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佐々木 忠次(ささき ただつぐ、1933年〈昭和8年〉2月13日[1] - 2016年〈平成28年〉4月30日[2] )は、日本の舞台監督、インプレサリオ、著述家。東京バレエ団総監督、日本舞台芸術振興会(略称 NBS)専務理事を務めた。愛称は「ササチュー」。「日本のディアギレフ[2]」との異名で呼ばれた。モットーは「諦めるな、逃げるな、媚びるな」[3]。
東京府本郷区向ヶ丘弥生町[4]に六人兄弟の次男として[5]生まれる。子供のときから母の影響で芝居、コンサート、オペラに興味を持ち[6]、特に東京宝塚劇場や国際劇場に惹かれた[7]。しかし戦況が悪化し、6年生で栃木県塩谷郡塩原町で飢えを極めた学童集団疎開を経験した後、運悪く卒業前の東京大空襲前日に6年生だけ帰郷し、目の前で自宅が焼失する[8]。呼べど叫べど誰も自宅の焼失を止めてくれなかった経験は、その後の佐々木の社会の大人への不信と反骨精神として佐々木の心に深く刻まれた。佐々木家は神奈川県足柄下郡真鶴町に転居。1945年(昭和20年)4月に神奈川県立小田原中学校入学[9]。
終戦後、秋に東京府本所区亀沢に転居し、私立本郷中学校に転校[10]。佐々木はまた劇場通いを始めた。そしてまず音楽部に入部した。部長が古流松藤会家元の息子で、演劇が好きでよく劇場へ行っていて、佐々木も連れて行ってもらっていた[11]。ところが音楽部は佐々木が中2のときになくなり、高1のとき佐々木自ら演劇部を作った。そして台本、演出、舞台装置、役者をすべてやるようになった[12]。講堂の壁をベニヤでふさいでいたが、見た目がよくない。佐々木は日本橋の三越で、戦後初のファッションショーをやっていたのに目をつけた。桜の造花が飾ってあって「終わったらどうするのか」ときくと「くずやが来てみな持っていく」という。それじゃあ我々がトラックで全部持っていくよと交渉し、できるだけ本郷高校に運んだ。その造花を3階の講堂の周りにザーッと貼り付けた[11]。後年の舞台監督の原点である。怖いもの知らずの直接交渉もこの頃からである。千田是也の楽屋を思い切って訪ねると、親切に招き入れてもらったことがきっかけで、以来どんな大物俳優でも「怖いもの知らず」で訪ねるようになった[13]。この延長線にヨーロッパの超一流オペラ・バレエとの交渉がつながっているのは明白である。
卒業後は、内定していた東宝を蹴り、藤原歌劇団や二期会の舞台を取り仕切っていた京田進音楽事務所に就職。初めての舞台は1955年(昭和30年)7月 藤原歌劇団 ジャン・カルロ・メノッティ『領事』舞台監督補である[14]。しかし、まもなく京田進音楽事務所は倒産し、佐々木は大学を卒業して1年もたたない若さでフリーの舞台監督となる[15]。フリーになった第一作目の公演は藤原歌劇団『蝶々夫人』である[16]。2年目の1956年(昭和31年)には第一次イタリア歌劇団公演で舞台監督助手を務めている[17][18][19][20]。
イタリア歌劇団公演を経験したスタッフは、オペラ制作に適した劇場の実現と、歌手中心の舞台運営の見直しを目指し、同年12月に「スタッフ・クラブ」を結成する。メンバーは舞台美術の妹尾河童、演出の栗山昌良、照明の石井尚郎、指揮の岩城宏之、作曲の林光、作曲・指揮の外山雄三、舞台監督の北村三郎、舞台監督の佐々木忠次、衣裳の緒方規矩子、文芸の高橋保、写真の長谷川清一、能の観世栄夫、日本舞踊の花柳寛[21]。しかし次第に佐々木と「スタッフ・クラブ」のメンバーにすきま風が吹くようになり、1963年(昭和38年)に「発展的解消」をすることになる[22]。
その後佐々木は、1961年(昭和36年)の国立パリ・オペラ座歌劇団の舞台演出助手[23]、二期会、藤原歌劇団等、1973年(昭和48年)[24]まで(1973年は東敦子帰朝記念で特別に担当したもので、実質的には1961年(昭和36年) - 1966年(昭和41年)[25])の6年間に58本[26]ものオペラのプロダクションの舞台監督・制作を担当[27]。また、1962年(昭和37年)の商業演劇『黒蜥蜴』の舞台監督まで引き受けている[28]。さらには、いつのまにか京田進が事務局長となっていたチャイコフスキー記念東京バレエ学校の舞台監督を1963年(昭和38年)に引き受けている[29][30][31][32][33][34][35][36][37][38][39][40][41][42][43]。目の回るような忙しさである。
