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カナダ出身のプロレスラー ウィキペディアから
ケニー・オメガ (英語 : Kenny Omega、本名 : タイソン・スミス (Tyson Smith) 1983年10月16日 - )は、カナダの男性プロレスラー。AEWの副社長。
オメガの父は地元でも有名なアイスホッケーの選手であったが、膝の怪我でプロ入りを断念した。それでも、オメガが10歳になると息子にホッケーの手ほどきを始めたという。オメガのポジションはゴールキーパーであり、もともとチームプレーよりシングル志向であったオメガには向いていたポジションであった。プロレスとの出会いは3、4歳の頃であり、元々父がプロレスファンで、テレビで中継を毎週欠かさず見ていた。オメガは父の膝元でWWFの「サタデーナイトメインイベント」に夢中になったが、オンエアの時間帯は幼児が寝ている時間帯であったためビデオに録画して翌朝に見た。プロレスが大好きになった頃から、オメガは路上に積もった雪をマットに見立てて受け身を行うなどプロレスごっこに熱中した(ごっこ遊びではなく練習のつもりであった)。こうした遊びができるので夏より冬の方が好きであった。プロレスはテレビで見るだけでなく、ウィニペグで大会があれば親に連れて行ってもらったりもした、周囲の子供たちがハルク・ホーガンのファンであり、自身としてもホーガンは気に入っていたが自身の一番のお気に入りはアルティメット・ウォリアーであった[2]。
11歳の頃のある日、”バックヤードレスリング”のアイデアが突然ひらめき、その規模はプロレスごっこの範疇を超えて徐々に大きくなり、興行形態を模したショー形式になっていった。TCW(タイソン・チャンピオンシップ・レスリング)というプロモーション名を関したこの”バックヤードレスリング”はオメガが14歳から16歳ぐらいの頃までが活動のピークであった。本人いわく「バックヤードレスリングのアイデアは、プロレスとジャッキー・チェンの融合なんだ」とのことであり、オメガはジャッキー・チェンにも憧れていた[2]。
ウィニペグ近郊のトランスコナの出身である縁から2000年2月にウィニペグのローカル団体 Top Rope Championship Wrestling でプロレスデビュー。ただこの試合はすぐに退場になってしまったため、オメガ本人はこの試合をデビュー戦とは捉えていなかった。シングルでプロのリングに上がったのは同年6月17日であった。この試合は食料品店でアルバイトしていたときに友人が店に駆け込み「病気で欠場者が出て、選手が足りない。今日の試合に出てくれないか?」と頼んだため、バイトを仮病で早退して出場。店から猛ダッシュでウィニペグ市内の会場へ駆け込み、ライアン・プライスとのシングルマッチに挑み、これに勝利。無名の新人がいきなりやってきて勝ってしまったのでバックステージでの反応は冷たいものであった[2]。当初はサーフィン初心者にもかかわらず「ハワイのサーファー」というギミックだった[3] が、後に「ストリートファイター」の波動拳などを得意技として使用する「ゲーム・アニメ好きのギーク(おたく)」というギミックに変更した。
しかし、アイスホッケーの方で忙しくなり、大学進学の話も進んでいたため、プロレス活動は一時中断してしまう。バックヤードレスリングは18歳の時に終了している。その頃のオメガには大学進学、プロレス、そして映画俳優(当時、オメガは商業映画ではないが短編映画に出演しており、次回作のオファーも受けていた)という3つの進路があったが、最終的にプロレスを選んだ。クリス・ジェリコ、ライノ、ランス・ストームらが参戦するレスリングツアーがあり、オメガはそちらへの出場を決めたのである[2]。
その後、ROH、JAPW、PWGなどのアメリカのインディー団体で活躍しWWE傘下のDSWに参戦していたこともあるが、「レスラーとしての環境としては最高だが、ロボットに作り替えられるようだった」として自ら退団している[2]。
