者の言説を以下に記述する。
啓蒙思想時代の哲学者であり、またドイツ観念論哲学の祖でもあり、そして近現代哲学に大きな影響力を持ち続けている哲学者、イマヌエル・カントは、哲学について次のように説明している。
現代思想において、特に分析哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学について次のように説明している。
哲学の目的は思考の論理的明晰化である。
哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。
思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。 — ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年、51頁より
現代思想において、特に大陸哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、マルティン・ハイデッガーは、哲学について次のように説明している。
古代以来、哲学の根本的努力は、存在者の存在を理解し、これを概念的に表現することを目指している。その存在理解のカテゴリー的解釈は、普遍的存在論としての学的哲学の理念を実現するものにほかならない。 — マルティン・ハイデッガー、『存在と時間』上、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、19頁、「序に代えて」より
その他にも、以下のような使われ方があるとされる[要出典]。
紀元前の古代ギリシアから現代に至るまでの西洋の哲学を眺めてみるだけでも、そこには一定の対象というものは存在しない[56](他の地域・時代の哲学まで眺めるとなおさらである)。西洋の哲学を眺めるだけでも、それぞれの時代の哲学は、それぞれ異なった対象を選択し、研究していた[56]。
ソクラテス以前の初期ギリシア哲学では、対象は(現在の意味とは異なっている自然ではあるが)「自然」であった。紀元前5世紀頃のソクラテスは < 不知の知 > の自覚を強調した[57]。その弟子のプラトンや孫弟子のアリストテレスになると、人間的な事象と自然を対象とし、壮大な体系を樹立した。ヘレニズム・ローマ時代の哲学では、ストア派やエピクロス学派など、「自己の安心立命を求める方法」という身近で実践的な問題が中心となった[56](ヘレニズム哲学は哲学の範囲を倫理学に限定しようとしたとしばしば誤解されるが、ストア派やエピクロス派でも自然学や論理学、認識論といった様々な分野が研究された[58]。平俗な言葉で倫理的主題を扱った印象の強い後期ストア派でも、セネカが『自然研究』を著している)。
ヨーロッパ中世では、哲学の対象は自然でも人間でもなく「神」であったと謂われることが多い[56]。しかし、カッシオドルスのように専ら医学・自然学を哲学とみなした例もある[59] し、ヒッポのアウグスティヌスからオッカムのウィリアムに至る中世哲学者の多くは言語を対象とした哲学的考察に熱心に取り組んだ[60]。また、中世の中頃以降は大学のカリキュラムとの関係で「哲学」が自由七科を指す言葉となり、神学はこの意味での「哲学」を基盤として学ばれるものであった[61]。
さらに時代が下り近代になると、人間が中心的になり、自己に自信を持った時代であったので、「人間による認識」(人間は何をどの範囲において認識できるのか)ということの探求が最重要視された[56]。「人間は理性的認識により真理を把握しうる」とする合理論者と、「人間は経験を超えた事柄については認識できない」とする経験論者が対立した[56]。カントはこれら合理論と経験論を総合統一しようとした[56]。
19世紀、20世紀ごろのニーチェ、ベルクソン、ディルタイらは、いわゆる「生の哲学」を探求し、「非合理な生」を哲学の対象とした[56]。キルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルらの実存主義[注 11]は、「人間がいかに自らの自由により自らの生き方を決断してゆくか」ということを中心的課題に据えた[56]。
このように哲学には決して一定の対象というものは存在しなく、対象によって規定できる学問ではなく、冒頭で述べたように、ただ「philosophy」「愛知の学」とでも呼ぶしかない[56] とされている。
学問としての哲学で扱われる主題には、真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、人間一般、理性、存在、自由、因果性、世界の起源のような根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、色彩などがある。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。
これらの主題について論じられる事柄としては、定義[注 12]、性質[注 13]、複数の立場・見解の間の整理[注 14]などがある。 これをひとくくりに「存在論」とよぶことがある。地球や人間、物質などが「ある」ということについて考える分野である。
また、「高貴な生き方とは存在するのか、また、あるとしたらそれはどのようなものなのか」「善とは永遠と関連があるものなのか」といった問いの答えを模索する営みとして、旧来の神学や科学的な知識・実験では論理的な解答を得られない問題を扱うものであるとも言える[注 15]。またこのようなテーマは法哲学の現場に即しておらず、真偽が検証不可能であり、実証主義の観点からナンセンスな問いであると考える立場もある(例えば論理実証主義)。こちらは、ひとくくりに「価値論」とよぶことがある。「よい」ということはどういうことなのか、何がよりよいのかを考える分野である。