東京バレエ学校は、コミュニストの林広吉が日本におけるソ連の「陣地」を作る目論見で1960年(昭和35年)に結成した。ソ連からははワルラーモフとメッセレルという二人の指導者を迎え、1962年(昭和37年)2回の公演『まりも』は成功裡に終わり[44][45]、ソ連からの招待の話まで持ち上がったが、早くも経営危機に陥っている。さらにはソ連と日本共産党との関係が怪しくなり、当初の二人の指導者が帰国した後は1年も指導者が派遣されてこなかった。谷桃子たちは学校を去り、生徒の一部は谷桃子バレエ団へと移っていった。ソ連公演はおろか、佐々木への『まりも』の制作費すら支払われなかったが、佐々木は1963年(昭和38年)に『白鳥の湖』の制作を引き受け、東京バレエ学校に深く関わっていく。ついに1964年(昭和39年)東京バレエ学校は倒産[46]。佐々木のもとには、ソ連大使館や、残った助手、生徒の父母たちから、存続を願う声が集まった。佐々木は、バレエ学校ではなく、プロフェッショナルなバレエ団なら経営に携わろうと決心し[46]、東京バレエ団の代表となった[47]。
佐々木は世界で通用するバレエ団を目指し、早くも1965年(昭和40年)に渡欧した。さっそく日本公演で舞台演出助手をした国立パリ・オペラ座歌劇団のスタッフを訪ね、パリ・オペラ座のバレエを観ている。さらにはパリ・オペラ座で英国ロイヤル歌劇団の引っ越し公演 マリア・カラスのプッチーニ『トスカ』を観た。また、ラヴェル『ダフニスとクロエ』も観た。日本でも引っ越し公演をしたいという強い欲求が生まれた。佐々木は国立パリ・オペラ座歌劇団のスタッフにヨーロッパのバレエ団と演目についてもアドバイスを求め、モーリス・ベジャールの20世紀バレエ団とジョン・クランコ率いるシュトゥットガルト・バレエ団に強く惹かれた。また、演目は『ジゼル』を勧められた[48]。
佐々木はその後ミラノに飛び、のちに16年間スカラ座と交渉する通訳のアルマ・ラウリアと面会。さらにはウィーン・フォルクスオーパーの支配人をいきなり訪ね、レハール『メリー・ウィドウ』の日本公演を打診している。次いでモスクワに寄り、ワルラーモフとメッセレルに再会し『ジゼル』のアドバイスをもらうとともに、東京へオリガ・タラーソワを派遣する指名を得た。加えて、東京バレエ学校時代のソ連招待公演の話を『東京バレエ団』公演に振り替えてもらうよう働きかけた[49]。
バレエ学校の設立からわずか5年、バレエ団設立からわずか1年しか経っていないにもかかわらず、いきなり海外公演をすることは無謀と思えた。しかし佐々木には勝算があった。ぴたっと揃ったコール・ド・バレエ(群舞)である。日本人は「ここまで足を上げろ」といえば全員が同じところまで上げる。発足間もない東京バレエ団にあって、短足、O脚の日本人が世界と勝負できるのはコール・ドによるアンサンブルしかない、と佐々木は見抜いていたのである[50]。
ソ連文化省から公演の招待状は1965年(昭和40年)秋、公演は翌年8月とあった。持って行く演目は『ジゼル』『まりも』をメインに、『ジゼル』を振り付けてくれたオリガ・タラーソワがつくった小品『アーラとローリー』そしてもう一つSKDのレビュー演出家飛鳥亮振付の『日本の四季』であった。
ソ連公演のメンバーは団長佐々木、副団長京田進、『まりも』の作曲家石井歓、指揮者の秋山和慶、舞台監督の田原進、照明の石井尚郎のスタッフは18人。ダンサーは53人。
初のソ連公演ということもあり、見送りメンバーはソ連大使館のチェルノフ一等書記官、ロシア文学者の野崎韶夫、民主音楽協会の大久保直彦などがいた[51]。
