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アメリカのシンガーソングライター (1953-) ウィキペディアから
シンディ・ローパー(英語: Cyndi Lauper、1953年6月22日 - ) は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、女優。本名は、シンシア・アン・ステファニー・ローパー(Cynthia Ann Stephanie Lauper)。アメリカなど英語圏での姓の発音は「ラウパー」に近い。
グラミー賞、エミー賞、トニー賞の受賞経験がある。夫はデヴィッド・ソーントン[2]。ゲイ・アイコンの一人としても知られている[3]。
1953年6月22日、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区において、スイスおよびドイツ系アメリカ人の父と、シチリア系アメリカ人の母との間に生まれる。5歳の時、両親が離婚。母親・姉・弟と共にクィーンズ近郊のオゾン・パークへ移住[4]。
12歳の時に、ギターの弾き方を学び、作詞を始める。学校では周りになじめず、授業を受けるかわりに、絵を描いたり、歌を歌ったりして過ごす。17歳の時、自分のおかれている環境に嫌気がさし、高校を退学しついに愛犬スパークルと共に家をでる[注 1]。General Educational Developmentをパスし高校卒業認定資格を受け、en:Johnson State CollegeでArtのクラスの講義などを受けた。 その間、生活のためウェイトレス、絵のモデル、競馬場で競走馬の調教後の生理運動役ホットウォーカー、空手教室の呼びこみ等様々な職につきながら、アートスクールに通ったり、トロント北部にある森でテントを張り、スケッチをしながら過ごした。このころ、付き合っていた男性からの提案で名前をCindyではなくCyndiと綴るようになる[5]。カナダを旅行した後、ニューヨークに戻る。
ロングアイランド出身のバンドDoc Westに加入し、バックグラウンドシンガーとして活動するが、後に別のバンドFlyerに加入しリード・シンガーとして働く。
1977年、歌い続けることによって喉を酷使してしまい声帯に損傷を受けたために声が出なくなり、1年間音楽活動を休止し、ヴォイス・トレーナー、ケイティ・アゲストラの指導のもと、集中的なヴォーカルトレーニングを受けて、歌声を取り戻す。
1978年、キーボード兼サックス・プレイヤーのジョン・テュリと知り合い、意気投合し、自身のバンドブルーエンジェル(Blue Angel)を結成する。
1980年、ポリドール・レコードより、アルバム『Blue Angel』でデビュー。多くの評論家に絶賛されたにもかかわらず、ロカビリーサウンドが理解されなかったり、商業的成功を収められず、バンドはその後すぐに解散。彼女は自己破産を申請し、小売店で働き始め、生活のためにまた歌い始める。
ブルーエンジェル解散後、活動を続けていた頃に後の恋人兼マネージャーとなるマネジメント業のデビッド・ウルフと知り合い、ウルフの紹介を経て、ポートレート・レコードと契約を結ぶ。
ポートレートレーベルのエクゼクティブ・プロデューサー、レニー・ペッツやプロデューサーのリック・チャートフ、後にザ・フーターズを結成するロブ・ハイマンの全面的な協力によって制作されたアルバムで1983年に『シーズ・ソー・アンユージュアル/She's So Unusual』でソロ・デビュー。
1984年、ファースト・シングルの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」がヒット・チャートに急上昇して第2位に輝き、セカンドシングルの「タイム・アフター・タイム」は全米第1位になり、サードシングルの「シー・バップ」は第3位、「オール・スルー・ザ・ナイト」が第5位とデビューアルバムから4曲連続トップ5入りした初の女性ソロ・アーティストとなった。「タイム・アフター・タイム」はマイルス・デイヴィスらにもカヴァーされるスタンダードとなる。
第1回MTVミュージック・ビデオ・アワードで最優秀女性歌手賞を受賞し、ローリング・ストーン誌の1984年度の最優秀新人賞など数々の賞を総なめに。