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このような意味での哲学はより具体的にはとりわけ古代ギリシアのギリシア哲学、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみてそこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に西洋哲学と呼ぶことがある)。
また、諸学問の扱う主題について特にこうした思考を用いて研究する分野は哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。
哲学ではしばしば多くの「学派」が語られる。これは、通常、特定の哲学者の集団(師弟関係であったり、交流があったりする場合も少なくない)に特徴的な哲学上の立場である。
古代ギリシア哲学、自然哲学、形而上学、実念論、唯名論、大陸合理主義、イギリス経験論、ドイツ観念論、超越論的哲学、思弁哲学、生の哲学、現象学、実存主義、解釈学、新カント派、論理実証主義、構造主義、プラグマティズム、大陸哲学
特定の学者や学者群に限定されない「立場」についても、多くの概念が存在している。言及される主要なものに、存在論、実在論、観念論、決定論、宿命論、機械論、相対主義、二元論、一元論、独我論、懐疑主義などがある。
哲学は様々な形で細分化される。以下に挙げるのはそのなかでも特に広く用いられている分類、専門分野の名称である。
地域による区分
主題による区分(分野)
貫成人が次の三つの種類に哲学を分類している。即ち、「絶対的存在の想定」型、「主観と客観の対峙」型、「全体的なシステムの想定」型の三つである[62]。第一のタイプは自然、イデア、神といったすべての存在を説明する絶対的原理の存在を前提するものであり、古代や中世の哲学が含まれる[62]。第二のタイプは認識の主体に焦点を当てて主観と客観の対立図式に関する考察を行うもので、近世や近代の哲学は主にこのタイプとされる[62]。第三のタイプは人間を含む全ての存在を生成するシステムをについて考えるもので、クロード・レヴィ=ストロースの構造やルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語ゲームがこれに該当する[62]。第一のタイプの絶対的存在が自身は常に同一にとどまりつつ他の物体に影響を与えるのに対し、第三のタイプの全体的なシステムは可変的であるという[62]。
古代ギリシャ哲学はイスラム世界に受け継がれ、イスラム世界において、アッバース朝のカリフ、マームーン(786年-833年)は国家的事業として、ギリシャ語文献を翻訳させた。翻訳センター・研究所・天文台である「知恵の館」が設けられた。翻訳の大半は、ヤコブ派、ネストリオス派などの東方キリスト教徒が、シリア語を介して行った。
ギリシャ哲学のアラビア語への翻訳で中心を占めたのは、アリストテレスとその注釈者の著作であった。
ネオプラトニズムについては、プロティノスやプロクロスの原典からの直接の翻訳が行われず、ネオプラトニズムの著作がアリストテレスの著作だとして伝わることになった。
キンディーはイスラーム最初の哲学者と言われる。イブン=ザカリーヤー・ラージーは、アリストテレスの哲学ではなく、原子論やプラトン主義の影響を受けた珍しい哲学を展開した。ファーラービーは、神から10の知性(=ヌース)が段階的に流出(放射)すること、そして第10の知性が月下界を司っている能動知性で、そこから人間の知性が流出している、という理論を打ち立てた。政治哲学の分野でも、アリストテレスを採用せず、(ネオプラトニスムでは忘れられていた)プラトン的政治論を採用した。イブン=シーナー(アヴィセンナ)はイスラーム哲学を完成させたと言われている。
イスラームのイベリア半島(スペイン)においては、イブン=ルシュドが、アリストテレス研究を究め、アリストテレスのほぼ全著作についての注釈書を著した。そしてイブン=シーナーのネオプラトニスムを廃し、純粋なアリストテレス主義に回帰しようとした。
ヨーロッパ哲学の大きな特徴として、「ロゴス(言葉,理性)の運動を極限まで押し進めるという徹底性」[63] があり、古代、近代、現代といった節目を設けて根底的な相違を見出すようなことが比較的容易であると言える。古代、近代、現代といった枠組みの中でも大きく研究姿勢が異なる学者、学派が存在する場合も珍しくない。
上述のように、哲学は西洋の伝統である。これに対し、東洋の似た伝統は「東洋哲学」と呼ばれ「インド哲学」「中国哲学」「日本哲学」などが下位分野とされる。
日本では、複数の大学に「哲学科」と並んで「東洋哲学科」にあたる諸学科が置かれている。これは明治時代の東京大学の学科編成にさかのぼる[64]。当時東大教授だった井上哲次郎は、日本の「東洋哲学」研究の開拓者とされる[64]。
一方で、「東洋に哲学は無い」とする見解もある[65][66][67]。例えば、ジャック・デリダは2001年に訪中した際「哲学は西洋の伝統であり、中国に哲学はない」という旨の発言をしたとされる[65][66]。
哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学の元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。
中国では、春秋戦国時代に諸子百家が現れた[68]。中でも老子や荘子の道家、孔子や孟子、荀子らの儒家がよく取り上げられる[69]。時代が下ると、南宋では形而上学的思索を含む朱子学が生まれ、明代には朱子学を批判して陽明学が登場した[70]。
日本哲学は、伝統的には仏教や中国の影響を受けて来た。現代では西洋の影響も受けている。
現代日本の哲学科における哲学研究は、西洋哲学を紹介するだけの「輸入学問」であり、哲学史を研究するだけの「哲学学」に過ぎない、という見解もある[71]。言い換えれば、日本の哲学研究者の大半は、本来の哲学からかけ離れた活動をしているとされる[72]。
中江兆民は、日本にルソーなどを紹介した一方、晩年の『一年有半』(1901)で「わが日本古より今に至るまで哲学なし」と述べ[73]、同時代の井上哲次郎を「哲学者と称するに足らず」と批判した[74]。
