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『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎狂騒曲』は、きうちかずひろの漫画『ビー・バップ・ハイスクール』を原作とした1987年12月12日公開の日本映画[1][3]。シリーズ第4作[3][4]。東映本番線の1988年お正月映画として公開された[5][6]。東映洋画系は仲村トオルも出演する『あぶない刑事劇場版』第一作[7][8]。
ヒロシ(清水宏次朗)が偶然知り合った女子大生・まゆみ(柏原芳恵)といたところに、城東工業高校退学組の柴田・西(小椋正・永田博康)が絡んできたことから、ヒロシ・トオルと柴田・西の抗争に発展する。柴田と西は、トラックに跳ねられ左足を骨折したヒロシを拉致しトオルを呼び出す。トオルはちんどん屋から奪った馬に乗って駆けつけ、柴田・西とその仲間を撃退したのであった。
冒頭タイトルロール前に「七夕野郎とは 女にかまかけている男という意味であり それが転じて 女にうつつを抜かし 男との大事な事を忘れるマヌケを言う」とテロップが出て、劇中も"七夕野郎"というフレーズがセリフの一部として10回程度使われる本作のキーワード[10]。『シティロード』は"七夕野郎"を色ボケ男と説明している[8]。"七夕野郎"という言葉が当時の不良に使用されていたかは分からない。
トモ加入時の少女隊が中学生役で出演[5][6][7]。喧嘩の助っ人のお礼にヒロシとトオルに乳を差し出す(ナ〇させる)という凄い設定[6][7][8][11][12]。80年代のトップアイドルの一人・柏原芳恵がヒロインとして美大生役で出演[5][13]。持ち味である妙なエロさを画面いっぱいに漂わせる[11]。柏原はヒロシ(清水宏次朗)に好意を持つかのような役を演じるが、実際は一二作目のヒロイン・中山美穂同様、不良を嫌っていたという[13]。
『シティロード』は、アクションは相変わらず過激だが、いつもの高瀬道場でないので少しニュアンスが異なると解説している[8]。高所恐怖症の清水宏次朗にとって[14][15]、シリーズを通じて一番撮影がエグかったのは、本作のクライマックスで、ボタ山のてっぺんから車イスに縛られたまま、柴田グループに突き落とされるシーンだったという[14][15][16]。特効から「いざとなったらパッと紐が取れるようにしとくから」と体を紐で軽く縛ると伝えられたのに、本番ではがんじがらめで首しか動かせない状態[15][16]。崖もかなり急でそこから突き落とされ、もはや拷問[15][16]。ボタ山のため前輪が埋まり、バランスを取るのが難しく[15][14]、何度も引っくり返り、3度目で肩を脱臼[15][16]。救急車で緊急搬送され、病院で肩を入れてもらい、撮影に復帰するもすぐにまた脱臼[16]。清水は「『ビー・バップ』の撮影は本当に悲惨。いつ死んでもおかしくないぐらいの現場だった。他の現場はみんな優しい監督ばかりでしたね(笑)。一回、他の監督の撮影で火だるまになったときもありましたけど『ビー・バップ』での無茶な撮影に比べたら、たかが知れてんなって感じでしたよ」などと述べている[16]。土岐と永田は「スタントマンを雇う金をケチってる」「道路使用許可なんて一回も取ったことはないんじゃないか、警察が来たらすぐ撤収」という撮影だったと証言している[17]。「キツイ部活ほど大人になってからいい思い出になるのと一緒で、それに近いものがある。もう一回やれって言われたらもう絶対にやらない。でも今振り返ってみたら出てよかったと思う。それは那須監督に感謝している」と話している[17]。
清水は車イスシーンに続く危険な撮影が、10分過ぎに女子中学生役の少女隊にトオルや菊永とともに蹴り飛ばされ、牛のアドバルーンにぶらさがるシーンと話し[15][16]、命綱であるワイヤーは、特効が1本で3トンは耐えられると言い張り[15][16]、清水「絶対に切れないよな?」 特効「大丈夫、大丈夫」 清水「もう一回聞くぞ、絶対に切れないよな!」 特効「大丈夫!切れないから!」などとやり取りがあり[16]、念入りに確認したにもかかわらず、撮影が終わって吊るされたまま降りてきた時に地面まであと30cmというところで清水のワイヤーだけがプチンと切れたため激怒[15]、「てめえ、この野郎!」と特効を追いかけ回したという[15][16]。
養豚トラックに轢かれそうになり、ぶただらけのトラック荷台に放り込まれる小沢仁志は「豚のふんまみれになったよ。たまたまお父さん(黒澤満プロデューサー)が現場に来ていて『小沢、お前な、これはイイことなんだぞ』って言うから『何が?』って聞いたら『岩城滉一も前にふんまみれになった(『俺達に墓はない』)。それで、あいつもスターに上がっていったんだぞ』って言われたけど、説得力ねえよ(笑)」などと述べている[18]。
愛徳コンビが対決した城東退学組である柴田を演じた小椋正は、菊永役の石井博泰と当時働いていた会社で知り合って石井の推挙もあってオーディションに応募した。最終選考まで残った時に那須監督から「歯が抜けるか?」と訊ねられ、「仕方がないか」と諦め半分の気持ちで「大丈夫ですよ」と答えたが、彼を気遣った原作者のきうちかずひろや他のスタッフたちが反対した事により、特殊メイクの入れ歯を作ってもらって事なきを得た[19]。脚本の那須真知子は「小椋君は横浜の不良だった」と述べている[20]。清水・仲村以外で唯一、シリーズ全作に3つの役柄で出演する土岐光明は[21]、「出演者の九分九厘は本物の不良です」と述べている[12]。新人が入って来ると土岐たち先輩に名刺を差し出し、たいていそこには暴走族の名前が入っていて「自分は特攻隊しております!!」などと挨拶し、「押忍!一発やらしてもらえますか?」といって待ち時間に喧嘩が始まることが多かったという[12]。土岐は3秒で相手を倒すほど強かったという[12]。