訪ソメンバーは各地で大歓迎を受けた。公演はカザンでは6日間、2番目のレニングラード(現: サンクトペテルブルク)でも6日間、最後はモスクワのクレムリン劇場で10日間。いずれも大成功であった。東京バレエ団はソ連文化省から「チャイコフスキー記念」という冠称を受領した(したがって東京バレエ団の正式名称は『チャイコフスキー記念東京バレエ団』である)。
東京バレエ団が世界に飛び立つ前、1964年(昭和39年)の東京バレエ団の発足に伴い、民主音楽協会の理事長である秋谷栄之助と事務局長の大久保直彦から公演の打診があった。民主音楽協会は創価学会系であり「労音の息がかかっていない団体」として、東京バレエ団に白羽の矢を立てたのである。佐々木は「労音にも民音にも出られるし、団員に創価学会に入ってくれということならお断りします」と念を押した。この後、しばらくの間は、佐々木の世界戦略にとって民音とのつながりは大きな力となった[52]。しかしバレエ公演に慣れない民音は、バレエに不向きな会場を押さえたり、ときに会場に犬が入ってきたこともあった[53]。
1965年(昭和40年)秋谷から「民音の活動を世界に広げたい」との打診を受けた。佐々木自身も、モーリス・ベジャール・20世紀バレエ団、クランコのシュツットガルトバレエ団、パリ・オペラ座バレエ団、イギリスのロイヤル・バレエ、ソ連のボリショイバレエ団など「世界のバレエ団を日本に呼びたい」と考えていたのである。このプランは1966年(昭和41年)に「民音世界バレエシリーズ」として結実し、第1回目はソ連のノヴォシビルスク・バレエ団に決まった。佐々木は1966年(昭和41年)2月マイナス40℃のノヴォシビルスクに交渉に行っている。2か月後には第2回の視察のため秋谷とともにブリュッセルの王立モネ劇場に行き、モーリス・ベジャールの20世紀バレエ団の公演を観た。また佐々木と秋谷はミラノ・スカラ座まで足を伸ばし、以前「スカラ座は国立だから交渉相手は国でなければならない」と言われたことに対し、秋谷が政治力を行使して文部省と外務省に招聘状のようなものを作ってもらい、仮契約までこぎつけた。しかしスカラ座が来日するにはまだ15年かかるのである[54]。
ブリュッセル・王立モネ劇場のモーリス・ベジャール・20世紀バレエ団については、佐々木一人で剛腕のマネージャーと対峙し、滑り込みセーフで契約にこぎつけた[55]。20世紀バレエ団は1967年5月に初来日した。主催は民音と毎日新聞社、「ジャパン・アート・スタッフ」(佐々木の会社でNBSの前身の一つ)が舞台製作をした。このときロミオとジュリエットを踊った3組のうち一組が、ジョルジュ・ドンと浅川仁美のペアだった。ドンはクロード・ルルーシュ監督映画『愛と悲しみのボレロ』を通して知られ、15年後に全国を公演することになる。
マイヤ・プリセツカヤは、東京バレエ学校も日本の他のバレエ学校も、何度望んでも招聘を叶えることができなかったボリショイ・バレエ団の名花であった。1968年(昭和43年)1月、プリセツカヤが来日し、東京バレエ団と『白鳥の湖』を共演することになった。東京文化会館で3日間、東京厚生年金会館で1日、佐々木も唖然とするほどの大反響だった。
1968年(昭和43年)4月『ジゼル』を改めて振付し指導したのはガリーナ・ウラーノワ。すでに引退していた彼女に、彼女の代表作を依頼したのである。最高の評価を引き出すために最高の相手にアタックする。それが佐々木のやり方であり、インプレサリオの真骨頂といえた[56]。
その後、民音が1979年(昭和54年)の英国ロイヤル・オペラの主催から降りてしまったことをきっかけに、民音と組むのは1981年(昭和56年)のスカラ座の公演までとし、以後佐々木は、自分の財団 日本舞台芸術振興会(略称 NBS)を作って独り立ちした[57]。
※出典の多くが佐々木の評伝(追分2016年)であるため、佐々木側の視点に基づき、公平性を欠いている可能性があることについて留意されたい。
2016年4月30日、東京都目黒区の自宅で心不全により死去。83歳没[47]。