映画『グーニーズ』のオリジナル・サウンドトラックに参加し、シングル「グーニーズはグッド・イナフ」も全米第10位のヒットとなった。
プロモーションのために3月に初来日、フジテレビ系列『笑っていいとも!』とテレビ朝日系列の『ベストヒットUSA』に出演。
1985年、5枚目のシングル「マネー・チェンジズ・エヴリシング」は全米第27位になり、第12回アメリカン・ミュージック・アワードでは最優秀女性ポップ・ロック・ヴォーカル賞や最優秀女性ポップ・ロック・ビデオ・アーティスト賞を、グラミー賞では最優秀新人賞と最優秀アルバム・パッケージ賞を受賞。USAフォー・アフリカの『We Are The World』のレコーディングに参加。とても印象深い熱唱を披露し、音楽監督のクインシー・ジョーンズに「アドリブ入れてもいい?」と尋ね、彼を喜ばせたという有名なエピソードも残している。
デビューしてわずかな時間で80年代を代表するシンガーとなり、パワフルなヴォーカル、独自のファッション性も話題となった。
1986年、2枚目のオリジナル・アルバム『トゥルー・カラーズ/TRUE COLORS』を発表。日本ではオリコン洋楽アルバムチャートで1986年9月15日付から6週連続1位を獲得した[6]。ファースト・シングル「トゥルー・カラーズ」は全米第1位を2週連続獲得し、セカンド・シングル「チェンジ・オブ・ハート」は第3位に、サード・シングルの「ホワッツ・ゴーイン・オン」は第12位に記録した。
1987年、映画『バイブス秘宝の謎』の撮影に入ってから、スランプに陥ってしまい、私生活ではマネージャーでもあり婚約者で共に暮らしていたデヴィット・ウルフと別離。
1988年、旧ソ連で行われた『米ソ・ソングライター・サミット』に参加したことが転機となり、様々な刺激を受けてスランプを抜け出すきっかけとなり活力を取り戻し、ほとんど出来上がっていたニュー・アルバムを白紙に戻して作り直して、1989年、3枚目のオリジナル・アルバム『ア・ナイト・トゥ・リメンバー/A NIGHT TO REMEMBER』を発表。自身初の全曲ラヴ・ソングとなった。
ファーストシングル「涙のオール・ナイト・ドライヴ/ I DROVE ALL NIGHT」は全米第6位を記録した。
1990年、デビュー前から思うがままに、自由奔放に活動していたが、デビューしてからの商業的成功や名声を得たことにより、レコード会社や周りのスタッフからサウンドの面から様々な面で制限され、創作活動の自由を失っていた頃、再び映画出演をし、『マイアミ・ムーン/Off And Running』の撮影がマイアミで始まる。
そんな頃にオノ・ヨーコからリバプールで行われる『ジョン・レノン生誕50周年コンサート』への参加を依頼され、「ヘイ・ブルドッグ」「労働階級の英雄」をローパー自身でアレンジし、バンドメンバーと演奏する。
さらにベルリンの壁崩壊を記念してベルリンで行われた、『ザ・ウォール・コンサート』に参加したり、湾岸戦争反対のためのプロジェクトにオノ・ヨーコやレニー・クラヴィッツ達と共に参加する。
第41回NHK紅白歌合戦には中継ではなく来日して出演。当日NHKホールのステージで歌唱している。
1991年、映画共演がきっかけで俳優のデヴィッド・ソーントンと11月に結婚する。
1992年、ミュージカル『タイクーン』のサウンド・トラックに参加し、シングル「ワールド・イズ・ストーン/The World Is Stone」がヨーロッパ各国、特にフランスでは3か月間トップ5内を記録するなど大ヒットする。
1993年、フーターズのロブ・ハイマン、エリック・バジリアンやアリー・ウィリス、夫のデビッド・ソーントンらの助けを借りて製作された4枚目のオリジナル・アルバム『ハット・フル・オブ・スターズ/HAT FULL OF STARS』を発表。ローパー自身で全曲曲作りに携わり、アルバム・カバーやさらにビデオ監督までプロデュースして全てを手掛けた。このアルバムはローパー自身がやりたいことを貫き通し、信じられる歌を歌い、周りの人たちにもっと自分の意見を提示してもいいことに気付き、妥協することなく製作された。自分の真実を語った新しいアルバムを一人一人に聞かせるために、アメリカでのクラブ・ツアーを行い、大きな話題を呼んだ。サンフランシスコのクラブのステージ上で、商業的な理由から外されたという8年の歳月を経て発表した「ア・パート・ヘイト」のことや自身の葛藤や苦悩を明らかにした。この年の年末、来日公演を行いその後、シンガポール・台湾と回る。
