巣鴨拘置所
第二次大戦後の戦犯を収容した拘置所 ウィキペディアから
巣鴨拘置所(すがもこうちじょ、英語: Sugamo Prison)は、第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人(戦犯)の収容施設である。東京都豊島区西巣鴨(現・豊島区東池袋)の東京拘置所施設を接収し、使用された。「巣鴨プリズン」「巣鴨刑務所」などと呼ばれることもある。

極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名の死刑が執行(1948年(昭和23年)12月23日)された場所としても知られる。
概要
要約
視点
前史
1790年(寛政2年)に石川島に設置された人足寄場が1870年(明治3年)に「佃島徒場」と呼ばれる刑務所となり、数度の改称を経て1877年に「石川島監獄署」となり、1895年に巣鴨へ移転し、1897年に「巣鴨監獄」へ改称された[2]。
この巣鴨監獄が1922年に「巣鴨刑務所」に改称された。関東大震災(1923年)で被害を受けた巣鴨刑務所は、1935年に東京府北多摩郡府中町(現東京都府中市)に移転し、府中刑務所となる。その跡地に庁舎が新築され、1937年、未決囚を主に収容する市谷刑務所が移転し、普通刑務所と区別するため「東京拘置所」と改称された[3]。なお、敷地は巣鴨刑務所時代の約3分の1に縮小された[4]。
敷地の北西には処刑場があり、第二次世界大戦中の1944年には、ゾルゲ事件の主犯とされるリヒャルト・ゾルゲおよび尾崎秀実の死刑が執行された。彼らのほか、当時の同拘置所には主として共産主義者等のいわゆる思想犯や、反戦運動に関わった宗教家等が拘置されていた。
米軍管轄下の巣鴨拘置所
第二次世界大戦で日本は敗れ、連合国軍の占領下に置かれた。東京拘置所は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の接収により「スガモプリズン」と改称され、戦争犯罪容疑者が多数収容された。また、BC級戦犯53名が処刑された。
伊丹明やハリー・K・フクハラを始めとする所謂日系二世らや、近地に住まいを置いたコマツ氏(日本人?)らがここで行われた調書を翻訳するなどして活躍した。
1945年11月27日付「星条旗新聞」には収容者の待遇が記述されている。この時点では収容者は有罪として認められていないため、食事の順番や掃除の免除などについては逮捕前の軍の階級や社会的地位を配慮したものとなっていた。日本人の食事は和洋食で、おかずの例として朝食は掻き卵、昼食が野菜シチュー、夜食がほうれん草、コーヒー付き。家族からの食糧の差し入れも認められていた。日本人以外の収容者にはアメリカ軍の兵食が提供されていた[5]。
ただ、異なる実態を記録した資料もあり、特にハイパーインフレーションと食料不足が頂点に達した1946年初頭には元旦を除いて朝食はすいとんもしくはうどん、黒パンのいずれかとわずかな具が浮いているだけのスープ、昼食と夕食は混ぜご飯(薄い雑炊に硬い豆をまぶしたもの)という状態であり、たんぱく源として提供されたサメの煮つけは強烈な悪臭を放っていた[6]。このような窮乏状態は収容者同士の反目や疑心暗鬼を招いたといい[8]、「食事を各房で公平に分配せよ」と所長に要求する署名運動が行われたこともあった[9]。また、収容者同士の反目を招いたのは食事問題だけではなく、ごく一部の大物を除きA級戦犯とBC級戦犯が同じ雑居房に収容されていたため、軍内で鬱積していた上官と部下のいざこざが爆発したことも影響している。このため1946年12月半ばにA級戦犯とBC級戦犯の分離が行われ、それぞれ別個の雑居房に収容するよう扱いが改められるまで、A級戦犯とBC級戦犯の間のトラブルが絶えなかった[10]。
占領軍の主体であるアメリカ軍は情報戦の一環として、監房に装置を密かに取り付け、戦犯たちの会話を盗聴していた事が後年明かされている[11]。
1947年(昭和22年)2月、既決囚の労働が本格化し、A級戦犯・60歳以上の高齢者・病人以外は全て就労を命じられた。プリズン周辺の道路整備や運動場、農園、兵舎・将校用宿舎建設等の重労働を命じられ、午前と午後に1回ずつある5分の休憩と昼食時の休憩時にしか休めない。私物は一切禁止で、全て制服着用で行わなければならない。長い拘禁生活と裁判の疲労で、体力の落ちた戦犯達には重労働であり、「こんなことならいっそ死んでしまえばよかった」との声もあった。
この重労働が2年続き、建設を命じられた施設の完成に至ると、戦犯たちは信頼を勝ち取り、減刑などの恩恵を受けた。新聞・雑誌・本などの閲覧、上野図書館からの書籍借り出しも許可された。ラジオも定期聴取でき、映画も週に1回鑑賞できた。
1948年(昭和23年)12月23日には、極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名のA級戦犯の死刑も執行された。
1950年(昭和25年)から始まった朝鮮戦争で多数の米兵が出征するため、1950年8月、日本人刑務官が着任。米軍の監理下で警備にあたった[12]。なお、最も収容者数が多かったのは1950年1月時点で、1862人の戦犯が収容されていた[13]。
日本移管後
1952年4月、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により日本に移管され、引き続き戦犯を収容していた[12]。以後、正式には「巣鴨刑務所」となったが、一般に「巣鴨プリズン」と呼ばれた。
『すがも新聞』
1948年(昭和23年)6月5日に創刊された獄中紙。巣鴨プリズンの労務担当だったビンセント中尉が新聞の発行を提案し、各階で1人ずつ選ばれ、15人が担当することになった。当時のスガモには、英語を始めとする外国語の堪能な人物が多かったことから、新聞は随時翻訳された。
編集方針は「主義主張は特に無いが、民主主義を根本とし、左右いずれにも偏せず」とあり、連合国の占領政策批判や死刑囚、A級戦犯には抵触しないという条件だった。1952年(昭和27年)3月29日までに全193号が発刊され、その紙面は翻訳班の手で英訳した上で、発行前に検閲を受け、GHQやアメリカ国務省にも送付された。発行日は原則として土曜日だった。また、秋季運動会にて韓国旗などを揚げたことをクローズアップするなどして、朝鮮戦争で心を痛める朝鮮人や台湾人戦犯の葛藤を分かち合えた場ともいえる。
巣鴨プリズンが日本へ移管された後には、『すがも』が1952年(昭和27年)11月1日に活版で創刊されたが、10号で休刊となった。
跡地の再開発など
略年表
前史
巣鴨プリズン
その後
脚注
参考文献
関連文献
関連項目
外部リンク
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