葬儀にはデヴィッド・ビントリー(英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団芸術監督)、ポール・マーフィー(指揮者)、ケヴィン・オヘア(英国ロイヤル・バレエ団芸術監督)、シルヴィ・ギエム(ダンサー)、マニュエル・ルグリ(ウィーン国立バレエ団芸術監督、ダンサー)、タマシュ・ディーリッヒ(シュッツガルト・バレエ団副芸術監督)、ペーター・コザック(ウィーン国立歌劇場)、ツァー・シン・ワン(台湾・黒潮芸術)、ソン・イー(台湾・黒潮芸術)、そしてロイヤル・バレエ団関係者らをはじめ、世界各国から大勢のアーティストや関係者が駆け付け[77]、小泉純一郎、三浦雅士、黒柳徹子、シルヴィ・ギエムが別れの言葉を捧げた[77]。
また、追悼メッセージを寄せた主な者は以下の通り(順不同)[78]。アランチャ・アギーレ(映画監督)、リード・アンダソン(シュツットガルト・バレエ団芸術監督)、ディーター・グラーフェ(ジョン・クランコ作品著作権保有者)、ロイパ・アラウホ(ダンサー)、カラン・アームストロング=フリードリッヒ(歌手、ゲッツ・フリードリッヒ未亡人)、ニコラウス・バッハラー(バイエルン国立歌劇場総裁)、アグネス・バルツァ(歌手)、坂東玉三郎(歌舞伎俳優)、フィリップ・バランキエヴィッチ(チェコ国立バレエ団芸術監督(2017シーズン - ))、ダニエル・バレンボイム(指揮者)、エドゥアルド・ベルティーニ(バレエ指導者)、デヴィッド・ビントリー(振付家、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団芸術監督)、フェリックス・ブラスカ(振付家)、ロベルト・ボッレ(ダンサー)、ウルス・ブーヘル(駐日スイス大使)、ハンス・カール・フォン・ヴェアテルン(ドイツ連邦共和国大使)、ディエリー・ダナ(駐日フランス大使)、タマシュ・デートリッヒおよびシュツットガルト・バレエ団一同、マリア・ディ・フレーダ(ミラノ・スカラ座 ジェネラル・ディレクター)、ジャン=マリー・ディディエール(振付助手)、サー・アンソニー・ダウエル CBE(ダンサー、元英国ロイヤル・バレエ団芸術監督)、オレリー・デュポン(パリ・オペラ座バレエ団エトワール、2016/17よりパリ・オペラ座バレエ団芸術監督)、オルガ・エヴレイノフ(振付家、教師、マカロワ版『ラ・バヤデール』振付指導)、ニコライ・フョードロフ(バレエ指導者)、バルバラ・フリットリ(歌手)、カルロ・フオルテス(ローマ歌劇場総裁)、マチュー・ガニオ(ダンサー)、メイナ・ギールグッド(元オーストラリア・バレエ団芸術監督、教師)、マルセロ・ゴメス(ダンサー)スコット・シュレクサー(エージェント)、エディタ・グルベローヴァ(歌手)、シルヴィ・ギエム、ブルーノ・アマール(パリ管弦楽団 ジェネラル・ディレクター)、マチアス・エイマン(ダンサー)、ローラン・イレール(ダンサー)、ニコライ・ヒュッベ(デンマーク王立バレエ団芸術監督)、ギネス・ジョーンズ(歌手)、マリア・コチェトコワ(ダンサー)、小泉純一郎、ルネ・コロ(歌手)、ヨッヘン・コワルスキー(歌手)、栗原小巻(女優)、イリ・キリアン(振付家)、ブリジット・ルフェーブル(元パリ・オペラ座バレエ団芸術監督)、マニュエル・ルグリ(ダンサー、ウィーン国立バレエ団芸術監督)、アニエス・ルテステュ(ダンサー)、モニク・ルディエール(ダンサー、バレエ教師)、ジャン=クリストフ・マイヨー(振付家、モンテカルロ・バレエ団芸術監督)、ナタリア・マカロワ(振付家)、デヴィッド・マッカテリ(ダンサー)、ヴラジーミル・マラーホフ(ダンサー)、デヴィッド・マッカリスター(オーストラリア・バレエ団芸術監督)、スティーヴン・マックレー(ダンサー)、ズービン・メータ(指揮者)、ワルトラウト・マイヤー(歌手)、ロベルト・マイヤー(ウィーン・フォルクスオーパー総裁)、クリストフ・ラードシュテッター(同事務局長)、ドミニク・マイヤー(ウィーン国立歌劇場総裁)、リッカルド・ムーティ(シカゴ交響楽団音楽監督、指揮者)、パトリシア・ニアリー(バランシン財団 振付指導者)、ケヴィン・オヘア(英国ロイヤル・バレエ団芸術監督)、ワレリー・オブジャニコフ(指揮者)、エリザベット・プラテル(ダンサー、パリ・オペラ座バレエ学校校長)、マライン・ラドメイカー(ダンサー)、ジル・ロマン(ベジャール・バレエ・ローザンヌ芸術監督)、エルネスト・スキアーヴィ(スカラ・フィルハーモニー管弦楽団 