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オーストリアの哲学者 ウィキペディアから
エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl ドイツ語: [ˈʔɛtmʊnt ˈhʊsɐl]、1859年4月8日 - 1938年4月27日[1])は、オーストリアの哲学者、数学者である。
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
1900年のエトムント・フッサール | |
生誕 |
1859年4月8日 オーストリア帝国・モラヴィア |
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死没 |
1938年4月27日(79歳没) ドイツ国・フライブルク・イム・ブライスガウ |
時代 | 19世紀の哲学、20世紀の哲学 |
地域 | 西洋哲学 |
学派 | 現象学 |
研究分野 | 認識論、存在論、数学の哲学 |
主な概念 | 現象学、エポケー、ノエマ/ノエシス、現象学的還元、過去把持(Retention)と未来予持(Protention)、生世界Lebenswelt、前反省的自己意識、超越論的主観論、物理主義(物理学)的客観主義への批判、後からの覚認、原信憑(ウアドクサ)Urdoxa、現象学的記述など |
影響を与えた人物
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ファーストネームの「エトムント」は「エドムント」との表記もあり、またラストネームの「フッサール」は古く「フッセル」または「フッセルル」との表記も用いられた[2]。
ウィーン大学で約2年間フランツ・ブレンターノに師事し、ドイツのハレ大学、ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教鞭をとる。
初めは数学基礎論の研究者であったが、ブレンターノの影響を受け、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。
現象学は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出して現象学運動となり、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。
フッサールの目標は、「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる前提や先入観、形而上学的独断にも囚われずに、現象そのものを把握して記述する方法を求めたのである。そして、その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールを活動時期によって1.前期 2.中期 3.後期の3つに分け、各々の時期に考案された主要な概念を取り上げて叙述する。
前期を代表する著書は、『論理学研究』である。フッサールが著作活動を始めた19世紀のヨーロッパは、後に「科学の世紀」「歴史の世紀」と呼ばれる時代であった。ガリレオ・ガリレイによって物理学の基礎付けに数学が導入されて以降、自然科学は飛躍的に発展した。その一方で、哲学は、「大哲学」の地位を追われて、新○○派といった様々な哲学的立場が乱立して、それぞれの世界像が対立していた。そのため、諸学の学問的基礎付けを求めて、さまざまな研究が進められていた。
そのような時代背景の下で、特に数学・論理学の領域で、心理学主義・生物学主義的な、心理的現象から諸学を基礎付けようとする「発達心理学」が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる対象の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。
数学の研究者から出発したフッサールの関心も、当初は心理学から数学を基礎付けようとするものであった。『算術の哲学―論理学的かつ心理学的研究―』は、そのような立場から書かれた著書である。しかし、そこでは心理学という「一つの理論」が前提とされており、そのような方法では、現象そのものを直接把握することができないとフッサールは考えた。
そこで、フッサールは、フランツ・ブレンターノの「志向性」(de:Intentionalität) の概念を継承し、現象によって与えられる心的体験を直感的明証的に把握し、あらゆる前提を取り払った諸学の学問的な基礎付けを求めた。
ブレンターノは、物理的原因から心理現象が発生することを理論的に説明する「発達的心理学」を批判して、心理現象が対象への「志向性」を持つ点で、物理現象と区別されるとして「記述心理学」の立場を明らかにした。そして、その上で「意識」が必ず対象を指し示すことを「志向的内在」を呼んだ。言い換えると、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であることを意味する。そこでは、デカルト的な心身二元論のように、「意識」がまず存在し、その後で対象が確認されるのではなく、「意識」と「対象」が常に相関関係にあるとされる。
ブレンターノの記述的心理学においては、志向対象とその「内容」が区別されていなかった。しかし、フッサールは、意識から生まれ出る「内容」に関して対象をとらえた。たとえば、「丸い四角」という概念は、対象としては存在しない。しかし、それが内容として矛盾しているという意味は存在する。矛盾や背理法といった論理学の概念や法則は、いつでも、だれでも、どこでも、普遍的に共通するというイデア的な意味を有している。真の学は、普遍的な本質認識を求めるものであるため、単なる事実研究からは、偶然的な認識しか得られない。したがって、論理学の諸概念や諸法則のイデア的な意味をすべて取り出すためには、前提となりうるすべての理論を取り払った「直感」によって把握するしか方法がなく、その直感も完全に展開された明証的なものでなければならない。そのような方法によって記述される論理学は、「純粋論理学」である。純粋論理学が成立するためには、それが認識論によって基礎付けられていなければならない。そして、そのためには、現象学的な分析が必要であり、事あるごとに常に「事象そのものへ」へ立ち返り、繰り返し再生可能な直感との照合を繰り返すことによって、イデア的意味の不動の同一性を確保するために、不断に努力しなければならないとし、そのために記述的心理学には「現象学」が必要であるとしたのである。