2002年3月にはPCWに初参戦し、メンタロとの一戦でいきなり同団体のマッチ・オブ・ジ・イヤー(年間ベストバウト)を受賞した。ここで出会ったメンタロの指導で、オメガは様々なレスリングを吸収するようになっていく。日本のプロレス、特にインディー事情に精通していったのもこの頃である。その過程で日本への憧れが大きくなり、いつしか日本行きがオメガの目標になっていた。オメガは日本行きのチャンスを得るためにアメリカWLWが開催するレスリングキャンプに参加したが、結果としてはWWEの目に留まった[2]。
WWE退団後、ジョン・ローリナイティスからは全日本プロレス行きも勧められたが進展はなく、オメガはアメリカを去った。2006年9月、カナダのPCWに戻って試合を行った。日本行きも諦めたわけではなく、オメガはそれ以前からいくつかの団体とコンタクトを取り、試合を収録したDVDも送っていたが、具体的な誘いはないまま時間ばかりが過ぎて行った。引退も考えていたが、PCWのリングにAJスタイルズがやってきて、スタイルズとのシングルマッチを行ったケニーは改めてプロレスの楽しさを知った。レスラー活動の継続を決めたオメガは、アメリカからやってくるインディーの大物を相手にするようになり、ピーティ・ウィリアムスやサモア・ジョーとも対戦。そして2008年3月にはアメリカに渡り、ロウキーに勝ってJAPWのタイトルを獲得した[2]。
YouTubeなどの動画投稿サイトにエニウェア・マッチの動画が公開され、一部の日本のレスリングファンなどから話題になる。オメガ本人の猛烈な高木三四郎への売込み[4] によりDDTがオメガを日本に招聘し、2008年7月に初来日した。
2009年1月より飯伏幸太と「ゴールデン☆ラヴァーズ」を結成し、第28代CMLL認定KO-Dタッグ王座を獲得するなどの結果を残している。
2010年1月31日には新日本プロレスに初参戦。新日本主催の『BEST OF THE SUPER Jr.XVII 〜STRIKE GOLD〜』に出場して金本浩二、田口隆祐などから勝利しブロック3位の成績を残した[5]。
8月30日にはSMASH.7にも参戦。オメガのカナダ時代の師匠であるMentalloと対戦し勝利を収めた。
10月11日、新日本プロレス両国大会で飯伏との「ゴールデン☆ラヴァーズ」でIWGPジュニアタッグ王座に挑戦し、プリンス・デヴィット&田口隆祐のApollo55を下して戴冠した。その後は2度(Apollo55、邪道&外道)も防衛した。
2011年6月19日、中澤マイケルとのタッグでKO-Dタッグを奪取するも6月24日のワンマッチ興業でHARASHIMA&HERO!組に敗れた。
7月29日、DDT新木場1stRing大会で全日本プロレスへの参戦希望を表明、これを受けて全日本のジュニアヘビー級リーグ戦への参戦が決定した。
9月11日、全日本のジュニアヘビー級リーグ戦開幕戦で世界ジュニアヘビー級王者・KAIから勝利する。10月23日、全日本・両国大会でKAIを破り世界ジュニアヘビー級王座を奪取した(第31代王者)。
2012年8月18日、DDT初の日本武道館大会のメインイベントで飯伏が保持するKO-D無差別級王座に挑戦するも敗れた。飯伏とはこれが4年ぶり2度目のシングル戦であった。
12月23日、後楽園ホール大会でエル・ジェネリコを破りKO-D無差別級王座を初戴冠。HARASHIMA、中澤マイケルを相手に防衛するも翌年の2013年3月20日、入江茂弘に敗れ防衛に失敗した。
2014年10月3日、オメガはDDTとの契約を10月いっぱいで終了し、新日本プロレスに移籍することが発表された[6][7]。
10月26日、オメガはDDTラストマッチで飯伏とタッグを組み男色ディーノ&竹下幸之介と対戦、PKこころΩで勝利を収めようとするが中澤マイケルが試合を終わらせたくないと乱入するが飯伏のハイキックで排除されてしまう。さらに試合にはケニーが寮を出て行ってしまうことを悔やむ遠藤哲哉やヨシヒコに似たオメガのコスチュームをまとったケニヒコが登場するが遠藤は飯伏の正拳突きを食らいこれも排除される。試合はゴールデンシャワーでディーノから勝利しラストマッチを勝利で飾った。
11月8日、オメガは新日本が主催するPOWER STRUGGLEにて、IWGPジュニアヘビー級王座の防衛に成功した田口隆祐の前にヒールユニットBULLET CLUB(略称 : BC)メンバーと共に姿を現わす。そしてBCメンバーのカール・アンダーソンから「ザ・クリーナー(洋画「ザ・クリーナー 消された殺人」から転じて「暗殺者」の意)」と紹介され、田口の保持するIWGPジュニア王座に挑戦することを表明した[8][9]。
