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日本の女性皇族 (1981-) ウィキペディアから
彬子女王(あきこじょおう、1981年〈昭和56年〉12月20日 - )は、日本の皇族。身位は女王。敬称は殿下[3]。お印は雪(ゆき)。勲等は勲二等。学位はD.Phil.(オックスフォード大学・2010年)[4]。
称号:女王 | |
---|---|
敬称 |
殿下 Her Imperial Highness the Princess |
第126代・今上天皇(徳仁)の再従妹(はとこ)にあたる。
現在、存命中かつ皇籍離脱していない皇族15名のうちのひとりであり、天皇の血を直系で受け継ぐ男系皇族(親王・内親王・王・女王)8名のうちのひとりである[注釈 1][注釈 2]。
1981年(昭和56年)12月20日に寬仁親王と信子妃の第一子として誕生した。皇室における女王の存在は、1947年(昭和22年)10月に11宮家が皇籍離脱した後の現皇室典範における女王誕生は初である。2005年(平成17年)11月の清子内親王の皇籍離脱以降、未婚の皇族女子中では最年長である。
松濤幼稚園に1年間在籍後学習院幼稚園に移り、以降は学習院で教育を受ける。2004年(平成16年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した。これは徳仁と同学科である。
同年9月より、イギリスのオックスフォード大学マートン・カレッジに留学し、日本美術史を専攻した。海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行う[8]。女子皇族の中では珍しく、学問研究に専念する。
2010年(平成22年)1月にオックスフォード大学大学院博士課程を修了して、博士号(D.Phil.)を取得した[9]。博士号取得は博士(理学)(総合研究大学院大学)の秋篠宮文仁親王に続き、皇族として2人目、女子皇族として史上初、海外の大学からの課程博士号取得は皇族として史上初となった。
研究がまとまった2009年(平成21年)秋に日本に帰国して、公募採用で同年10月1日より京都の立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェローに就任した。グローバルCOEプログラム日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点日本文化研究班に所属。皇族としての公務の合間、同機構でデータベース化作業を行う[9]。
ポストドクトラルフェローの任期が切れた4月より、2014年(平成26年)12月まで上皇明仁の幼稚園時代の学友で銀閣寺(慈照寺)住職を務める臨済宗相国寺派管長の有馬頼底に依頼し、宗教法人慈照寺研修道場美術研究員に就任している。
4月、発起人代表として心游舎を設立し、翌2013年の一般社団法人化に伴い同法人の総裁に就任。
4月1日より2013年3月まで、立命館大学衣笠総合研究機構の特別招聘准教授を、2013年4月から2014年3月まで、同客員准教授を務めた。5月1日からは法政大学国際日本学研究所客員所員も務め、文部科学省国際共同に基づく日本研究推進事業欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査と、それによる日本及び日本観の研究に従事し、ドレスデン美術館やポーランドに出張した[10]。
6月6日に薨去した寬仁の斂葬の儀において喪主を務めることが宮内庁より発表された。この時は信子妃に代わって寬仁の姉妹(彬子女王のおば)である近衞甯子と千容子の助けや、彬子同様に若くして喪主を務めた経験がある東久邇信彦(元皇族)の励ましを受けたと、後に雑誌に寄稿[11]している。また、同手記では、寬仁の薨去をきっかけに、両親の確執から疎遠であった三笠宮本家(祖父である崇仁親王)との絆が強固になったことに、深く感謝している旨を記している。
父母が療養中で自身が留学していた時期には、妹の瑶子女王が公務を代わりに務めた。
2013年(平成25年)6月12日に、寬仁の後任として日本・トルコ協会総裁に就任。
2014年(平成26年)4月、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員及び公益社団法人日本職業スキー教師協会総裁に就任。2015年(平成27年)4月、中近東文化センター総裁に就任した。
2018年(平成30年)1月、2017年3月9日付でトルコ政府に認可されている三笠宮記念財団[12]総裁に就任することが発表される。
2019年(令和元年)5月10日、日本ラグビーフットボール協会名誉総裁に就任[13]。
2020年(令和2年)4月、千葉工業大学特別教授および千葉工業大学地球学研究センター主席研究員(非常勤)に就任[14]。
2022年(令和4年)3月1日、寛仁薨去後は空席となっていた日英協会名誉総裁に就任した[6]。
彬子自身が英国留学時代の体験などを書いた『赤と青のガウン』(2015年出版)が4月3日にPHP文庫にて文庫化された。