西田幾多郎は、フッサール現象学などの西洋哲学および仏教などの東洋哲学の理解の上に、『善の研究』(1911)を発表、知情意が合一で主客未分である純粋経験の概念を提起した。またその後、場所の論理あるいは無の論理の立場を採用した。彼の哲学は「西田哲学」と呼ばれるようになった。
井筒俊彦は、イスラーム思想を研究し、Sufism and Taoism(1966-67、1983)では、イスラームと老荘の神秘思想を分析し、それらがともに持つ一元的世界観を指摘し、世界的にも高い評価を得た。そして晩年には『意識と本質』(1983)などを著し、東アジア・インド・イスラーム・ユダヤの神秘主義を元に、ひとつの東洋哲学として構造化することを試みた。
哲学と宗教は共に神の存在に関連している分野である。そのため厳密な区分は難しい。宗教と神学と哲学の境界は必ずしもはっきりしない。ただ、合理的な追求を試みる態度によって異なっている、とする人もいる。
西洋哲学の萌芽ともいえるソクラテス以前の哲学の中には、それまでの迷信を排したものがある。例えばホメロスの詩は、それまでの民衆の狂信的要素を極力退けているものになっていると言われる。この点古代ギリシア人及びその哲学には二つの傾向が見られた。一つは合理的で冷静、もう一つは迷信的で熱狂的であるというものであり、彼らはその合理性によって多くの迷信を克服したが、恐怖や苦難に見舞われた際に以前の迷信が再び頭をもたげた。
オルフェウスは‘清めの儀式’や天上・地獄の教義について述べていて、後のプラトンやキリスト教に影響を与えた。日本の仏教でも、例えば極楽浄土と地獄に関する教え等を説いている。プラトンは永遠で恒久なる存在について考えたが、彼の場合は少なからず認識といった知的なアプローチを説いた。後世においてライプニッツは、時間の絶対性の観点からして時間の始源より以前に時間を遡ることが論理的に不可能であるとし、その始源に神の座を据えたと言われる。現代では宇宙のビッグバン説や、時間の相対性といった発想が反論として挙げられるだろう[注 16]。
宗教や神の存在に関する知的な理解を求めた人々は、しばしば哲学的な追究をし、逆に信仰生活(実践)に重点を置いた人々は、哲学的に手のこんだ解釈やへ理屈めいた議論を敬遠したといえるだろう。同じ宗教にたずさわりながら、知的に優れ業績を残した人もいれば、実践を重んじ困っている人を助けることを日々実行する人もいれば、迷信的なものにとらわれた人もいた。信仰心のあつい人は、しばしば、哲学をする人の中に、詭弁で他人を議論の袋小路に追い込む酷薄な人を見てとり、哲学者を不信の目で眺めた。ただし、知的なだけでなく、人格的にも傑出した哲学者に限れば、人々の尊敬を広く集めた。
また哲学と宗教との差異として、なにがしか「疑ってみる」態度の有無が挙げられることがある。宗教ごとに性質は異なるので一括りに語ることは難しいが、例えばアブラハムの宗教など)には信仰の遵守を求めるドグマ性がある、時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面がある[注 17][注 18]として、比較されることはある。[注 19]
18世紀~19世紀ごろから自然科学が成功を収め神的なものに疑問符が突きつけられるようになったため、唯物論思考など神を介しない考え方も力を得てきている[注 20]
一方、古代から、否定的確証にも肯定的確証にも欠けるとして科学・宗教いずれの見解も留保する不可知論的立場もあり、これは現代でも支持者がいる。
中世哲学研究者の八木雄二は、「神について学問的分析をすることを『神学』と呼び、自然的な事柄全般についての学問的分析を『哲学』と呼[75]」ぶのが一般的風潮であると提言したうえで、それを翻して、「哲学とは理性が吟味を全体的に行うことと理解すれば、キリスト教信仰を前提にしたあらゆる理性的吟味は、キリスト教哲学ということもできるし神学と呼ぶこともできる[75]」と自説を主張している。つまり、哲学を理性的な吟味を行うことと定義し、その定義より神学は哲学に含まれると述べているのである。
フランシス・マクドナルド・コーンフォードは著書『宗教から哲学へ―ヨーロッパ的思惟の起源の研究』で、「哲学は、神話・宗教を母体とし、これを理性化することによって生まれてきた[76]」といった哲学史観を示している。これは今日一般的な哲学観であり、中世哲学史家のエティエンヌ・ジルソン[76]、科学哲学者のカール・ポパー[77] もこれと同じ哲学観を持っている。
哲学と思想、文学や宗教の関係について、相愛大学人文学部教授の釈徹宗は「哲学や思想や文学と、宗教や霊性論との線引きも不明瞭になってきています。」と述べている[78]。哲学者・倫理学者である内田樹は、「本物の哲学者はみんな死者と幽霊と異界の話をしている。」と述べている[79]。
[80]「哲学」と「思想」を峻別するという哲学上の立場がある。永井均は、哲学は学問として「よい思考」をもたらす方法を考えるのに対し、思想はさまざまな物事が「かくあれかし」とする主張である、とする[81]。ソクラテス以来の西欧哲学の流れによれば、知を愛するという議論は、知を構築する方法を論じるという契機を含んでおり、思考をより望ましいものにするための方法の追及こそが哲学である、という主張である。ところが実際には「よい思考の方法」を見出したとしても、現実に適用するにあたっては「それを用いるべき」と主張の形で表出することになるため、哲学は思想としてしか表現されないことになる。このために思想と哲学の混用は避けられない。
哲学と思想を区分することのメリットは具体的な使用事例で発見することができ、たとえば思想史と哲学史は明らかに異なる。通常は思想家とされない人物でも、その行動や事業を通して社会に影響を与えた場合には思想史の対象となる。これに対して哲学史の対象は哲学者の範囲にとどまり、哲学を最大限に解釈したとしても、政治家や経営者が哲学史で論じられることはない。しかし思想史においては、実務を担当し世界の構造を変えようとした人々は思想史の対象として研究対象になる、とする。