1994年、初のベスト・アルバム『グレイテスト・ヒッツ/TWELVE DEADLY CYNS...AND THEN SOME』を発表。 全世界で400万枚以上のセールスを記録し、ワールド・ツアーも南米、ヨーロッパ、日本と行われた。
1995年、阪神淡路大震災の被災者へ寄付。ツアーも引き続きイギリス・オランダ・アメリカと行われ、年末に再来日公演を行った。
『オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!!』(フジテレビ正月特番)でものまねタレント斉藤ルミ子がまねた時にご本人として専属ダンサーを引き連れて登場、特別出演し『Hey Now』を披露した。本人によれば「正月のパーティーがあると聞かされた」とのこと。
1996年、5枚目のオリジナル・アルバム『シスターズ・オブ・アヴァロン/SISTERS OF AVALON』を発表。4年連続となる年末来日公演を行う。アルバムには上々颱風も参加しており、武道館公演では飛び入りでライヴに参加した。生田神社(神戸市)の「震災復興節分祭」で豆まきを行うために来日。しかし、豆まきは参拝客が殺到してわずか2分で中止になる。
1997年、11月に44歳にして長男デクラン・ワレスを出産。念願だった子供を授かる。
1998年、クリスマス・ソングやクリスマスに関係した曲を集めた初のシーズナル・アルバム『メリークリスマス…ハヴ・ア・ナイス・ライフ!/ Merry christmas...Have a nice life!』を発表。ジャケットには夫のデヴィット、ブックレットにはデクランと共に写っており、収録曲の「New Year's Baby(First Lullaby)」には当時乳幼児であったデクランの声が収録されている。このアルバムを最後にソニー・レーベルとの契約が一旦終わった。
1999年、『グラミー賞 Best Dance Recording』部門にノミネートされた「Disco Inferno」がJellybean Recordsから発売されクラブチャートでヒットし、シェールと共に3か月半に及ぶ大規模な北米ツアーにでる。またアメリカのTV番組「Mad About You」に再出演したり、クリストファー・ウォーケンと共演した映画『The Opportunists』の撮影が始まる等、女優活動も精力的に行う。
2000年、映画『The Opportunists』が公開され、各方面で高い評価を受ける。またこの年、ジョニ・ミッチェル・トリビュート・コンサートに出演したり、シェリル・クロウ、ハート、デスティニーズ・チャイルド達と共にガン撲滅のためのチャリティー・ライブ『Girls With Guitar Concert』に出演する。
2001年、坂本龍一の呼びかけで地雷撲滅のためのチャリティーレコード『Zero Landmine』に多くのミュージシャンと共に参加したり、この年9月にアメリカで起こった同時多発テロのため、当初予定より延期され、趣向を変更し開催された『ジョン・レノン・トリビュート・コンサート』に参加し、セントラル・パークで、「Strawberry Fields Forever」を歌う。
ロブ・ハイマン、ジャン・パルスフォード、坂本龍一等との共作曲を収録したウィリアム・ウィットマンとの共同プロデュースで7枚目のオリジナルアルバム『SHINE』を完成させ、夏にEdel America Records(エデル・レコード)から発売される予定であったが、発売直前にEdel America Records が倒産し、アルバム発売は中止されてしまう。
2002年、アルバム『SHINE』に収録予定であった曲の中から、それまでライブやイベント等で歌ってきてファンのリアクションの良かった曲を選曲し収録された5曲入りのミニアルバムがOglio Records(オグリオ・レコード) から発売される。また、ラスベガスで行われたディーバーズ・ライブにスペシャルゲストとして出演し、シェールとデュエットを披露した。その後再びシェールと共に6か月にも及ぶ大規模な北米ツアーを行い、延べ100万人以上の観客動員数を記録し、ローパーの以前と変わらないライヴパフォーマンスに各方面から大きな賞賛を受ける。