2015年1月4日、レッスルキングダム9に登場し、IWGPジュニア王座を保持する田口に挑戦し片翼の天使でピンフォール勝ちを収め、第70代王者となった[10]。その後、2月11日、THE NEW BEGINNING in OSAKAにて、田口とのリマッチを制して初防衛に成功を収めた[11]。以降、マスカラ・ドラダ[12]、アレックス・シェリー[13] を相手に3度の防衛に成功していったが、7月5日、DOMINION 7.5 in OSAKA-JO HALLにて、BOSJを制し挑戦しに来たKUSHIDAとの対戦で敗北を喫し、王座から陥落した[14]。9月23日、DESTRUCTION in OKAYAMAにて、IWGPジュニア王座を保持するKUSHIDAに挑戦。試合終盤、レフェリーのブラインドを突いてアンダーソンが試合に介入し、KUSHIDAをガン・スタンを炸裂させた後、片翼の天使を見舞いピンフォール勝ちを収め、第72代王者に返り咲いた。試合後にマイクを握ると、この試合をリングサイドで観戦していたマット・サイダルをIWGPジュニア王座の次期挑戦者として指名した[15]。10月12日、KING OF PRO-WRESTLINGにて、サイダルを相手に初防衛戦に臨み、最後は片翼の天使を決めて勝利した[16]。
2016年1月4日、レッスルキングダム10にてIWGPジュニア王座2度目の防衛戦としてKUSHIDAと対戦。オメガもセコンドの介入を巧みに利用したダーティファイトを展開し、片翼の天使を決めようとしたところを前方回転エビ固めで丸め込まれ、ピンフォール負けとなり、王座から陥落した[17]。
1月5日、NEW YEAR DASH !!にて、AJスタイルズとタッグを組み、CHAOSの中邑真輔 & YOSHI-HASHI組と対戦。中邑からピンフォール勝ちを収め、番狂わせを引き起こした[18]。そして試合後、BCのチームメイトであるAJに対して片翼の天使を見舞い、後から駆け付けたBCメンバーらと共にAJを追放。同時に中邑の保持するIWGPインターコンチネンタル王座(IC王座)に挑戦を表明しヘビー級転向を宣言すると、BCの新リーダーに就任した[19]。しかし、後に中邑は新日本を退団することを発表し、IC王座を返上。次期シリーズにてIC王座決定戦として対戦カードが組まれたが、オメガの相手は"X"と発表された[20]。 同月30日、Road to THE NEW BEGINNINGにて、メインイベントで行われた中邑真輔壮行試合終了後に姿を現し、中邑を挑発する。そこに棚橋弘至が割って入るとオメガに自身が"X"だと宣言、IC王座決定戦の相手として名乗りを上げ、正式に選手権試合が組まれることとなった[21]。
2月14日、THE NEW BEGINNING in NIIGATAにて、IC王座決定戦と銘打たれた試合で棚橋と対戦。ヤング・バックスの乱入など援助を受け、右肩を痛めていた棚橋を追い詰めると、最後はランニングニー3連発から片翼の天使で棚橋からピンフォール勝ちを収め、第13代王者に輝いた[22][23]。
同月20日、新日本とROHの共催興行、HONOR RISING:JAPAN 2016にて、ヤング・バックスとのトリオ、The Eliteとして、NEVER無差別級6人タッグ王座を保持するCHAOSの矢野通 & ブリスコ・ブラザーズ(ジェイ・ブリスコ & マーク・ブリスコ)挑戦。最後は矢野からピンフォール勝ちを収め、第4代王者組に戴冠し二冠王となった[24]。
同月26日、ROHが主催する14周年記念興行ラスベガス大会に参戦。NEVER6人タッグ王座の初防衛戦でKUSHIDA & ACH & マット・サイダル組と対戦。最後はサイダルからピンフォール勝ちを収め、初防衛に成功した[25]。