一方で小坂修平は別の立場をとり、「哲学と思想の間に明確な区別はない。思想は、一般にある程度まとまった世界なり人間の生についての考え方を指すのにたいし、哲学はそのなかでも共通の伝統や術語をもったより厳密な思考といった程度の違い」[82] であるとする。小阪はこの区別に基づき、19世紀後半から20世紀前半にかけて生まれてきた思想は分析哲学や現象学を除けば哲学の枠組みには収まらず、現代思想になるとする。
一部の哲学は、理知的な学問以外の領域とも深く関わっている点に特徴がある。古代ギリシア哲学が詩と分かちがたく結びついていたこと、スコラ哲学や仏教哲学のように、信仰・世界観・生活の具体的な指針と結びついて離れない例があることなどが指摘できる。理性によって物事を問いながらも、言葉を用いつつ、人々の心に響く考えやアイディアを探すという点では文学などの言語芸術や一部の宗教と通じる部分が多い。
哲学者の名言が多いのはそのためでもある。例えば日本では大学の主に文学部の中の「哲学科」で哲学を学ぶが欧米には「哲学部」という学部が存在する。
八木雄二は、前節で述べたように哲学を理性的な吟味を行うことと定義した上で、人文科学は「哲学によってその事実内容が真であるかどうかの批判的吟味を受けることによって学問性を明らかにする[83]」と述べている。自然科学は数学的方法を適用することで、数学的方法を適用できない人文科学は哲学によって、それらが理性的であるかが確認でき、そういった数学的方法や哲学的吟味を受容してこそそれらは学問として認められるのだと彼は主張している(生物学のようにどちらの側面も持っていて、数学的方法に還元できない部分では哲学的吟味を受けるような学問もあるという)。
哲学を学ぶということについて、イマヌエル・カントは「人はあらゆる理性学(ア・プリオリな)の内で、ただ数学をのみまなぶことができるが、しかし哲学(Philosophie)をば(それが歴史記述的でない限り)決して学ぶことはできない」「理性に関しては、せいぜいただ哲学すること(Philosophieren)を学ぶことができるだけである」[84] という。その上でカントは「理性の学的な理論的使用は哲学か、もしくは数学のどちらかに属する」と主張している。
三森定史は、科学と哲学は区別されるべきであり、科学が外観学(意識外で観察されるものを収集することで法則を立てる学問)であるのに対して哲学は内観学(意識内での観照から一般法則を導き出す学問)であるとする。また三森は大学でおこなわれているいわゆる「哲学」(哲学・学)への批判を込めて「大学での哲学研究は外観学に含まれる」[85] としている。
伝統的に論理学は哲学の一分野として研究されてきた[注 21]。論理学は伝統的にわれわれの推論のパターンを抽出することを目的としてきた。特に伝統的な論理学においては、前提が正しければ確実に正しい結論を導くことができる手法としての三段論法が主な研究の対象であった。
推論の厳密さを重視する哲学においては論理学は主要な研究の対象であり政治や弁論術、宗教、数学や科学の諸分野において論理学は重要な研究の対象であり続けた。古代の哲学者たちはしばしば現代でいう論理学者や数学者を兼ねていた[注 22]。
論理学の直接の関心は推論の妥当性にあり、かならずしも人間や社会や自然の諸事象が考察の焦点にならない(この点で論理学は哲学の他の分野とは性格が異なる)。もし疑いようのない前提から三段論法を用いて人間や社会や自然の諸事象についての結論を導き出すことができるならそれは非常に強力な結論となりうる。哲学者たちが論理学を重視してきたことは当然といえるだろう。
哲学的論理学においてはしばしば推論規則そのものの哲学的な正当性が問題となってきた。古典論理については排中律の是非が問題となってきたし、帰納論理についてはそもそも帰納論理なるものが成立するのかどうか自体が問題となった。こうした検討は認識論や科学哲学といった他の分野にも大きな影響を与えてきた。20世紀の初頭までには古典論理による推論の限界が明らかにされる一方でその公理系そのものを懐疑する視点から様相論理学、直観論理や矛盾許容論理などの展開も提示されている。
広義の哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり選ばれたりした思想、立場、信条を指すこともある。例えば、「子育ての哲学」「会社経営の哲学」などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。
また、哲学は個々人が意識的な思索の果てに形成、獲得するものに限定されず、生活習慣、伝統、信仰、神話、伝統芸能や慣用表現、その他の文化的諸要素などと結びついて存在している感受性、価値観、世界観などを指す場合もある。つまり、物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。
このような感受性や世界観は必ずしも理論体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。
貫成人は「モノづくりの哲学」や「料理の哲学」などといった俗な用例に着目し、哲学とはすべての物事を説明する普遍的原理を追求するものであるが、それにもかかわらずそういった哲学に違いが生まれるのは、時代・場所が異なり、哲学する人がどこまでを「すべて」に含めるかが異なることによるためだとする[86]。
「心」や「意識」という問題を解明してきた脳科学・計算機科学(コンピュータサイエンス)・人工知能研究開発等に関連して、神経科学者・分子生物学者のフランシス・クリックは
哲学者たちは2000年という長い間、ほとんど何も成果を残してこなかった。
と批判している[87]。こうした観点において、哲学は「二流どころか三流」の学問・科学に過ぎない、と評価されている[87]。脳科学者の澤口俊之はクリックに賛同し、次のように述べている[87]。
