東京港
東京の港 ウィキペディアから
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東京港(とうきょうこう)は、東京湾北西部にある港湾。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつで、港湾法上の国際戦略港湾の指定を川崎港および横浜港と共に受け、国土交通省よりスーパー中枢港湾の指定を横浜港と共に受けている。港湾管理者は東京都。
港則法・関税法上は川崎港・横浜港と合わせて京浜港と見なされ、京浜港東京区となる(港則法上は特定港に指定されている)。
港湾法上の東京港の港湾区域と港則法上の京浜港の港域のそれぞれ東端には差異があり、港湾区域では荒川となるのに対して港域では旧江戸川となる[4]。いずれも南は多摩川を境に川崎港または京浜港川崎区に隣接するのに対し、東は千葉港または千葉港葛南区に隣接しない[4]。
臨港地区は江東区、中央区、港区、品川区、大田区に展開する[5]。また、江戸川区の葛西海浜公園が東京港の公園として位置付けられている[6]。
長年にわたる横浜からの猛烈な反対を受けて開港できずにいたが、関東大震災ののち港湾設備の重要性が認識されて1925年に日の出桟橋が完成、満洲事変ののち横浜港を中継ぎ港としている時代ではないとして1932年に芝浦岸壁、1934年に竹芝桟橋が完成し、1941年5月20日にようやく開港した[7]。
1967年に国内初のコンテナ埠頭を品川に完成させ[1]、1960年代末から顕在化した世界的なコンテナリゼーションの潮流にいち早く対応。外貿コンテナ個数は1998年から国内1位を維持している。2022年の外貿コンテナ個数は443万TEUで国内1位、世界46位となっている[8]。
延長879m、水深2.7m〜7.5m、内貿雑貨の B〜G と東海汽船の S2,S3バースがある。70年近くが経ち施設の老朽化が著しい為、再開発計画がある。
1925年に完成し、1926年3月から運用が開始された東京で初めての埠頭である。当時その機能を担っていた横浜の強い反対もあり、これ以前の東京には港湾設備が整っていなかった。延長564m、水深6.7m、H〜M の6バースがある。古くから非鉄金属・化学薬品等の内貿の拠点として利用されているほか、一般には台場・有明方面への水上バスや東京湾クルーズなどが発着する日の出桟橋として知られている。敷地内にはベンチや望遠鏡が設置されており、東京港の夜景を楽しむカップルに人気がある。また、桟橋待合所の隣にはコンビニエンスストアや食堂もある。この食堂は建物2階にあるため東京港が一望でき、近隣ビルのビジネスマンやタクシー・観光バスの乗務員などに利用されている。令和の今も日の出ふ頭にある倉庫群は埠頭が造成された1925年に建てられたもので、東京港最古の倉庫である。夜はライトアップされ水上観光に一役買っている。
日の出桟橋は東京都港湾局により震災時の帰宅困難者や救援物資の輸送拠点となる震災時水上輸送基地に指定されている。
この埠頭付近は港湾整備される前の1917年に第3回極東選手権競技大会の会場となった場所である[10]。
延長465m、水深7.5m、N,O,P の3バースからなる。伊豆諸島・小笠原諸島への人や物資の玄関口としての機能のほか、第三セクターの竹芝地域開発株式会社による整備・再開発が行われた。
延長1,351m、水深3m〜7.5m、F0〜F2,F4〜F6 の各バースがあるが、船席数は2である。水産品・窯業品・鉄鋼等を扱う。
住所:東京都江東区辰巳三丁目30 延長1,040m、水深5m、NA〜NM の13バースからなる。豊洲・晴海開発整備計画に基づき2002年から供用開始した。豊洲・晴海埠頭の機能が移転されており、内貿雑貨・鉄鋼を扱う。
1991年5月に供用を開始した。延長1,189m、水深9 - 10m、HF - HL の7バース、客船ターミナルが整備されていた。内外の客船が入港する海の玄関口として多くの大型船が入港したほか、南極観測船しらせも寄港した。
東京港が開港50周年を迎えた1991年には晴海客船ターミナルが開館した[11]。建築設計は竹山実。「特捜エクシードラフト」など東映特撮ヒーロー物の特撮作品などのロケ地として多用された[11]。ターミナルや晴海ふ頭公園の展望台からの夜景を目当てにカップルが集まるデートスポットでもあった。
東日本大震災による影響で2011年3月から7月31日までは使用不能となった(8月1日から再開)。
なお、2020年東京オリンピックでは選手村(HARUMI FLAG)の整備が進められた[12]。
船舶の大型化及び豊洲・晴海開発整備計画の一部改定により、2017年(平成29年)5月に東京港港湾計画が一部変更され、内港地区の晴海ふ頭の旅客船ふ頭は廃止され、中部地区(13号地)に整備する旅客船ふ頭に機能を集約することになった[13]。2020年に青海埠頭に新設された東京国際クルーズターミナル(後述)の開業を受け、晴海客船ターミナルは2022年2月20日で閉館となった[11]。
ただし、大規模地震対策施設計画により、大規模地震発生時の緊急物資輸送に対応するため、内港地区の晴海ふ頭には耐震強化岸壁を有する延長240m、水深10.0m、1バースが整備されることになった[13]。
延長1,074m、水深3〜5m、G5,G6,G7バースからなる。晴海埠頭とともに砂糖・製材・米などの輸入貨物を扱う。