またシェールとのツアーの合間には、ソロライブを行ったり、店頭でのサイン会&ミニライブを行うなど、原点に戻った地道な活動を行い、『Shine EP』はマイナーレーベルからの発売にもかかわらず、好セールスを記録した。
2003年、ソロ・ツアーやミート・ローフとのジョイント・ツアーなど精力的にライブ活動を行う。ソニーと再契約を結び、幼少の頃に聴きながら親しんでいた1940年から1960年代の曲をカヴァーしたカヴァー・フル・アルバム『アット・ラスト/AT LAST』を発表。10月下旬から、久々の大規模なソロ・ツアーが始まり、大晦日のニューヨークでは、タイムズ・スクエアでのニューイヤーズ・イブのイベントにも参加する。
2004年、諸事情(上記参照)でお蔵入りとなっていた7枚目のオリジナル・アルバム『シャイン/SHINE』を日本限定で8枚目のフル・アルバムとして発表。6月には8年ぶりとなる日本ツアーが実現し、6都市全8公演を行い、変わらないパワフルなライブパフォーマンスを披露した。その後ツアーはオーストラリア、再び北米へと9月まで続けられる。2003年から続けられた『At Last Tour』の地元ニューヨーク公演を収めた、ライヴDVD『Live...At Last』が発売される。また、11月にオランダで行われた『Night of the Proms』に参加、12月にはノルウェーで行われた『ノーベル平和賞コンサート』にも参加した。翌年の2月に行われたグラミー賞では、『At Last』に収録された「Unchained Melody」が『Best Instrumental Composition Accompanying a Vocal』部門にノミネートされる。
2005年、ジェフ・ベック、サラ・マクラクラン、シャギー、アニー・ディフランコ、ヴィヴィアン・グリーン、パフィーなど、多くの豪華ゲストを迎えて、過去のヒット曲や人気曲を自らカヴァーしたセルフカヴァー・アルバム『ボディー・アコースティック/The Body Acoustic』を発表。 それにあわせて、プロモーション来日を果たし、様々なメディアに登場し、東京で開催された『GO LOHAS! 2005』のイベントでは、新作から3曲を披露した。 帰国後は北米ツアーを開始し、ツアーの合間にはアメリカン・ミュージック・アワードのステージで、サラ・マクラクランと「Time After Time」をデュエットで披露した。
2006年、『THE THREEPENNY OPERA(三文オペラ)』(ベルトルト・ブレヒト作、クルト・ヴァイル作曲)で娼婦「ジェニー」役でブロードウェイ・ミュージカルデビューを果たし、4月から6月までSTUDIO 54にて出演。 6月に行われたトニー賞では、共演者のAlan Cummingとパフォーマンスを披露した。また、7月には同性愛者のオリンピック『ゲイ・ゲームズ』閉会式に出演した。
2007年、6月に多数のアーティスト達と『True Colors 2007 Tour』を行う。ツアーの目的は同性愛者の権利の擁護推進のためのもので、チケット1枚につき1ドルが『Human Rights Campaign』と題された人権擁護活動に寄付された。5時間にも及ぶ大規模なショーは北米16都市で公演されて大成功を収め、参加したアーティストが曲を提供した記念盤のCDが発売される。 また、8月にはペット・ショップ・ボーイズ、シャギー等とともにシンガポールで行われたSingfestに参加した。 同8月、SUMMERSONIC 07 出演のために来日。11日の大阪舞洲サマーソニック特設会場、12日の千葉幕張メッセにて変わらないパワフルなライヴパフォーマンスをし、改めて高い評価や新たなファンを得た。その後、東京、名古屋で行われた単独ライヴでは、東京ではセカンド・アンコールが起こったり等、両日共に大盛況に終わった。