実際、哲学は暇(スコレー)から始まったとアリストテレスが伝えており、上記のような否定的発言も的外れではないと、科学哲学者の野家啓一は言う[87]。
と述べている[89]。計算機科学者(コンピュータ科学者)・論理学者・電子工学者・哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるトルケル・フランセーン[88]は、哲学者たちによる数学的な言及の多くが
と批判している[90][注 23]。田中によると、ゲーデルの不完全性定理について哲学者が書いた本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は専門誌によって酷評された[89]。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、ゲーデルの証明の核(不動点定理)について、根本的な勘違いをしたまま説明していた[89]。同様の間違いは他の入門書などにも見られる[89]。
フランセーンによれば、不完全性定理のインパクトと重要性について、しばしば大げさな主張が繰り返されてきた[92]。たとえば
という言があるが、これらは乱暴な誇張とされる[92]。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえ、「革命」らしきものは何も起きていない[92]。1931年にゲーデルが示した「不完全性定理」とは、「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」についての定理ではない[93]。不完全性定理以降の時代にも、数学上の意味で「完全」な理論は存在し続けているが[93]、“不完全性定理は数学や理論の「不完全性」を証明した”というような誤解が一般社会・哲学・宗教・神学等によって広まり、誤用されている[94]。
数学者ダヴィット・ヒルベルトは「数学に“イグノラビムス(ignorabimus, 永遠に知られないこと)”はない」と述べた[95]。数学上に不可知は無く、全ての問題は最終的に解決されるというヒルベルトのこの見方は、「ノン・イグノラビムス」として知られている[96]。ゲーデル自身も以下の、「ノン・イグノラビムス」的なヒルベルト流の見解を持っていた[97]。
あらゆる算術の問題をその中で解決する単一の形式体系を定めることは不可能であっても、
新しい公理や推論規則による数学の拡張が限りなく続いていくなかで、どんな算術の問題もいずれどこかで決定されるという可能性は排除されていない。[97]
哲学等において「不完全性定理がヒルベルトのプログラムを破壊した」という類の発言がよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる[98]。正確に言えば、ヒルベルトの目的(数学の「無矛盾性証明」)を実現するには手段(ヒルベルト・プログラム)を拡張する必要がある、ということをゲーデルが不完全性定理を通して示したのだった[98]。日本数学会が編集した『岩波 数学辞典』第4版では、不完全性定理について次の通り記述されている[99]。
哲学者は、科学とは違う日常的言語で「宇宙」や「存在」を語ろうとしてきた[100]。しかし、量子論を創設した一員である理論物理学者ポール・ディラックは、哲学者をことさら信用していなかった[101]。ディラックが居た頃のケンブリッジ大学で、一番の論客として鳴らしていたのは哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインだったが、彼を含め哲学者たちは、量子波動関数や不確定性原理について的外れなことばかりを発言し記述しており、ディラックの不信は嫌悪に変わった[100]。ディラックが見たところ、哲学者たちは量子力学どころか、パスカル以降の「確率」の概念さえ理解していない[100]。
ディラックの考えでは、非科学的な日常的言語をいくら使っても、正確な意思疎通を行うことはできない[101]。量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックは、「無理です」と言って黙り込むのが常だった[100]。どうしても説明してほしいと迫る友人に、ディラックは「それは目隠しした人に触覚だけで雪の結晶がなにかを教えるようなもので、触ったとたん溶けてしまうのだ」と返した[100]。
宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「無」について、ウィトゲンシュタインは「もちろん言い表せないものが存在する。それは自らを示す。それは神秘である」[注 24]と述べたが、こういった哲学的考えは、理論物理学者から疑問視されている[102]。何故なら、「語り得ぬ」はずの「無」について、科学的に言語化する手がかりが既に見つかっているからである[103]。例えばペンローズの「ツイスター理論」、アシュテカーの「ループ重力理論」、ロルとアンビョルンの「因果的動的三角分割理論」等の研究が進められている[103]。
『利己的な遺伝子』の序文で、進化生物学者リチャード・ドーキンスは
多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、タイトルだけで本を読みたがる
と述べている[104]。前掲書の第一章ではこう述べる[105]。
生命には意味があるのか? 私たちは何のためにいるのか? 人間とは何か? といった深遠な問題に出くわしても、もう迷信に頼る必要はない。著名な動物学者G・G・シンプソンはこの最後の疑問を提起したあとで、こう述べている。
「私が強調したいのは、一八五九年[『種の起源』]以前には、この疑問に答えようとする試みはすべて無価値だったことと、回答せずに黙っているほうがましだったということである」。[106]
哲学と、「人文学」と称する分野では、今なお、ダーウィンなど存在したことがないかのような教育がなされている。こうしたことがいずれ変わるであろうことは疑いない。 …
