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日本の内務官僚、警察官、実業家、政治家 ウィキペディアから
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日[3])は、日本の実業家、政治家。読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、讀賣テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。
正力 松太郎 しょうりき まつたろう | |
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『読売新聞八十年史』より(1955年9月撮影) | |
生年月日 | 1885年4月11日 |
出生地 |
日本・富山県射水郡枇杷首村 (現:射水市) |
没年月日 | 1969年10月9日(84歳没) |
死没地 | 日本・静岡県熱海市 |
出身校 | 東京帝国大学(法学部)卒業 |
前職 |
内務官僚 警視庁警務部長 内閣情報局参与 京成電気軌道総務部長 読売新聞社代表取締役社長 日本テレビ放送網代表取締役社長 讀賣テレビ放送取締役会長 読売ジャイアンツ創立者・初代オーナー 日本武道館会長 |
所属政党 |
(翼賛政治会→) (無所属→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 |
従二位 勲一等旭日桐花大綬章 富山県高岡市名誉市民 富山県射水市名誉市民 駒澤大学名誉博士 大日本武徳会講道館柔剣道四段[1] 講道館柔道十段 野球体育博物館特別表彰(1959年) 法学士 |
配偶者 |
初婚・正力布久子 再婚・正力波満 |
子女 |
長男・正力亨 二男・正力武 |
親族 |
孫・正力源一郎 孫・関根達雄 |
内閣 | 第1次岸改造内閣 |
在任期間 | 1957年7月10日 - 1958年6月12日 |
内閣 | 第3次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1956年5月19日 - 1956年12月23日 |
第11代 北海道開発庁長官 | |
内閣 | 第3次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1955年11月22日 - 1956年12月23日 |
選挙区 | 富山県第2区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1955年2月28日 - 1969年10月9日 |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1944年5月18日 - 1946年4月13日[2] |
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。
読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したために「プロ野球の父」と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したために「テレビ放送の父」と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために「原子力の父」とも呼ばれる[4]。
1955年(昭和30年)から1969年(昭和44年)まで衆議院議員(自民党に所属)を務めた。政界でも一定の影響力があった。
駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。
1885年(明治18年)に富山県射水郡枇杷首村(現在の射水市)生まれ。1911年に東京帝国大学(法学部)卒業で旧内務省に入省。1923年12月に虎ノ門事件が発生、当時警視庁警務部長であった正力は警視総監の湯浅倉平とともに引責辞職[5]。翌1924年2月、後藤新平の助力のもと経営難で不振の読売新聞を買い受けて第7代社長に就任し、新聞界に転じる。意表をつく新企画の連発と積極経営により社勢を拡大。当初二流紙扱いであった読売は、1941年に発行部数で朝日新聞・毎日新聞を抜いて東日本最大の新聞となる。同年秋には、戦時新聞統合を企図する政府の全国新聞一元会社案に反対し、撤回させた[5]。1940年の開戦時は大政翼賛会総務であったために、1945年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し正力を逮捕するよう命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)[6]。A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留され、後に不起訴となったが公職追放処分を受けた。戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)を行っていたことが、アメリカ合衆国で保管されている公文書により判明している[7][8][9][10][11][12]。また、1960年代に衆議院議員(自民党に所属)になり自由民主党総裁の座も狙っていた。読売新聞社の部下だった渡邉恒雄を中曽根康弘(当時、自民党の衆議院議員)との連絡役にしていた[13]。CIAエージェントとしてのコードネームはPODAM。
警視庁官房主事として1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。その際、朝鮮人の暴動説を新聞記者を通じて流布させ、関東大震災朝鮮人虐殺事件の一因を作った[33]。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。
刑事畑においては、島倉事件(のちに甲賀三郎が『支倉事件』の題名で小説化した)[注釈 6]の捜査にあたり、東大同窓生が犯した鈴弁殺し事件においては自首を仲介した。
1924年(大正13年)、番町会グループである郷誠之助、藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(後の読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。