2008年5月14日に9枚目のオリジナル・アルバム『ブリング・ヤー・トゥー・ザ・ブリンク〜究極ガール/BRING YA TO THE BRINK』を発表。 オリジナル・アルバムとしては7年ぶり、メジャーでレコーディングしたフル・オリジナル・アルバムとしては12年ぶり。 TOYOTA MARK X ZiOのCFソングとしてOAされていた収録曲の『セット・ユア・ハート/SET YOUR HEART』をはじめ、全曲、ダンス・ミュージックとなっている。 アルバム発売日に合わせて来日し、東京 丸の内 丸ビル1F MARUCUBEにてニュー・アルバム発売記念ライヴをし、新曲を含めた数曲を披露。 靴を脱ぎ、ステージから降りて客席でパフォーマンスをしたり等、イベント当選者や仕事帰りの人々を楽しませ、様々なメディアにも出演した。 2008年9月にCYNDI LAUPER JAPAN TOUR2008と題し、12年ぶりの日本武道館公演を含む3都市全4回の来日公演が行われる。その後、ヨーロッパ、南米でのツアーを行う。
2011年3月11日に起きた日本における東日本大震災の直後、日本でのコンサートツアーのために来日(彼女の乗った飛行機は地震による閉鎖のため成田空港に降りられず、米軍横田基地に着陸した)。他の海外ミュージシャンが日本での公演を中止して帰国ないし、来日をキャンセルし、レコード会社からも帰国するように勧められていた中、2011年3月16日から、予定通りコンサートを行った。更に会場でチャリティのための募金を呼び掛け、コンサートをチャリティイベントにした。
また、大阪滞在時に湯川れい子へ「こういう時こそ、日本にくることが出来て、私の人生の中でも名誉なことでした。ありがとう」と綴ったメールを送っている。
2012年6月18日にプロレス団体WWEのRAWにゲストホストとして登場[7]。過去には1985年に開催された第1回レッスルマニアでウェンディ・リヒターのセコンドとして出場している。同年、ミュージカル『キンキーブーツ』(原作は2005年公開の同名映画)の音楽を担当。第67回トニー賞でオリジナル楽曲賞を受賞した。
2013年8月10日・11日にSUMMERSONIC 13 に出演。10日の大阪舞洲サマーソニック特設会場、11日の千葉幕張メッセのMOUNTAIN STAGEでパフォーマンスを行なった。
2015年1月 1985年に発売されたデビューアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』の発売30周年を記念したジャパンツアーシンディ・ローパー ~30周年アニヴァーサリー・セレブレーション ジャパン・ツアー2015を開催。武道館公演を含む全6都市公演。
2016年1月、ローパーは2016年5月6日に新しいアルバムをリリースすることを発表した。このアルバムは彼女の早期カントリークラシックスの解釈で構成され、『Detour』と題された。この発表は、ハーラン・ハワードの「Heartaches by the Number」の彼女のバージョンのリリースと、Kelsea BalleriniとIngrid MichaelsonとのSkyville Liveでのパフォーマンスによって支持された。また、2016年2月17日には、ワンダ・ジャクソンの「Funnel of Love」の彼女のバージョンがリリースされた。
2016年2月、ローパーは『キンキー・ブーツ』の英国プロダクションへの貢献に対して、スティーブン・オレマスと共にオリビエ賞にノミネートされた。また、2017年1月には、このプロダクションのアルバムがグラミー賞のベストミュージカルシアターアルバムにノミネートされた。
2016年5月、ローパーはフランスのプロデューサー、ジャン=ミシェル・ジャールによる『Electronica 2: The Heart of Noise』の「Swipe to the Right」にフィーチャーされた。この『Electronica』プロジェクトの第2弾アルバムは、電子音楽に関連するアーティストとのコラボレーションに基づいている(Tangerine Dream、Moby、Pet Shop Boysなど)。
2017年1月、ローパーはAustin City Limitsの第42シーズンに出演し、『Detour』からのカントリーチューンとともに、彼女のクラシックな曲のいくつかを披露した。このエピソードはPBSで放送された。
2018年3月、ローパーは『タイム・アフター・タイム』の共作者であるロブ・ハイマンと共に、1988年の映画『ワーキング・ガール』のミュージカル版の楽曲を作曲することが発表された。この映画にはメラニー・グリフィスとシガニー・ウィーヴァーが出演した。彼女はハイマンと協力したが、音楽を1980年代のように聞こえるものにしたかったと述べている。ミュージカルはトニー賞受賞者のクリストファー・アシュリーによって上演され、ミュージカルの開発プロダクションのプレミアは2021/2022シーズンに予定されていた。