その後もオメガは新日本正規軍との抗争に身を投じることとなり、4月10日、INVASION ATTACK 2016にて、NEVER6人タッグ王座を賭けた防衛戦で、棚橋 & マイケル・エルガン & ヨシタツ組と対戦。この日復帰を果たしたヨシタツの首を集中攻撃していくも、最後はニックがエルガンからピンフォール負けを喫し王座から陥落[26]。試合後、リング上でエルガンと一触即発の睨み合いとなり、IC王座を賭けたタイトルマッチでエルガンと対戦することが決定した[27]。4月27日、Road to レスリングどんたく 2016博多スターレーン大会にて、IC王座初防衛戦の相手としてエルガンと対戦。試合終盤、リング上から場外に設置されたテーブルに向かってのパワーボムを喰らいピンチに陥ったが、最後は片翼の天使でピンフォール勝ちを収め初防衛に成功した[28]。
夏場にG1 CLIMAXに初出場。Bブロック最終戦8月13日両国国技館で、内藤哲也に勝利し優勝決定戦進出を決める。14日の決勝では、オメガの盟友でもある飯伏のシットダウン式ラストライドとフェニックススプラッシュやプリンス・デヴィットのブラディサンデー、AJスタイルズのスタイルズクラッシュを繰り出し、最後は片翼の天使で後藤洋央紀からフォール勝ちを収めた。初出場で初優勝、大会史上初の外国人優勝を成し遂げた[29]。
9月22日、権利証防衛戦相手に指名したYOSHI-HASHIに勝利した。
10月10日、YOSHI-HASHIに勝利後に名乗りを挙げた後藤洋央紀と権利証防衛戦をし、勝利した。
2017年1月4日、レッスルキングダム11(東京ドーム)にてオカダ・カズチカのもつIWGPヘビー級王座に挑戦。46分45秒という長丁場の戦いの末にオカダのレインメーカーの前に沈み、王座奪取を果たせなかった[30]。
6月11日に大阪城ホールで再びオカダのIWGPヘビー級王座に挑戦、1月の東京ドームでの対決以上に壮絶な戦いを繰り広げ、60分フルタイム引き分けとなってまたも王座を奪取することは出来なかった[31]。
7月2日、アメリカ・ロサンゼルスにて開催された新日本プロレス「G1 SPECIAL in USA」大会にて、新設されたIWGP USヘビー級王座決定トーナメントが行われ、石井智宏との決勝戦を制し初代王者に輝いた[32]。
IWGP・US王者として、そして外国人選手初の連覇をかけて臨んだG1 CLIMAXではBブロック2位でリーグ最終戦を迎え、首位を走るオカダと対戦する。決勝戦に進むためには公式戦の30分以内での勝利が絶対条件のオメガは、序盤からオカダの痛めている首を大技も絡め徹底攻撃。オカダのレインメーカー2連発を凌いだ後、しばらく封印してあったクロイツ・ラスを解禁、最後は片翼の天使でオカダを撃破。シングル戦初勝利を挙げるとともに2年連続の決勝戦進出を決めた[33]。 優勝決定戦では、内藤哲也と1年ぶりに対決。両者大技の応酬となるも、最後は内藤のデスティーノ2連発(旋回式&正調)の前に敗れ、連覇はならなかった。
2018年1月4日、レッスルキングダム 12(東京ドーム)にて自分自身の持つIWGP USヘビー級をかけて、クリス・ジェリコ との闘いに勝利する。翌日の大会でオメガはジェイ・ホワイトを勧誘したが、ホワイトから不意打ちのブレードランナーを喰らい、ホワイトの加入は叶わなかった。同日、バックステージにてホワイトの挑戦を受諾する。
迎えた北海きたえーる大会2日目の1月28日、選手権試合でホワイトの挑戦を受けるも敗北し、王座から陥落することとなる。試合後、オメガはCodyと言い争いになり、和解しようとしたがCodyと同王座の次期挑戦者に名乗りを上げたハングマン・ペイジによる襲撃に遭うものの飯伏幸太がその場に駆け付け救出に成功。そして、飯伏が手を差し伸べるがオメガは俯いてしまう。やがて抱擁し、共に退場して行った。その後、オメガは自身のTwitterで「A new beginning.(新しい始まり)」と呟いたことからゴールデンラヴァーズの復活を示唆した。その同日、The Eliteは解散したかと思われたが、Youtube のチャンネルである Being The Elite でオメガと飯伏がホテルにいるヤングバックスの2人のもとへ行くシーンがあった。
3月25日、カリフォルニアで開催された「STRONG STYLE EVOLVED」のメインイベントで飯伏とタッグを組みヤング・バックスと対戦し、勝利を収める。ヤング・バックスとの友情に揺れ、攻撃を躊躇するオメガに対し飯伏が攻撃を命じるシーンが見られた。4月1日、新日本両国国技館大会でCody&ハングマン・ペイジ組と対戦。試合を優位に進めるも、終盤で飯伏がCodyの丸め込みでピンフォールを取られ敗戦した。復活後はじめての黒星となった。
