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『ニコマコス倫理学』(ニコマコスりんりがく、古希: Ἠθικὰ Νικομάχεια (Ēthika Nikomacheia)、羅: Ēthica Nicomachēa / Moribus ad Nicomachum)は、古代ギリシアの哲学者アリストテレスの倫理学に関する著作群を、息子のニコマコスらが編纂しまとめた書物である。
アリストテレスは、様々な研究領域で業績を残しており、倫理学に関しても多くの草案や講義ノートなどを残した。後にニコマコスがそれらを編纂したものが『ニコマコス倫理学』である。総じて10巻から成り立ち、倫理学の基本的な問題である「正しい生き方」を検討している。倫理学の研究史において、古典的価値が認められ、注釈や研究も加えられている。
全10巻から成る。
まず第1巻にて、
それに続いて、各論として、
について各々述べられ、最後の第10巻にて(直前に挿入された「快楽」についての別稿を経つつ)
が提示され、『政治学』への接続を匂わせつつ、締め括られる。
書き出しで「いかなる技術や研究、実践や選択も、何らかの『善』を希求している」と取り上げ、「国(ポリス)においていかなる学問が行われるべきか、各人はいかなる学問をいかなる程度まで学ぶべきであるかを規律するのは『政治』であり、最も尊敬される能力、たとえば統帥・家政・弁論などもやはりその下に従属しているのをわれわれは見るのである。」と述べられている。「『人間というものの善』こそが政治の究極目的でなくてはならぬ」(第1巻第2章)とするが、「政治学の探求とは、知識ではなく実践が目的であり、年少者を含め情念(パトス)のままに追求するひとびとにとっては、無抑制的なひとに同じく知識は無益におわる」とも述べている(第1巻第3章)。
アリストテレスの見解によれば、人間にとって善い生活とは、「理性的で徳を伴った活動」である。徳とは、人間の性格における特性であり、さまざまな種類があるものの、幼少期から無意識に獲得される倫理的な徳と理性によって形成される知性的な徳とに二分される。そして、倫理的に追求するべき徳には、中庸という共通の構造があると述べられている。中庸とは、二つの悪徳の間に存在する構成する徳目である。たとえば、臆病と軽率という悪徳の中庸は、勇気である。また、野暮と道化という悪徳の中庸は、機知である。つまり、アリストテレスによれば、善い行為とは極端な行為ではなく節度ある行為であり、個々の状況に応じて適切な判断を下すことが善い生活をもたらすのである。アリストテレスは、幾何学における原理の追求という考え方を倫理学に持ち込むことを疑い、倫理学(形而上学)を実践的な学問だとして、独自の基準を認めていた(第2巻など)。
巻末(第10巻第9章)では、「よきひとたらんがためには、うるわしき育成や習慣づけを与えられること、そしてそれに基づいてよき営みのうちに生きてゆき、みずからすすんでする行為たると、然らざるとを問わず、あしき行為はおよそこれをなさないでゆくようにすることが必要であるとするならば、人々の生活が何らかの知性(ヌース)によって律せられ、強権を有するただしい指令によって律せられるのでなくてはならぬ。」と述べられ、「法律は政治学の作品のごときもの」として立法者的な素養を獲得する術を問題提起しながら締めくくっている。
生きているということは植物にも共通の機能であると見られる。人間特有の機能として、魂(プシュケー)のことわりを有する部分の働きを考えるに、人間が行う活動の目的には、幸福がある。そして、「善きもの」「善きことがら」を追求するためには、正しい行動が重要である。幸福な生活のためには、一定の水準に達する金銭や容姿や家系も前提となる。しかし、より善く生きることは、より複雑な行為である。人生において生じるさまざまな状況に、自分の活動を適応させることが必要となるのである。それは、人間固有の特徴に基づく基準であり、動物などとは異なる人間的な卓越性を備えている人が善い人間である(第1巻第7、8、9章)。
怯懦(きょうだ)は、苦痛から生じる。それに対し、放埓(ほうらつ)は、快楽から生じる。したがって、放埓は、より随意的なものであって、より非難されるべきものである。放埓を意味する「アコラシア(=無懲戒)」は、子供のワガママという意味も持つ。また、「不正なひと」は、「過多をむさぼりがちな不均等的なひと」のみでなく、むしろ「かえってより少なきを選ぶもの」をも含むものであるといえる(第3巻第12章)。「けち」や「臆病」も不正義なのである(第4巻第1章など)。
矜持ある人とは、「自分が大きいものに値していると考え、事実それに値しているごときひと」を意味している。みずからの価値に依拠せずしてかく考える人は、「痴呆」である。もとより小さい値のものがその値を自覚するのは、「節度」あるひとである。みずから大きいものに値すると考えるのであれば「倨傲」であり、それ以下の価値しかないように考えるひとは「卑屈」である(第4巻第3章)。
穏和とは、「怒り」に関する中庸である。怒りの不足は「意気地なし」といえ、痴呆とも考えられる。逆に超過は「癇癪の強い」「執念深い」人となり、復讐や懲らしめを行わないではいられない。男らしいと考えることもあるが、気むずかしいほうが始末が悪い(第4巻第5章)。