Grandin Roadのために、ローパーは独自に「Cyndi Lauper Loves Christmas」という彼女自身のクリスマスコレクションをデザインし、2018年9月から利用可能にした。「私はいつもクリスマスが好きで、それは私に小さなことで幸福を見つけることを思い出させてくれます」とローパーは述べた。
彼女の年次のHome For The Holidaysコンサートは、ニューヨークのビーコンシアターで2018年12月8日に開催された。
ローパーはテレビシリーズMagnum P.I.のリブートのエピソードで弁護士役としてゲスト出演しました。このエピソードは「Sudden Death」と題され、2018年10月22日に放送された。
2018年11月15日、ローパーはビルボードの第13回年次「ウィメン・イン・ミュージック」イベントでアイコン賞を受賞することが発表され、12月6日にニューヨーク市で授与された。ビルボードの編集ディレクター、ジェイソン・リプシュッツは「世界中がサインディ・ローパーのポップ音楽の力を認識し、同様に彼女は音楽を超えて不可欠な才能を活かし、現代社会にポジティブな変化をもたらし、真のアイコンになっています」と述べた。
曲「Together」は、2019年1月に公開されたカナダのコンピューターアニメーション映画『Racetime』にフィーチャーされた。もともとフランス語でDumasによって書かれ、演奏されたこの曲は、映画の英語版である『La Course des tuques』の英語翻訳をローパーが演奏した。
2019年6月26日、ローパーはStonewall 50 – WorldPride NYC 2019のオープニングセレモニーでパフォーマンスを行った。ハリウッドボウル管弦楽団の伴奏を受け、トーマス・ウィルキンスが指揮をし、ローパーは2019年7月12日と13日にアイコニックなハリウッドボウルで2つのコンサートを行った。
2019年9月、ローパーがジェーン・リンチと共演し、今日の「ゴールデン・ガールズのようなもの」と形容される新しいNetflixコメディシリーズに出演することが発表された。なお2021年3月時点で、このプロジェクトに関する更新情報は無い。
2020年1月26日、ローパーはロサンゼルスで開催された第62回グラミー賞授賞式で、1980年の映画『Fame』のサウンドトラックからの曲「I Sing the Body Electric」のコーラスを歌った。この授賞式は長らくグラミー賞テレビプロデューサーを務めたケン・アーリッヒへの送別の一環で、他にベン・プラット、カミラ・カベロ、オリジナルの映画に出演したデビー・アレンなどが出席した。
2020年4月23日、ローパーは新型コロナウイルスのパンデミックによって経済的に困難を抱えるLGBTQナイトライフの労働者に対する資金調達コンサートに参加し、「True Colors」を披露した。このコンサートは、歴史的なグリニッジ・ヴィレッジのゲイバーであるStonewall Inn Gives Back非営利団体によって発起され、他の出演アーティストにはケイト・ピアソン、Our Lady J、ルーファス・ウェインライト、ダレン・ヘイズなどが含まれた
2020年11月、ローパーは元トップテン「アメリカン・アイドル」ファイナリストのケイシー・エイブラムスと共演し、曲「Eve of Destruction」のカバーバージョンを制作した。
2021年11月、ローパーはShea Diamondのトラック「Blame it on Christmas」のゲストボーカルとしてフィーチャーされた。翌月には公式ビデオがリリースされた。
ローパーは2022年のMusiCares Person of the Year Tribute Showでジョニ・ミッチェルを称えるコンサートに出演した。
アーティストとして
人物像
大の親日家として知られる。
社会活動
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日本語能力
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