この本の主張するところは、私たち、およびその他のあらゆる動物は、遺伝子によって創り出された機械にほかならないというものだ。 … 私がこれから述べるのは、成功した遺伝子に期待される特質のうちで最も重要なのは非情な利己主義である、ということだ。 … 遺伝子が個体レベルにおけるある限られた形の利他主義を助長することによって、自分自身の利己的な目標を最も達成できるような特別な状況も存在する。この文の「限られた(limited)」と「特別な(special)」という語は重要な言葉だ。
そうでないと信じたいのはやまやまだが、普遍的な愛とか種全体の繁栄などというものは、進化的には意味をなさない概念にすぎない。[107]
また進化生物学者・社会生物学者のロバート・L・トリヴァースは、前掲書へ以下の序文を寄稿した[108]。
同時にトリヴァースは「定量的データ」による実証を強調しており[109]、『利己的な遺伝子』を邦訳した一員、動物行動学者の日髙敏隆は「この本に書かれた内容を完全に理解するためには、数学の言葉が必要である」としている[110]。
哲学や人文学からの批判は、生物学へ、そして生物学について解説したドーキンスへ向かった[111]。その批判は例えば、遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ、遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったり、ゾウが抽象的だったり、ビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等)[111]。批判に対しドーキンスは、前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しは、それを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ、無害な簡便語法である」と反論した[111]。彼は次のようにも記している[112]。
哲学という道具を教育によって過剰に賦与された一部の人々は、それが役に立たない場合にもその学問的装置でつつき回す誘惑に抵抗できないように思われる。
私は、「しばしば高度な文学的・学問的趣味を持ち、しかし分析的思考を実行する能力をはるかに超えた教育を受けてきた膨大な数の人々」に対する「哲学的絵空事(フィクション)」の魅力についてのP・B・メダワーの意見を思い起こす。(ドーキンス 2018, p. 477)
また前掲書中でドーキンスは、文化的自己複製子「ミーム」の理論に関して
哲学的だろうが、そうでなかろうが、私の主張に欠陥があるとは誰も指摘できていないのが事実である。
と述べている[113]。
『科学を語るとはどういうことか』の中で宇宙物理学者の須藤靖は、科学についての哲学的考察(科学哲学)が、実際には科学と関係が無いことを指摘している[114]。
「科学哲学と科学の断絶」私は科学哲学が物理学者に対して何らかの助言をしたなどということは聞いたことがないし、おそらく科学哲学と一般の科学者はほとんど没交渉であると言って差し支えない状況なのであろう。 … 科学哲学者と科学者の価値観の溝が深いことは確実だ。
二〇世紀が生んだ最も偉大な物理学者の一人であるリチャード・ファインマンが述べたとされる有名な言葉に「科学哲学は鳥類学者が鳥の役に立つ程度にしか科学者の役に立たない」がある。 … かつて私がこの言葉を引用した講演をした際に、「鳥類学は鳥のためにやっているわけでないし、科学哲学もまた科学のために存在するのではない」という反論をもらったことがある。確かに、科学哲学が科学のためのものである必要は無い。[114]
科学哲学が、この方法論が果たして正しいのであろうかと立ち止まって悩んでいる間に、科学は常に前に踏み出しています。それでいいではないですか。 科学哲学者が横からいろいろ言うけれども、科学者からは「耳を傾けるべき重要な指摘だろうか」と首を傾げることばかり(たぶん、科学哲学者の皆さんから袋叩きに遭うでしょうが)というのが、正直な印象です。(『科学を語るとはどういうことか』, p. 260)
須藤は、哲学的に論じられている「原因」という言葉を取り上げて、「原因という言葉を具体的に定義しない限りそれ以上の議論は不可能です」[115]と述べており、「哲学者が興味を持っている因果の定義が物理学者とは違うことは確かでしょう」としている[116]。科学哲学者・倫理学者の伊勢田哲治は、「思った以上に物理学者と哲学者のものの見え方の違いというのは大きいのかもしれません」と述べている[117]。
須藤によると、学問の扱う問題が整理され分化したことで、科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった[118]。これは「研究分野の細分化そのもの」であり、「立派な進歩」だと須藤は言う[118]。一方で伊勢田は、様々な要素を含んだ「大きな」問題を哲学的・統一的に扱う、かつての天文学について言及した[118]。「その後の天文学ではその〔哲学的〕問題を扱わなくなりましたし、今の物理学でもそういう問題を扱わない」と述べた伊勢田に対し、須藤は「その通りですが、それ自体に何か問題があるのでしょうか」と返した[118]。
対談で須藤は「これまでけっこう長時間議論を行ってきました。おかげで、意見の違いは明らかになったとは思いますが、果たして何か決着がつくのでしょうか?」と発言し、伊勢田は「決着はつかないでしょうね」と答えている[119]。
哲学者の中島義道は、哲学は「何の役にも立たない」のであり「哲学に『血税』を使う必要などない」と述べている[120]。哲学科については、大幅な縮小か別の組織に統合させるべきだとしている[120]。
大学からすっかり哲学科がなくなるのも考え物ですが、そこは原則的に哲学ではなく哲学研究をする場所、つまり知的遺産管財人の養成機関なのですから、東大や京大など旧帝国大学などの片隅にわずかな定員を確保して存続するだけでいい。あるいは、新聞編纂所のような哲学編纂所という(学生や講義なしの)専門研究機関として、あるいは考古学科の一分科として存続してもいいのではないかと思います。