延長283m、水深4m、T2バースがある。豊洲・晴海開発整備計画に基づき今後この用地は複合施設として再開発される予定である。
晴海ふ頭の晴海客船ターミナルには、国際クルーズ路線に対応した出入国管理設備があったが、レインボーブリッジ(高さ52m)により大型クルーズ客船の寄港は困難であった[15]。そのため、品川埠頭、大井ふ頭の貨物用埠頭を利用するクルーズ船もあり[16]、2020年までに新ふ頭ターミナルビルの建設を決めた[17]。2018年7月9日に「東京国際クルーズターミナル」の名称が発表され[18]、2020年7月14日に開業することとなった[19]。
岸壁延長240m、岸壁水深12m、X2バース。アンローダーとベルトコンベアを備え、主として外貿石炭・鉱産物を扱う。
岸壁延長260m、岸壁水深10m、X3バース。上組東京支店が保有する私設バース。もとは豊洲の東京鉄鋼埠頭の移転用施設として建設されたが、移転計画中止と施設所有第三セクターの解散を受け、岸壁本体を上組が購入。背後埠頭用地を東京都から借受け自社でガントリークレーンを2基設置。国内では珍しい私設コンテナ埠頭として2004年2月に供用開始した。中国遠洋運輸集団(COSCO)の日中航路用として主に利用されているほか、青果棟「上組東京多目的物流センター」を建設して、フィリピンからDoleと住友商事のバナナ・パイナップルを輸送する外貿在来船を週1便受け入れている[21]。
岸壁延長230m、岸壁水深11m。2017年供用開始のY1バースと2019年現在整備中のY2バースの計2バースを有する。東京港埠頭株式会社が管理する船社専用埠頭。借受船社はY1バースが上組、Y2バースが三井倉庫・日本通運・住友倉庫・山九(予定)[22]。
東京港の歴史は、15世紀に江戸城を築いた太田道灌が江戸前島西側の平川河口(日比谷入江)に江戸湊を開き、海上輸送を行ったのが始まりであると言われている。その後17世紀になり江戸に幕府が開府してからは、江戸庶民の生活に必要な物資の輸送手段として大量輸送できる海運がそれまでより一層重視され、諸国とを結ぶ廻船の重要な寄港地として大きな役割を果たした。
1858年に日米修好通商条約が締結され、1859年に横浜港が国際港として開港したものの、東京港はその後80年以上開港しなかった。横浜港に代わって東京港を国際港として開港すべきと言う意見はあったが、横浜の熾烈な反対により築港計画は1885年に廃案になった[23]。その後、隅田川口改良工事の名目で近代的な港湾としての整備が行われ、1906年から第1期工事が始まり、永代橋から台場までの航路を浚渫した[24]。1911年には第2期工事も始まり[24]、東部では1910年に枝川改修工事が始まった。
大正前期の頃にはまだ船を受け入れるための港湾設備は整っていなかったが、艀賃高騰に苦慮した回漕店主・荒川敬が鉱山事業家の田中長兵衛に(横浜ではなく)直接東京に船を乗り入れることを提案。1917年(大正6年)に田中所有の第三長久丸(664t)が芝浦に入港したのが東京の港に汽船が着いた第一号とされる[25][26]。その後1922年に第3期隅田川口改良工事が始まったが[24]、翌1923年9月に関東大震災が発生。支援物資の受け入れが問題になった。そのため日の出埠頭・芝浦埠頭・竹芝埠頭の開発が始まり[27]、1925年に日の出埠頭が完成した。同年、南部では目黒川改修工事が始まり、現在の天王洲アイルの方に河口を直線化する工事を行った。
1930年に東京港修築事業が始まり[24]、1933年に勝鬨橋の工事が始まった。1932年には芝浦埠頭、1934年に竹芝埠頭が完成した。東部では1938年に越中島駅敷地造成事業計画が始まり、南部では1939年に京浜運河開削工事が始まった。1940年の紀元2600年記念日本万国博覧会は中止されたが、1941年5月に国際港として開港した[27]。
戦後の経済成長に伴い首都直下の港湾施設の拡張が急務となり、豊洲埠頭が整備された。1951年には特定重要港湾に指定され、間もなく晴海埠頭も整備される。その後の世界的なコンテナリゼーションに対応するため、1967年に品川埠頭が神戸港摩耶埠頭とともに日本初のコンテナターミナルとして運用を開始し、1975年に大井コンテナ埠頭が完成、全国でも最大級の連続8バースにわたるコンテナターミナルが誕生した。その後1985年に青海コンテナ埠頭の運用も開始。2004年には大井コンテナ埠頭再整備(7バース再編・大水深化)も完了。戦後処理によってGHQに港湾機能の多くを接収されていた(現在も一部は接収が解除されていない)横浜港を尻目に急成長して、2000年代には横浜港を抜いて東日本最大の港となり、五大港の一つとして今日では日本の港湾物流の中心的な役割を担う。
東京港の埋立事業は、古くは江戸時代から行われている。以下はその一部の記載である。
工事事業名は「東京湾澪浚(みおさらい)工事[28]」。航路の浚渫(しゅんせつ)が主目的で、当初は浚渫土の再利用で埋立地を造成したことがうかがえる。
太平洋戦争のため一時中断したが戦後再開した。
当時としては世界最大級の国際空港が建設される計画であったが、日中戦争により打切られた。埋立地は、その後海水浴場や塵芥処理場として使用され、現在は夢の島として姿を残している。
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