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イギリス陸軍の特殊部隊 ウィキペディアから
特殊空挺部隊(とくしゅくうていぶたい、英: Special Air Service,SAS)は、イギリス陸軍の特殊部隊である。
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現代的な特殊部隊としては、世界初の特殊部隊である。「Air」の語から空軍を連想しやすく、「空軍特殊部隊」という誤訳がたまに見られるが、実際には陸軍の部隊で、第二次世界大戦中に空挺作戦による敵陣への進入を想定して生まれた名称である。
現在の各国に置かれている特殊部隊の手本となった。オーストラリアなどイギリス連邦諸国には、合同訓練を実施した上で、名称まで同じSASとした特殊部隊がいくつか存在している。「特殊空挺部隊」と訳されるが、現在の部課は空挺・海挺・偵察・山岳・対テロ等に分かれており、破壊工作や敵陣付近での軍用車による偵察活動だけでなく、イギリス国王など国内外の要人警護、テロ行為に対する治安維持活動(北アイルランド)、人質および捕虜の救出作戦の実行など、幅広い分野で活躍している。
モットーは「Who Dares Wins(恐れぬ者に勝利あり/危険を冒す者が勝利する/敢えて挑んだ者が勝つ)」。 対になる組織として、海兵隊の特殊舟艇部隊 (SBS、Special Boat Service) がある。
SASの起源は、第二次世界大戦中の1941年にデイヴィッド・スターリング少佐が創設した特殊空挺旅団L分遣隊に遡る[1]。これは実際には旅団に遥かに満たない規模の部隊であったが、旅団と呼称することで、多数存在していた空挺連隊の一つと誤認させるための名称であった[2][3]。実際には、イギリス軍では1940年より多くのコマンド部隊(ブリティッシュ・コマンドス)を編成しており、本部隊もその系譜に属するものであった。
本部隊では、航空機を破壊するために、その知識や操縦経験を持つ者も多く集められた。そして先に同様の特殊任務を行っていた長距離砂漠挺身隊(LRDG、Long Range Desert Group)と共同し、1941年から実戦投入された。創設当時のSASは戦後のような人質救出訓練などは行われておらず、ドイツアフリカ軍団の補給線や飛行場を攻撃する小規模な部隊であった。
最初の任務では、その名の通りの空挺作戦も実行されているが失敗。その後は、機関銃を取り付けた武装ジープで最前線を大きく迂回して砂漠を踏破、敵の飛行場に機関銃を乱射しながら殴り込み、駐機中の航空機をダイナマイトで爆破し、コックピットに手榴弾を投げ込んで破壊した他、ジープに取り付けた重機関銃を乱射して戦闘機や連絡機などの小型の軍用機を銃撃、爆薬類が尽きると手斧で破壊するなど、文字通り突撃部隊として活動し、最終的に300機以上に損害を与えたという。北アフリカでの任務の終結後、同隊は5個連隊に拡大した。
戦後の軍縮に伴って、1945年10月8日に一度は解散した[4]。しかしSASには軍中枢に少なからぬ支持者がいたこともあり、1950年には、国防義勇軍アーティスツ・ライフル連隊、後に第21特殊空挺連隊として復活した。そして1952年には、当時植民地であったマラヤ連邦での紛争(マラヤ危機)での活躍からマラヤ斥候隊(SAS)と改称し、後に第22SAS連隊として再改称された[1]。
1972年のミュンヘンオリンピック事件を契機として世界各国で対テロ作戦部隊の整備が進められたが、大陸ヨーロッパでは西ドイツ国境警備隊のGSG-9やパリ警視庁のBRI-BACのように法執行機関の所属として発足したのに対し、アングロサクソン諸国では対テロ作戦は軍が担当することになり、SASでは、アンソニー・ピアソン中佐の指揮下に20名の対革命戦部隊(CRW Wing)を発足した。これが後に有名になるパゴダ中隊であった。ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件ではGSG-9の支援にあたり、そして1980年の駐英イラン大使館占拠事件では世界注視のなかで突入を敢行して有名になった[5]。
