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日本の俳優・映画監督(1907−1973) ウィキペディアから
菅井 一郎(すがい いちろう、1907年7月25日 - 1973年8月11日)は、日本の俳優、映画監督。
サイレント期から戦後にかけて300本を超える映画に出演し、名脇役として活躍。溝口健二、新藤兼人、吉村公三郎らの作品に多く出演している[2]。戦中に俳優集団・第一協団を結成しており、戦後には2本の監督作を発表している。
1907年(明治40年)7月25日(木曜日)、京都府京都市六波羅に生まれる。7歳の時に父と死別し、父方の叔母のもとで育った[3]。子供の頃から活動写真の大ファンで、小学校5年の時に尾上松之助を訪問したこともあった[3]。旧制京都中学校を中退後、鈴木伝明の書生を経て[4]、1925年(大正14年)に日活大将軍撮影所に入社。同年『貧者の勝利』に中国人ギャングの子分役で出演して映画デビューした[3]。
舞台歴もなかったため、映画館に通い、コンラート・ファイトなどヨーロッパの映画俳優の演技を勉強しながら、村田実監督『街の手品師』や内田吐夢監督『競争三日間』などに端役で出演[3]。そののち徴兵で2年間兵役につき、除隊後日活太秦撮影所に復帰。1931年(昭和6年)、内田監督『ジャン・バルジャン』にジャベール警部役で出演[2]、筈見恒夫から「水際立った好演」と評され、出世作とした[3]。
1932年(昭和7年)、入江ぷろだくしょんの創立に参加し[3][5]、同社第1作の『満蒙建国の黎明』で入江を助演。続いて溝口健二監督の『瀧の白糸』で高利貸しを演じて認められた。1933年(昭和8年)、入江プロの提携先である新興キネマ太秦撮影所に移籍。1934年(昭和9年)には村田実らと東京撮影所に移り、溝口監督『愛怨峡』、村田の遺作『新月抄』等に出演。1937年(昭和12年)、私淑する村田と妻が死去するという痛手を負うが、水谷浩の薦めで絵筆を持つようになり、生涯の趣味とした[3]。
1939年(昭和14年)、新興現代劇部の革新を目的に清水将夫、河津清三郎らと水曜会という研究会を結成するが、会社側はそれを受け入れなかった為、1940年(昭和15年)に彼らとフリーランスの俳優集団・第一協団を結成して新興キネマを退社[3][6]。南旺映画製作の『南風交響楽』出演後、豊田四郎監督『小島の春』で一代の名演技を見せ、後に自伝で「演技開眼した」と書いている[7]。1942年(昭和17年)、第一協団ごと東宝と契約を結び、黒澤明監督のデビュー作『姿三四郎』などに出演。
戦後の第一協団再建後はフリーとして各社の作品に出演。五所平之助監督『面影』の老博士役、小津安二郎監督『麦秋』の老父役など、四十代そこそこという年齢のわりに枯れた芸風を見せており[3]、名脇役として名だたる監督から起用された。その中でも溝口健二監督作品には戦前期から常連出演しており、計15本の監督作に出演している。1949年(昭和24年)公開の『わが恋は燃えぬ』の撮影中には、溝口から「君は脳梅毒です!医者に診てもらいなさい」と言われスリッパで殴られたというエピソードがある[3][8]。また、1950年代の新藤兼人監督作品の殆どにも出演しており、計11本の出演作がある。新藤の盟友である吉村公三郎監督作品にも連続出演しており、ほか黒澤明、市川崑監督作品にも多く起用されている。
やがて監督業にも進出し、1954年(昭和29年)に『泥だらけの青春』、1957年(昭和32年)に『フランキーの宇宙人』を発表している。1960年代からはテレビドラマにも活躍の場を広げている。
1973年(昭和48年)8月11日午前11時45分、心不全のため東京女子医科大学病院で死去[9]。66歳没。
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