戦前は報知新聞社の販売局長だった務臺光雄を正力が誘って読売へ移籍させ、大阪資本の東京朝日新聞・東京日日新聞などと販売競争で競い合った。そして、読売新聞の全国進出を狙って九州日報など日本各地の地方紙を買収して経営参加に成功するも、新聞統制によって計画は頓挫した。
戦後、読売新聞の全国紙計画が本格化し、1952年(昭和27年)に大阪讀賣新聞社(後の読売新聞大阪本社)を設立、念願の西日本進出を果たした。以後、札幌と正力のお膝元である高岡市にも東京直轄による発行支社を設置し、1964年(昭和39年)、正力の長年の懸案だった九州に読売新聞西部本社を設立、1ブロック紙に過ぎなかった読売新聞を務臺との二人三脚で朝日・毎日と肩を並べる全国紙に発展させた。
1934年(昭和9年)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。大リーグ選抜チームは、日本で17試合を戦い、一試合当たりの観客数が6万5000人(大リーグでの平均動員数に匹敵)に達することも多かった[19]。当時アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも、全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)が創設され、1936年(昭和11年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は、京都商業から慶應義塾大学への進学が決まっていた沢村栄治を「一生面倒見る」と説き伏せて入団させたが、実際には二度の応召(徴兵も、沢村が中学卒であったことが要因)で肩を壊した沢村を解雇している。
また、沢村を中退させたのと同様の手口でヴィクトル・スタルヒンを退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗した[34]。
旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、家庭の経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされたという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退。後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京した。クラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったという。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達の叫びに聞こえた、と後年妻に語っている[35]。
中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一は著書[36] の中で断言している。
正力は最初期と戦後の一時期を除いて読売ジャイアンツのオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言うコミッショナー)に就任した。このような正力の業績を称え1959年野球殿堂入り。また日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年正力松太郎賞が贈られている。
戦後、読売新聞を離れていた時期には毎日新聞と接触して、毎日のプロ野球参加と将来の2リーグ制移行を画策した。このとき読売側は毎日の加入に反対し、最終的にセ・リーグとパ・リーグに分かれることになる。ちなみに正力自身としては、当面1リーグ10球団で運営し、その後2球団を追加してから読売・毎日がそれぞれ所属するリーグを立ち上げる構想であったが、日本プロ野球が実際に2リーグに分かれた際、読売(読売ジャイアンツ)はセ・リーグ、毎日(毎日オリオンズ)はパ・リーグの所属となった。
1935年(昭和10年)2月22日、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられた。傷は浅く頸動脈は外れており命に別状はなかったが、出血ははなはだしく輸血が行われた。直接の実行犯の長崎勝助は武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説を支持したこと、正力が大リーグを招聘して多額の利益を与えたこと[37]、神宮球場を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社東京日日新聞の幹部による指示があったとされた。襲撃の報を受けたベーブ・ルースは見舞いの電報を正力に送っている[19]。
襲撃犯は懲役5年の求刑を受けたが、1935年(昭和10年)6月12日、東京刑事地方裁判所は「殺意は認められなかった」として殺人未遂を傷害罪に更訂、懲役3年の判決を言い渡した[38]。
ラジオ民間放送で出遅れていた反省もあり、正力はテレビ放送では最初に動いた。電通の吉田秀雄のもとへテレビ放送について相談に行ったが、吉田は聞き役に回り、積極的な動きを示さなかったという。1951年(昭和26年)10月、正力は電波監理委員会へ「日本テレビ」の免許を申請する。翌1952年(昭和27年)7月31日、免許出願していた日本テレビ放送網(以下、日テレ)に、日本のテレビジョン放送局としては初となる予備免許が交付された。
日テレは当初、東京を本部として札幌市から鹿児島市まで日本各地に支局を置き、日本全国をカバーする構想だった。しかし、「単一資本による複数県にまたがる放送は、メディアの寡占となり好ましくない」という郵政省(当時)の見解により、やむなく関東地方のローカル局として開局せざるを得なくなることとなった。
当時の日テレの放送機材はアメリカ合衆国からの輸入に頼っており、機材の搬入が予定より大幅に遅れた。一方、日本放送協会(NHK)は、日テレより後に予備免許が下りたものの、ほとんどの機材を国産品としたため、1953年(昭和28年)2月1日に東京で日本初のテレビジョン放送(のちのNHK総合テレビジョン)を開始することになった。