同じく城東退学組である柴田の相棒・西を演じた永田博康は板前をしながら、『恐怖のヤッちゃん』(1987年)に出演し[20]、これを那須博之監督が映画館で観て気に入り[20]、永田が住んでいた大阪までスカウトに行って出演を口説いた[20]。当時、仲村トオルの主演映画『新宿純愛物語』の併映で『恐怖のヤッちゃん』の注目度が高まり、永田自身もインタビューを受けることになったが「仲村トオルと写真を撮らせてくれるなら」という条件で引き受けるも仲村の取材が押して、時間になってもなかなか来ることができず、スタッフが気を利かして『新宿純愛物語』の監督である那須監督と話をさせるもイライラしていた永田が『ビー・バップ』のダメ出しを延々と語ってしまい、後日那須監督から直々にオファーがあり、西役に抜擢され、西役には7,000~8,000人の希望者がいたがオーディションに参加せずに異例の抜擢となった。
撮影終了後の舞台挨拶で永田と小椋が登場すると、清水・仲村についた女性ファンから「ギャー!!」と悲鳴、ブーイングが酷く、永田と小椋は落ち込んでいた[22]。それで打ち上げパーティのときに永田と小椋が飲んだ勢いで、脚本の那須真知子に「このまま悪役のままで終わって、トオルさん、宏次朗さんのファンからブーブー言われて悲しいですよね」と愚痴った[22]。その一件があり、二–三週間後に「五作目も引き続き出演してもらう」とオファーが来て、那須真知子から「同じ役柄だけど、今度はヒロシ・トオルの仲間になるから」といわれた[22]。那須真知子はこの一件の影響かは分からないが、小椋と永田の二人を気に入り、那須監督に「一作だけの出演では惜しい。今度は仲間にしよう」と進言し[20]、第五作で仲間にしたと『映画秘宝』のインタビューで話している[20]。永田はこの後、旅館を経営したが[20]、永田は那須夫妻に強い恩義を感じ、那須監督が亡くなった後も那須家に毎年、お中元とお歳暮を送り続けているという[20]。
クライマックスで、トオル(仲村トオル)が馬に乗って駆け下りるシーンで、2.3秒アニメーションになる[6][23]。不良が駆るのが馬?という唐突な登場は、東映時代劇か、東映まんがまつりを思わすシーン[6]。当初は仲村も自ら乗馬が可能と判断したが、那須監督が「今のアニメの技術は凄い。実際にやらなくても凄い画になる」と自信満々に答えたことから任せたところ、完成された作品は仲村の想像を遥かに超えたものになっていた。仲村は「やっぱり、那須さんの想像力に常人が付いていくことは不可能です(笑)」と答えている。同じく柴田役の小椋正も最も印象に残っているシーンでこの場面を挙げており、撮影では那須監督から「あの山のてっぺんから、トオルが馬に乗って飛んでくる。柴田一派はあの方向を見ながら仰天して倒れてくれ!」と言われ、よくわからないまま、監督の演出どおりに演じた後、完成品として試写室であのシーンを観て、みんな「……」というリアクションだったのに、那須監督だけがどういうわけかガッツポーズしていたと語っている[24]。永田は馬に追いかけられて馬に踏まれたと話している[17]。
三作目まで10億円以上を稼ぐ大人気シリーズではあったが、東映の営業サイドに「そろそろ危ない」という意見が出たため[29]、第一作を除いて、二作目、三作目の併映作が「どちらかといえばもう一本あるわ」だったが、五分五分ぐらいになるようにと大人気アイドルの南野陽子の主演映画と組ませた[29]。この年の東映はヒットすればシリーズ化を予定していた『湘南爆走族』/『本場ぢょしこうマニュアル 初恋微熱篇』、『シャコタン☆ブギ』/『名門!多古西応援団』がコケて、高岩淡東映専務も「ビー・バップ・ハイスクールシリーズが当たっているのはたまたま」[29]、鈴木常承営業部長が「『はいからさんが通る』をつけて(配収)10億円越さなかったら『ビー・バップ・ハイスクール』もおしまいです」と発言するなど[29]、ヤング番組に対する興行不安があった[29]。
当時はビデオによるヤング層の映画離れや[30][31]、ビデオ化も早まり、再上映しても客が来ないといった[30]、映画興行にとっては厳しい時代であったが、配収12億5,000万円と1988年度の邦画配収ランキングで6位に当たる大ヒットになった[2][32]。高岩専務は「『はいからさんが通る』は東京撮影所の植田泰治君[注 1]が頑張ってくれたし、『ビー・バップ・ハイスクール』は黒澤満プロデューサーが、テレビやマンガからの流れで作ったものですし、どちらも東映本体の力で稼いだ作品じゃないですから、私としては実に心苦しい限りです(笑)」などと述べている[32]。
1988年に発売されたビデオも45,009本を売り上げた[33]。本作のビデオ価格は不明だが、当時のビデオは15,000円ぐらいしたため、ビデオ売上げだけでも6億円程度あったものと見られる。
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