在ペルー日本大使公邸占拠事件などのテロ事件で現地政府の特殊作戦の側面支援なども行っている。
SASは志願制を基本とし、イギリス全軍の将兵を対象にしているが、志願者の多くは空挺部隊やコマンド部隊に関係した軍歴を持っている。選抜試験は夏期と冬期の年二回行われ、どちらに志願してもよい。選抜試験中にやむを得ず負傷したといった特別の事情が無い限り、選抜試験は二回までしか受けることができない。志願者が不適格とみなされると、選抜フェーズの途中であっても容赦なく原隊へ送り返される。挽回の見込みがある志願者に対し、即失格にするのではなく、いったん警告が加えられる場合もある。
指定された集合場所に出頭した志願者は、まずイギリス全軍共通の体力審査であるPFT(個人フィットネステスト)、次いでAFT(年次フィットネステスト)と同じものに合格しなければならない。その後は規定の重さの背嚢を身に付けた状態でのクロスカントリー行軍が繰り返される。荷物の重量は常に規定以上でなくてはならないため、行軍中に消費する飲食物の重さもあらかじめ加味する必要がある。実施されるのはブレコン・ビーコンズとエラン渓谷で、前者での選抜訓練は現地の山の名前をもじってファン・ダンス(扇の舞い)とも呼ばれる。このフェーズでは地図とコンパスを使って定められた時間内にチェックポイントを次々と通過しなければならず、丘陵・山岳や錯綜地を踏破する距離も次第に伸ばされる過酷なもので、死者が出た事例もある。最終段階では負い紐を外した小銃が荷物に追加され、常に手放さず携行しなければならない。
山岳クロスカントリーに合格した者は戦術や内外兵器について訓練を受ける。その後外地(ベリーズ、ブルネイまたはマレーシア)でのジャングル教育に派遣され、熱帯雨林におけるナビゲーションや戦術行動、サバイバルに関する知識を得る。
イギリス本国へ戻った後は戦闘サバイバル訓練に移り、軍民問わずさまざまな専門家から講習を受け、敵に捕われた経験を持つ人物から体験談を聞く機会もある。最終テストは逃走訓練である。これはSAS単独ではなく、一般部隊からの参加者を交えて行われる。少人数のグループに分けられた訓練生は飲食物の持参を禁じられ、旧式の野戦服とわずかな装備だけを与えられる。そして追跡役の部隊から逃れつつ、助教が演じる協力者(エージェント)に接触することを繰り返し、七日間をかけて指定された目的地を目指す。目的地にたどり着いた際に当初のグループを保っている必要は無く、単独行動であっても構わない。テストはそのまま尋問抵抗訓練(RTI)に移行し、訓練生たちは捕虜になったという想定で手荒に扱われる。暴力を振るわれることまでは無いが、すでに逃走訓練で疲労し、不快な環境下で罵声を浴びせられるなど圧迫感にさらされた志願者が平常心を失い、この段階で不合格になることは決して珍しくない。RTIで繰り返される仮想尋問で訓練生が話してもよいのは、「ビッグ・フォア」すなわち姓名・軍籍番号・階級・生年月日だけである。
当初200名前後だったSAS志願者のうち、多くが最初の数日間で脱落し、最終テストを突破するのは15ないし20パーセント程度である。
「キリング・ハウス」は、SASの訓練施設である。この施設は各種テロ状況を実演できる一連の部屋で、人質救出やCQBの訓練に使用される。または、ここで奇襲攻撃戦術を学び、敵と味方、人質の区別を即座にできるようにする。このキリング・ハウスは、アメリカ陸軍デルタフォースの訓練施設である「恐怖の館」の手本(見本)となった。 キリングハウス以外にも演習場には旅客機・鉄道・バス等もあり、様々な状況下での人質救出作戦を想定した訓練が可能となっている[9]。
オーストラリアとニュージーランドに同名のSAS部隊が存在し、過去にはローデシア、第二次世界大戦前後の自由フランス、ベルギー、カナダにもSASが存在した。
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