同年5月15日、ワシントンのショーラム・ホテルへ日本の政府・議会・軍・航空の関係者を集め、正力を事業主とする「テレビを含む国際通信のためのユニテル・リレー網計画」の説明会が行われた。ユニテル・リレー網はテレビに留まらないマルチメディア事業であり、正力の懐刀柴田秀利も、日テレ代表として列席した。説明会を企画した人物の出身は大別して、元OSS(米軍戦略諜報局)局員か、アメリカ中央情報局(CIA)スタッフか、ジャパン・ロビーかであった[注釈 7]。
そして、NHKより半年遅れの8月28日に日テレは日本初の民間放送によるテレビジョン放送を開始、正力は日テレの初代社長に就任した[注釈 8]。日テレは民間放送であることから、コマーシャルを収入源としている。テレビジョン放送開始当時のテレビ受像機は庶民にとって“高嶺の花”だったことから、正力はテレビ受像機の普及促進と各企業からのスポンサー獲得のため、東京都内を中心とした繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に街頭テレビを常設し、一般家庭へのテレビの普及に全力を注いだ。その結果、力道山などが活躍したプロレスを始めとしたスポーツ中継では街頭テレビの観衆が殺到し、スポンサーの説得も功を奏して日テレは開局から半年たって黒字化を達成した。
1958年(昭和33年)10月、東京のテレビ電波塔「東京タワー」が完成し、NHKや在京キー局各局は東京タワーに基幹送信所を置いたが、正力は日テレのみ東京タワーへの送信所移転を拒否し、麹町本社鉄塔からの送信を続けた。そして、東京・新宿に高さ550mの電波塔「正力タワー」の建設を構想、1968年(昭和43年)に起工式が行われるも、正力の死で実現しなかった。そして、正力の死後の1970年(昭和45年)11月10日に日テレも基幹送信所を東京タワーに移転した[注釈 9]。「正力タワー」の建設予定地だった場所には日テレの子会社である日本テレビサービスが日本テレビゴルフガーデンを建設したが、1997年(平成9年)12月、社有地が売却され、2012年(平成24年)4月に新宿イーストサイドスクエアが建築されている。
早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後にアメリカ中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており[40]、その中でアメリカ対日協議会の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。
米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦体制のなか、日本に原子力を輸出するために作戦名‘KMCASHIR’という心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した[23]。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, のちに服部智恵子の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダである「平和のための原子力」を大衆に浸透させるために、まずは正力と親しい柴田秀利と接触した[22]。
日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、正力の個人コードネームとして「PODAM」(ロシア語などで「我、通報す」の意)及び「POJACPOT-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「PODALTON」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)[41][42]。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「POHALT」というコードネームを与えられた。
ベンジャミン・フルフォードの主張によると[注釈 10]、正力をCIAに推薦したのは上院議員カール・ムントであったという。なお、CIAは「正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない人間だった」と評価しているとされる[44]。
正力は読売ジャイアンツに対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。
正力松太郎が1931年から1969年に死去するまで居住していた神奈川県逗子市の邸宅。1939年に増築、1961年に大規模増改築。延床面積254.48平方メートル(蔵除く)。
1965年1月2日に逗子邸宅で新年会が行われ、記念撮影された写真を日刊スポーツ / アフロが所有している。参加者は正力松太郎、正力亨、清水与七郎、川上哲治、柴田勲、広岡達朗、関根潤三、王貞治、金田正一、長嶋茂雄。
正力松太郎の長女梅子(小林與三次)の邸宅が隣接しており、正力の死後、空き家を小林夫妻が管理していたが、2013年に小林梅子が死去。小林梅子の孫で、正力松太郎の曽孫の塚越暁が旧正力邸の管理人兼居住者として名乗りを上げ、2016年に大規模改修。同時期に小林梅子邸は解体されたが、建具や建材は旧正力邸に再利用されている。
2018年9月から、逗子旧邸(応接間16帖、和室10帖、縁側2帖半、庭園)を会議室、イベント、写真撮影の古民家レンタルスペースとして開放している。
2022年2月17日に国の登録有形文化財に登録された。
元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助が、この地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による[14]。江戸嘉永年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した[14]。この功により、庄助は奉行から苗字帯刀を許された[14]。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている[14]。正力家が土建請負業として大をなしたのはそれからだった[14]。
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