相互的な需要が存在しなければ、交易は行われない。貨幣は、たとえ今は何も必要なものがなかったとしても、必要が生じたときにはそれが手に入るという将来の交易を保障するには役に立つ。それは、必ずしも常に等しい値を持たない。しかし、他のものと比較すれば、より多く持続する傾きを備えている。あらゆるものに価格を付しておく必要性のゆえである。貨幣は、いわば尺度として、すべてを通約的にすることによって均等化する。交易なくしては共同関係はなく、交易は均等性なしには成立せず、均等性は通約性なしには存在しない。かくも著しい差異のあるいろいろのものが通約的となるということは本当は不可能なのであるが、需要ということへの関係から充分に可能となる。何等か単一的なものの存在することを要するのであって、このものは協定に基づく。貨幣がすべてを通約的たらしめ、あらゆるものが貨幣によって計量される(第5巻第5章)。
法の存在するのは不正義の存在するひとびとの間においてであり、裁判とは「正」と「不正」との判定を意味する。ひとびとは、自分へは無条件な意味での善を過多に、また無条件的な悪を過少に配するということが現にある。支配者は「正」の守護者なのであり、「正」の守護者ならば「均等」の守護者でもなくてはならぬ。支配者が他人のために苦労するひとである所以である。支配者にはそれゆえ何らかの報酬が与えられるべきであり、それはすなわち、名誉であり優遇である。ただ、こういったものをもってしては充分としないひとが僭主となる(第5巻第6章)。
あらゆる共同体は国という共同体の一部分であり、共同体のそれぞれに応じてそれ相当のフィリア(愛)が存在する(第8巻第9章)。国制には「君主制」・「貴族制」・「ティモクラティア(有資産者制・制限民主制)」の三種があり、最善のものは「君主制」で、最低なものは「ティモクラティア」である。またそれぞれ三種の逸脱形態として、自己の功益を考える「僭主制」・国に属するものを価値に背いて配分する「寡頭制」・国制本来の形態から少し逸脱した「民主制」に移行していく可能性がみられる。父親の支配は「僭主制」のそれで、夫婦間の富と力に即しては「寡頭制」に変じ、主人がいなくみんなが均等である場合には「民主制」が行われる。支配者と被支配者とを通づるいかなる共同的なものも存在しない場合においては、「正」もないが、愛もまたありえない(第8巻第10、11章)。
いかなる愛も、共同性において存立する。そして、愛は、「血族的な愛」と「親友仲間の愛」の二つに分類することができる。親は、自分の一部として我が子を愛でる。子の親に対する愛は、「善きもの・優越的なもの」に対する愛という意味を持っている。なお、親は、「存在・養育・教育」の因を成しており、快とか有用とかを多分に有している。また、兄弟の愛においては、親友仲間と同じ諸特性が見出される。夫婦の間に愛の存するのは、本性に則したものと考えられる。家は国に先立つところの、より不可欠的なものであり、生殖はもろもろの動物に通ずる共通的なことがらであっても、人間のもろもろの機能はつとに分化されており男性と女性とではすでにその機能を異にし、生活の要求する万般のことがらを目的とするものだからである(第8巻第12章)。
すべての非類似的な当事者間の愛において、お互いを均等化しその愛を保持するところのものは、「比例的(アナロゴン)」ということに他ならない。同国民の間における代償には、共通の尺度たる貨幣というものが与えられている。しかし、恋愛といったような性質のものになると、そうはいかない。一部の者は、相手の「ひととなり」ではなく、相手を快楽のゆえあるいは有用のゆえに愛しているに過ぎず、自分がまさに「必要とする価値に応じて」関心をもつものである(第9巻第1章)。「有用」とか「快」のゆえに友人たるひとびとのあいだにおいては、お互いがもはやこれらを持たなくなったとき、その愛(フィリア)を解消するにいたるとしても、少しもおかしくはないといえる(第9巻第3章)。
友人は、必要という点からいえば、逆境において有用なひとびとが必要とされる。しかし、うるわしいという点からいえば、順境においてよきひとびとに善を施すことのほうが、より好ましい。本能的に男性的なひとびとは、友人が自分と苦痛を共にしてくれることのないように気をくばるのであって、そうでない人は、嘆きあう仲間を悦ぶ。悪を分与することはできるだけ避くべきである(第9巻第11章)。恋愛しているひとびとにとっては、自分の恋人を見るということが望ましいことであり、親しい相手と「生を共にする」ということが何よりも好ましいのではないか。愛(フィリア)とは自他の共同なのである(第9巻第12章)。
アリストテレスは、倫理的性状に関して、好ましくなく避けるべきものとして「悪徳」「無抑制」「獣性」の三者を述べている。そして、それらと対立する言葉として「徳」「抑制」「(神的な、英雄的な)我々を超えた徳」を挙げている。また、「正しい判断を下していながら無抑制に陥る」ことの意味を、ソクラテスのそれと対比させている。ソクラテスは対話篇『プロタゴラス』において、「悪いことをするのは、無知による」という考えを採用している。つまり、悪いことをするのは、「認識を有していながら、快楽によって克服されるわけではなく、彼の有していたところのものは、実は単なる臆見でしかなかったのである」と主張するのである。それに対して、アリストテレスは、エウドクソスやプラトンを比較しながら、快楽(ヘドネー、肉体的なものも含み)を単独で「善」とせず、快楽に向かう「運動(キネーシス)」や「状態(ヘクシス)」や「生成(ゲネシス)」を考察する。そして、快楽を維持することが逆に「苦痛」を伴うことにも触れ、幸福な生活に向かう卓越性(アレテー)を伴った倫理的性状(エートス)として、中庸という概念を導いている(第7巻第1・2章、第10巻第2章など)。
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