(中略)
哲学など何の役にも立たないのですから、それに血税を使うのはもったいない。(中略)少なくともわが国民が哲学の真の姿を認めて、その表面的な美名をひっぺがし、哲学はまったく役に立たず、自他の幸福を望むこととは無関係であり、反社会的で、危険で、不健全なもの、という点で認識が一致し、それにもかかわらず哲学をしなければ死んでしまう全人口の1パーセント未満の人のためにのみ哲学を学ぶ「真の場所」を設置すること。これはまことに健全なことだと思いますが、いかがでしょうか?[120]
学術博士・思想家の東浩紀は、哲学は「一種の観光」であり、そこに専門知は無く、哲学者は「無責任」な観光客に似ていると述べている。
ひとことで言えば、「哲学とは一種の観光である」ということです。観光客は無責任にさまざまなところに出かけます。好奇心に導かれ、生半可な知識を手に入れ、好き勝手なことを言っては去っていきます。哲学者はそのような観光客に似ています。哲学に専門知はありません。
(中略)
哲学は役に立つものではありません。哲学はなにも答えを与えてくれません。哲学は、みなさんの人生を少しも豊かにしてくれないし、この社会も少しもよくはしてくれない。そうではなく、哲学は、答えを追い求める日常から、ぼくたちを少しだけ自由にしてくれるものなのです。観光の旅がそうであるように。 — 東浩紀、紀伊國屋じんぶん大賞2015受賞コメント
社会哲学者イヴォンヌ・シェラットの学術書『ヒトラーの哲学者たち Hitler's Philosophers』によると[注 25]、第三帝国ナチス・ドイツは様々な形で哲学者たちと相互協力しており[121]、アドルフ・ヒトラー自身も「哲人総統」[122]、「哲人指導者」を自認して活動していた[123]。
「第三帝国」という概念について、『日本大百科全書』は以下の解説をしている[125]。
シェラットによれば、「ナチ哲学者」の多くは刑罰から逃れて学界に残った[126]。例えばマルティン・ハイデガーは21世紀でも、哲学における「スター」のような学者として見なされ続けている[127][注 26]。かつて1933年にナチ党員となったハイデガーは、学術機関の「新総統」と公称し[128]、また他者から「大学総統」とも呼称されるようになった[129]。ハイデガーが「新総統」を宣言したのはナチ党員になって三週間後の1933年5月27日、彼がフライブルク大学新総長としてハーケンクロイツを掲げる就任演説を行った時だった[128]。ハイデガーは聴衆のナチ党員たちと同種の隊服を着ており、ナチ式敬礼をして壇上に登ると、ナチズムを「精神的指導」[128]、「ドイツ民族の運命に特色ある歴史を刻み込んだあの厳粛な精神的負託」と呼び、ナチズムによって「初めて、ドイツの大学の本質は明晰さと偉大さと力をもつに至るのである」と述べた[129]。
ハイデガーはナチス内での出世を目指したが、彼は当世風な社会進化論者というよりロマンチックで文化的なナショナリストであると見なされ、出世は頭打ちになった[130]。それでもハイデガーは哲学者かつ「大学総統」として、人種的排外主義においても行動していた[130]。彼は
国民社会主義〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ
を論じたり、地方の文部大臣に「人種学および遺伝学」のポスト新設を要請して
国家の健康を保全するために … 安楽死問題が真剣に熟慮されるべきである
と主張したりした[131]。
1935年にはハイデガーが「形而上学入門」という題の講義を始めており、再び
この運動〔ナチズム〕の内的真理と偉大さ
を論じた[132]。かつての同僚かつ友人だった哲学者カール・レーヴィットと対面した時も、ハイデガーはヒトラー賛美を変えなかった[133]。レーヴィットの論考によれば、ハイデガーのナチズムは《ハイデガーの哲学の本質に基づくもの》であり、深い忠誠から由来している[133]。そしてハイデガーの「存在」や「在る」という概念は、《形而上学的なナチズム》であるとレーヴィットは述べた[133]。またハイデガーは自著『存在と時間』で、かつての恩師かつ友人だったユダヤ人フッサールへの献辞を載せていたが、その献辞を削除することを出版社に快諾した[133]。
ハイデガーは「国民社会主義大学教官同盟フライブルク科学協会」から、
国民社会主義〔ナチズム〕の先駆者たる党同志
とも呼ばれるようになった[134]。彼は「ナチ哲学者」たち──アルフレート・ローゼンベルク、カール・シュミット、エーリヒ・ロータッカー、ハンス・ハイゼ、アルフレート・ボイムラー、エルンスト・クリークなど──とおおよそ友好的付き合いを続けると同時に、ナチズム教育を学生全般へ実行していった[134]。そこでハイデガーは《人権・道徳・憐憫は時代遅れの概念であり、ドイツの弱体化を防ぐため哲学から追放されるべきだ》などと論じていた[134]。1942年の講義(ヘルダーリンの詩歌『イースター』についての講義)でも彼は、ナチズムと「その歴史的独自性」を一貫して高評価していた[134]。
かつてハイデガーの親友だった哲学者カール・ヤスパースは、ハイデガー、シュミット、ボイムラーという三人の哲学者は
精神面でナチ的な運動の頂点に立とうと試みた
と結論している[135]。
ハイデガーの愛人だったユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、「ハイデガーを潜在的な殺人者だとみなさざるをえないのです」と公刊著作で批判した頃もあった[136]。しかしハイデガーと再会後のアーレントは、彼の本を世界中で出版させるためにユダヤ系出版の人脈を使って努力した[137]。シェラットいわく「ハンナは、現代哲学の様相を一変させる計画に手をつける」ことになった[137]。ナチスの戦争捕虜だった著名なフランス人哲学者ジャン=ポール・サルトルさえも、ハイデガー哲学を自分の思想に取り入れて彼を支援した[138]。
