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フランスの哲学者 ウィキペディアから
アルフレッド・フイエ(Alfred Jules Émile Fouillée, 1838年10月18日 - 1912年1月16日)はフランスの哲学者。
フランス西部ロワール地方の小都市ラ・プエーズに生まれる。いくつかのコレージュで哲学を講じた後、1864年からドゥエ、モンペリエ、ボルドーのリセで哲学教師を務める。1867年および1868年にはプラトンとソクラテスの研究によって道徳科学アカデミーから表彰された。1872年に高等師範学校の助教授に選出され、また彼の2冊の著書Platonis Hippias Minor sine Socratica contra liberum arbitrium argumentaと『自由と決定論』La Liberté et le déterminismeによって哲学博士の学位も得る。
その後3年間研究と教育に邁進するが、健康を崩し、また視力を失いつつあったため、教授職の退任を余儀なくされる。その最中にもプラトンとソクラテスについての著作や哲学史の著作(1875年)を残している。しかし退職後、彼の哲学思想はさらなる発展を遂げ、観念論的形而上学と自然主義的機械論的な科学観とを調停しようとする思弁的折衷主義を唱えるようになった。
『観念力の進化論』(L'Évolutionnisme des idées-forces, 1890年)、『観念力の心理学』(La Psychologie des idées-forces, 1893年)、『観念力の道徳学』(La Morale des idées-forces, 1907年)など一連の著作で、観念力(idées-force, 力観念の訳もあり、またそのままイデーフォルスとカタカナ書きすることも多い)の理論を彫琢した。これは観念は意識に対して従属的なのではなく、意識が作用因となって、観念が適切な運動のうちでみずからを実現する傾向を有しているとするものである。この理論はまず倫理学や社会学の方面で構想され、さらに物理学および心理学の分野にも展開された。自由の二律背反についての考察がとりわけ重要である。
フイエの妻オーギュスティヌ・テュイルリはG・ブリュノの筆名で数々の児童書を執筆した人物で、また詩人・哲学者ジャン=マリー・ギュイヨーの母としても知られる(フイエとは再婚)。
日本におけるフイエの翻訳は早くも明治19年(1886年)に中江兆民によって開始されている。その後、明治時代後半から大正時代にかけて、主として国民教育論の視点からフイエの紹介がおこなわれた(フーイエー、フォウィリーなどと表記されていた)。こうした著書にはスペンサー流の社会進化論的見解も含まれている。
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