芸術監督)、ポリーナ・セミオノワ(ダンサー)、コーマック・シムズ(英国ロイヤル・オペラ 事務局長)、ミヒャエル・シモン(舞台美術、照明デザイナー)、シカゴ交響楽団 シカゴ交響楽団財団、アンナ・トモワ=シントウ(歌手)、ウラジーミル・ウーリン(ロシア・ボリショイ劇場総裁)、タマーシュ・ヴァルガ(ウィーン室内合奏団)、ゲオルク・フィアターラー(ベルリン国立歌劇場ジェネラル・ディレクター)、セバスティアン・ヴァイグレ(フランクフルト歌劇場 音楽総監督)、ベルント・ヴァイクル(歌手)
※のちに袂を分かった人物を含む。
佐々木は毀誉褒貶相半ばする人物であり、一概に評価することは困難である。以下は、一例にすぎず、全ての評価を代表しているわけではない。
〈追悼 佐々木忠次さん 日本バレエの偉大なインプレッサリオ〉佐々木涼子(舞踊評論家・ 東京女子大学名誉教授)
1970年代以降、佐々木忠次さんは世界で最高水準のバレエ公演を次々と打ち出した。それが日本のバレエ関係者、観客にとって、どれほどの勉強になったか計り知れない。少なくとも私は、佐々木さんがプロデュースした舞台に触れなかったらバレエ芸術の過去と未来について、これほど深く考えさせられることはなかったと思う。偉大な「インプレッサリオ」だった。日本では興行師などと呼ばれ、いまだ正当な評価がなされていないが、あのディアギレフがバレエ・リュスをヨーロッパに紹介し、五大陸を巡ったのが、その活動だ。彼によって20世紀のバレエの歴史が劇的に前進したのは周知の通り。佐々木さんの場合、手勢の東京バレエ団の世界ツアーの傍ら、世界トップクラスのバレエを日本に招いたが、その最大の仕事が「世界バレエフェスティバル」である。3年に1度開催され、昨年で14回目を迎えた。世界の一流バレエ団の、そのまた主役級のダンサーが男女各20人ほど集う、実に大規模なガラ公演である。えりすぐりの演技もさることながら、演目の選択が素晴らしい。今、世界で何がトップか、何が最先端か、バレエはこの先どうなっていくかを見極め、インスパイアする力が抜群だった[94]。
私たち日本人は居ながらにして、その舞台で世界のバレエの最良の部分に触れることができた。が、今思うと、世界各地から集まっていたダンサーたちは、さらに大きな刺激を受けていたのではないだろうか。というのも、バレエの中心地と見なされる欧米各地では、それぞれにしがらみやいきさつがあり、世界バレエフェスのように世界を網羅するプログラム陣容を制作するのが逆に難しい。実際、私がフランスにいたときも世界ガラを銘打つ公演はあったが、規模も水準も世界バレエフェスには及ばなかった。かえって遠い日本だからこそ実現できた世界バレエフェスであり、それを可能にしたのが、世界中を自分の目で見て歩き、鋭く判断し、企画しえた佐々木さんの炯眼(けいがん)と手腕だった。92年に世界的振付家のローラン・プティ氏と対談した折に聞いた話だが、初演でさんざんな酷評だったバレエ「プルースト」が後に最高傑作といわれるようになったきっかけは「佐々木さんが一部分を世界バレエフェスで上演してくれて、全幕を見たいという要望がヨーロッパ中に広がったから」。90年代末にヨーロッパ各地のバレエ関係者と話した際も佐々木さんの存在が大きいのに驚いた。例えば、元スペイン国立ダンス・カンパニー芸術監督のビクトル・ウリャテ氏は「佐々木さんに呼んでもらいたいなぁ。安くてもいいから」と言い、私は思わず笑ってしまった[95]。
ここ数年、体調不良で人前に顔を見せることがなかったが、佐々木さんの活動と志は東京バレエ団とNBS(日本舞台芸術振興会)が見事に引き継いでいる。ディアギレフよりも幸せだったと言っていいのではないか。(寄稿)[96]
遺言状には「特記しておきたいのは」として「遺言者の死後、日本国以外からの叙勲は甘受するものの、日本国からのものは一切辞退する」という文言があったという[97]。
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