6月9日、大阪城ホールにてセコンドに飯伏を置き、オカダ・カズチカとのIWGPヘビー級選手権試合を両者承諾の上で時間無制限三本勝負という異例の試合形式で戦った。両者一本ずつ取り合った決戦の三本目にオメガ自身のフィニッシュ・ホールドである片翼の天使をオカダに浴びせてピンフォールを奪い、1時間を超える対決を制しIWGPヘビー級王座を初獲得。第66代王者となった[34][35]。試合後、オメガはリングに上がったヤング・バックスと抱擁し和解。その後のインタビューで、オメガ、飯伏、ヤング・バックスによる新ユニット「ゴールデンELITE」の結成を宣言した[36]。
7月8日(アメリカ時間では7月7日)、サンフランシスコ大会のメインイベントでCodyを相手に初防衛戦を行う。事実上のTLCマッチとなった試合を制し初防衛を果たすものの、試合後にタマ・トンガ、タンガ・ロア、キング・ハクから奇襲を受けた。この際、Codyが助けに入ったことで2人は完全和解したものの上記の3人とバッドラック・ファレはBULLET CLUB OG(別名「Firing Squad」)を結成。Codyを含むオメガサイドはBULLET CLUB ELITEとして団結することとなった。また、この試合前日の記者会見で、質問に答える形で、日本国籍を取得したことを明らかにした[37][38]。
『G1 CLIMAX 28』はBブロック予選を勝ち点12で終え、飯伏、内藤、ザック・セイバーJr.と並ぶ同点1位となった。直接対決の結果により、8月11日の予選最終戦で破れた飯伏に決勝進出を譲る格好となった(いわゆるオポネント落ち)[39]。8月12日、8月4日大阪大会のG1公式戦で破れた石井智宏からIWGPヘビー級選手権への挑戦表明を受け、国内での初防衛戦の相手が石井に決定した。
2019年1月4日、レッスルキングダム13 (東京ドーム) にて自身の持つIWGPヘビー級王座をかけて棚橋と対戦したが、39分の激闘の末敗戦となった。
2月8日(アメリカ時間2月7日)、AEWとフルタイム契約を交わした事をAEWの旗揚げ公演決起集会にて発表。 またAEWの副社長に就任した。
8月25日のDDT後楽園ホール大会において、11月3日の両国国技館大会に参戦すると発表された。約5年ぶりのDDT参戦となる。
10月19日、AAAのコリセオ・ラ・コンコルディア大会でレイ・フェニックスを破りAAA世界ヘビー級王座を獲得。
11月3日、DDT両国国技館大会に参戦、里歩と組んでアントーニオ本多&山下実優組と対戦、アントーニオ本多に片翼の天使でフォール勝ち。
2020年1月22日、アダム・ペイジと組んでフランキー・カザリアン&スコーピオ・スカイのAEW世界タッグ王座に挑戦し、ペイジがカザリアンをフォールして王座奪取、第2代王者となる。
以降は同王座の防衛記録を重ねるが、9月5日のPPV大会オールアウトでFTR(キャッシュ・ウィーラー&ダックス・ハーウッド)に敗戦[40]。これを機にペイジとのタッグを解消してシングル戦線に舞い戻り[41]、10月から11月まで開催されたAEW世界王座挑戦権獲得トーナメントを勝ち抜き、挑戦権を獲得[42]。
12月2日、AEW世界王座をかけてジョン・モクスリーと対戦し、片翼の天使でフォール勝ちを収め、同王座を初戴冠する[43]。
11月20日、新日本プロレスとスターダムの合同興行「Historic X-over」において、IWGP USヘビー級王座を防衛したウィル・オスプレイに対しビデオメッセージで「お客さんが減ったのはパンデミックのせいじゃない。本当のパンデミックはお前だ。」等と日本語で挑発した。その後、翌年1月4日の東京ドーム大会にてUSヘビー級王座をかけて闘うことが決まった。
1月4日、WRESTLE KINGDOM 17 in 東京ドームにてウィル・オスプレイを下しIWGP USヘビー級王座を奪取。翌5日の大田区総合体育館大会ではIWGP世界ヘビー級王座を保持するオカダ・カズチカとの王者タッグが実現し、ジェフ・コブ&アーロン・ヘナーレと対戦し勝利した。
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