アーレントは、ナチズムと哲学との繋がりを切り離そうとするようになった[139]。例えば彼女は、アドルフ・アイヒマンを中心に「悪の陳腐さ」やナチスの「凡庸さ」、知性の無さを論じる政治哲学書を複数執筆していった[140]。しかし、これはホロコースト生存者からの反発をも生むことになった[141]。その原因は例えば、
などだった[142]。
『ヒトラーの哲学者たち』を2014年に翻訳した、三ツ木道夫(比較社会文化学博士)と大久保友博(人間環境学博士)は
と述べている[143]。訳者らによると、人文学者がナチスという暴力を擁護したことは、ある種の「人文学の敗北」、「教養主義の挫折」である[144]。何故なら、人間は教養を身に付けたり本や音楽に感動したりすることで素晴らしい存在になるはずだったにも関わらず、そのような人文学的人間が不条理な暴力を認め加担しているからだという[145]。批評家ジョージ・スタイナーも次のように批判している[144]。
人間というものは、夕べにゲーテやリルケを読み、バッハやシューベルトを演奏しながら、朝(あした)にはアウシュヴィッツで一日の業務につくことができるものであることを、<あとに>きたわれわれは知ってしまった。
そんなことができる人間は、ゲーテ読みのゲーテ知らずだとか、そんな人間の耳は節穴も同然だとか、逃げ口上をいうのは偽善である。こういう事実を知ってしまったということ──このことは、いったい文学や社会とどういうかかわりをもつのか。プラトンの時代、マシュー・アーノルドの時代このかた、ほとんど公理になっているあの希望──《教養は人間を人間らしくする力である》、《精神のエネルギーは高位のエネルギーに転ずることができる》という希望は、<あとに>きたために知ってしまったこの事実と、いったいどういうかかわりをもつのか。[144]
三ツ木と大久保は「訳者あとがき」で
日本でもここ数年、科学者のあり方がさまざまに問題となっているが、本訳書が人文学をめぐる社会的倫理の議論の一助になれば幸いである。
と締めくくっている[146]。
社会看護学者ダンカン・C・ランドールと健康科学者アンドリュー・リチャードソンの論文によれば、ハイデガー思想などのナチ哲学へ向けられる擁護には、《哲学とは文化的に中立で政治から切り離されているもの》だという考え方が含まれている[147]。しかしそもそもこの考え方自体が、哲学における特定の政治的・文化的な立場を有利にしようとしている[147]。ここでは、哲学は政治的であり文化的に非中立なものだとする考え方が拒絶されている、と同論文は述べる[147]。
同論文によれば、哲学的テクストの文化的中立性や非政治性をいくら主張したところで、哲学的テクストが文化や政治に巻き起こした「行動」(action)も「行動しないこと」(inaction)も、消え失せるわけではない[147]。何故なら、いかなる哲学も行動も「文化的かつ政治的」(cultural and political)であり、また、何らかの哲学や行動を選ばないこと自体も一種の文化的・政治的行動であるからだと言う[147]。
必要とされているのは「政治的・文化的な側面を我々に見えなくさせるハイデガーの解釈主義を拒絶すること」である[148][注 27]。《哲学者(ハイデガー)たち自身についてはともかく、哲学的著作物については批判すべきでない》というような考え方は、(政治的・文化的な文脈からの)批判的研究を無視している[148]。それは検証を無視したり、過ちを繰り返したりすることに繋がると同論文は結論している[148]。
理性や言語を重んじる価値観は近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある[要出典]。既存の哲学が「西洋哲学」中心であることや、習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり、理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあったりすることなどを、そのような価値観の表れと考え、問題視する立場もある[要出典]。
大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており、必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない[要出典]。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある[149]。
古代ギリシャの時代の時代から、フィロソフィアが役に立たないと思う人がいた。アリストテレスはその著『政治学』において[150] 次のような逸話を提示することで、そうではないと示した。[151]
彼(タレス)は貧乏であった。貧乏であることは哲学が役に立たないことを示すと考えられたので、彼はそのことで非難を受けた。話によれば、彼は星に関する自分の巧妙な知識によって、次にくる年にオリーヴの豊作がある、ということを冬の間に知ることができた。そこで彼は、少しは金をもっていたので、キオスとミレトスにあるすべてのオリーヴ圧搾機を使用するための、保証金を支払っておいた。競りあう人が全然いなかったために、彼はわずかの金でそれらの器械を借りたわけだ。収穫時が来て急に多くの圧搾器がそろって必要となると、彼は思いのままの高値でそれを貸し出し、多額の金をつくった。このようにして彼は、哲学者は望みとあらば容易に金持ちとなることができるが、哲学者の野心はそれ以外にある、ということを世間に示した[注 28]
コロサイの信徒への手紙の中でパウロは以下のように哲学を「むなしいだましごと」と称している箇所がある。
あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。 — コロサイ人への手紙2章8節(口語訳)
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