フッサールの中期を代表する著書は、『イデーン』である。フッサールは、『論理学』において現象学を記述心理学と位置づけて、あらゆる前提を取り払った純粋記述として、自我の心理作用を記述しようとした。しかし、それでもなお、意識を自我の心理作用として解釈する心理学的な「一つの解釈」を前提にしており、心理学主義との批判を受ける余地があった。そこで、フッサールは、そのような解釈も含めて、すべての解釈を遮断する方法として「現象学的還元」が、また現象学的還元を方法として得られる個々の純粋現象の本質構造を明らかにする方法として「本質直感」が必要となるとするに至った。
日常的に、私たちは、自分の存在や世界の存在を疑ったりはしない。なぜなら、私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っているからである。フッサールは、この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。
このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。
このように現象学的還元によって得られた、自然的態度を一般定立されている世界内の心ではない意識を「純粋意識」という。
既に述べた通り、「意識」とは、例外なく「何かについての」意識であり、志向性を持つ。したがって、純粋意識の純粋体験によって得られる純粋現象も、志向的なものである。そして、このような志向的体験においては、意識の自我は、常に○○についての意識として、意識に与えられる感覚与件を何とかしてとらえようとする。フッサールは、ギリシア語で思考作用をさす「ノエシス」と、思考された対象をさす「ノエマ」という用語を用いて、意識の自我が感覚与件をとらえようとする動きを「ノエシス」、意識によって捉えられた限りの対象を「ノエマ」と呼んだ。
現象学的還元によって得られる純粋現象は、あらゆる学問的解釈のみならず、一般的な人間の日常的な自然的態度さえも遮断して得られるものである。しかし、それだけでは、個々の諸現象が得られるだけである。
真の学は、普遍的な本質認識を求めるものである。したがって、そのためには、純粋現象の本質構造を明らかにする方法が必要とされる。
フッサールは、既に『論理学研究』において、感覚的直感を超える直感があることを論じている。本質的直感とは、知覚された個別の対象をモデルとして、それを超えて諸対象に共通の普遍的な本質を取り出して、「原本的に与える」直感とされる。
現象学的還元によって得られた志向的諸体験のノエシス/ノエマ的類型的構造の本質を直感するところにより記述すると、現象学的還元によっていったんは遮断された自然的世界及びすべての理念的諸世界の対象を純粋意識が自分の中で「世界意味」として構成することになる。このような純粋意識は、すべてを超え出た「超越論的に純粋な意識」ないし「超越論的意識」と呼ばれ、以上のような反省を得た「超越論的現象学」は、デカルト以来の二元論の持つ問題、主観的な認識主体が自己を超え出た客観的世界をどのように認識し得るのかという難問を解決した上で、正しく認識論的に基礎づけることによってあらゆる諸学の基礎付けるものとなるのである。
後期思想の集大成とよぶべき著作が『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』であり、『デカルト的省察』にその思想的転換が認められるとされる。そこでは、超越論的現象学によって明らかにされた個々の純粋意識の志向的体験を超えて、それに先立って存在する「先所与性」が存在し、それが発生する起源まで遡らなければ、世界構成を徹底的に明らかにすることはできないとされ、超越論的現象学の「静態的現象学」から「発生的現象学」への段階移行が説かれた。
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、フッサールは、普遍的な本質認識を求める真の学は、古代ギリシアにおいて、理性によって世界の全体を体系的に把握する普遍学として原創設されたとする。そこでは、学問以前に日常的に直感される「生活世界」(Lebenswelt)の基盤において、真の学が成立していた。ところが、ガリレオ・ガリレイによって物理学の基礎付けに数学が導入されて以降、自然は数式によって理念化されて「数学的・記号学的理念の衣」によって被われてしまった。その結果、生活世界は隠蔽されてしまったのであった。これが「ヨーロッパ諸学の危機」であるとする。そして、フッサールは、超越論的現象学によって「すべての客観的学問」をエポケーして生活世界を取り戻すことを主張したのである。
フッサールは、近代科学と古い形而上学を厳しく批判して、生活世界を取り戻すことを主張した。そして、そのことによって近代科学を支える物理学的経験の基盤となる、感覚と理性を含む「生活世界の経験」が可能になると見た。これは、客観的存在に先立つだけでなく、これを可能にするものである。そのため、「超越論的経験」とも呼ばれる。これは、近代科学の客観性に先立つ限りで、主観的なものであるが、同時に基盤的なものである。そして、その最下層には、最も基礎的な「原事実」がある。この原事実は、世界・私・他者の存在であり、これらは絡み合って大きな歴史的存在を形作っている。これを研究・解明するのが、新しい形而上学であるとした。
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フッサールの時間論は、前期、中期、後期の三つに分けられるのが一般である。
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