5月17日、PHP文庫の親会社であるPHP研究所が、『赤と青のガウン』がメディアとSNSで話題になり累計10万部(6刷・5月20日出来)に到達するベストセラーになったと発表。なお、評判の良さからフジテレビのめざまし8との対面取材に応じた際に、次回作を書く予定があるかを尋ねられると「そのあと(帰国後)ということになりますと私の日常で起こった"すべらない話"をまとめるような形になってしまうような気もするので、そうしますとなかなか書くのが難しいこともあるかなと思ったりもいたします」と返答した。
9月16日、テレビ朝日のトーク番組『徹子の部屋』に出演。著書『赤と青のガウン』を綴る切っ掛けとなったエピソードや皇族として生活する上での苦労話、日常での出来事などを親しみやすい言葉を用いて語った[15][16]。また、現在は京都で生活をしており、“日本の伝統文化を後世に遺したい”“固有の伝統文化が生き続けることができる土壌を形成したい”という願いに共感した有志らと設立した団体「心游舎」の総裁に就任し、次世代を担う子供たちを対象としたワークショップを行っていることも併せて語った[15][17]。
2012年(平成24年)1月7日の『毎日新聞』のインタビュー記事で皇位継承問題に絡む女性宮家創設問題について、日本国政府の議論が女性宮家を創設するかどうかのみとなっていることに違和感を覚えているとし、戦後に皇族の身分から離れた旧皇族の復帰案もあることを指摘している。また、結婚後に公務を続けることについては「結婚後も公務をすることに抵抗はありません」と語った。この記事の元になったインタビューでは、女性宮家創設は、結婚適齢期の女性皇族にとって今後の人生を左右する問題であることに触れ「決めるのであれば早く決めていただきたい」と答えた。
しかしその後の一部報道で、この言葉があたかも女性宮家創設を推進する発言であるかのように伝えられた[18]。
普段のマスコミとの会見は日本国憲法上の理由から叔父の政治家である麻生太郎の話を表立って話すことはないが、最近では高齢で体調が憂慮される祖母にあたる崇仁親王妃百合子の様子を本人の代わりにメディアによく伝えている。
競輪では、GI寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメントの表彰式で、優勝者に賜杯を授与する[19][20]。GI高松宮記念杯競輪でも2015年や2019年[21]、2024年に、優勝者にカップを授与した。優秀選手表彰式典にも出席する年もある[22]。
自転車競技大会で、「寛仁親王記念ワールドグランプリ」(NPO法人CSSシクロ)もある[23]。またクラシックラリーのミッレミリアの名誉総裁でもある。
全日本学生スキー選手権大会のリレー競技では、男子の優勝校に寬仁親王牌が、女子の優勝校に彬子女王牌が下賜される。東都大学野球の始球式を務め、その際に着用したユニフォームの背番号「38」(宮(ミヤ)家にちなむ)は國學院大學硬式野球部の永久欠番となった。
2019年5月10日より、公益財団法人日本ラグビーフットボール協会の名誉総裁に就任した[24]。
2004年(平成16年)の学習院大学卒業後、同年9月よりオックスフォード大学に留学した。
2006年(平成18年)12月、東京大学(本郷キャンパス)で開催されたジャポニスム学会第四回例会で「標本から美術へ-19世紀の日本美術蒐集:シーボルト、アンダーソン、フェノロサ」と題した研究を発表した。
2007年(平成19年)7月、お茶の水女子大学で開かれた第9回国際日本学シンポジウムで「ウィリアム・アンダーソン・コレクション再考」と題した研究を発表した。論文は『比較日本学研究センター研究年報』第4号に掲載されており、大学のホームページから閲覧可能である。
2009年(平成21年)2月、日本美術誌『国華』1360号にも論文が掲載された。7月、論文「「風俗画」再考 -西洋における日本美術研究の視点から-」が、『風俗絵画の文化学―都市をうつすメディア』(思文閣出版)に掲載された。10月1日から立命館大学衣笠総合研究機構で研究員となり、日本の有形・無形文化財をデータベース化する作業などに携わる。
2010年(平成22年)1月19日、オックスフォード大学での学位口頭試問に合格、オックスフォード大学博士課程を修了して、博士号(D.Phil.)を取得した。論文テーマは“19〜20世紀に大英博物館が収集した日本の美術品とその展示の事例にみる、英国人の日本美術観の変化について”(全文英語、全320ページ)。研究発表リハーサルで、別の日本人院生が担当教授から論文全文書き直しだけを指示された(何が問題なのかは自分で考えなければならない)のを見て“自分はプリンセスだから評価に「下駄を履かされている」のではないだろうか、自分が対象だったら何をどうすべきかまで細かく指導を受けたのではないか”と落ち込んだこともあったという。
2010年1月31日付で留学を終了した。帰国後は立命館大学衣笠総合研究機構(グローバルCOEプログラム日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点日本文化研究班)ポストドクトラルフェロー(PD)に就任した。10月にハワイ大学での日本美術のシンポジウムを現地の研究者と共同で企画し、研究発表を行った。
2012年(平成24年)4月から2014年(平成26年)12月まで宗教法人慈照寺研修道場美術研究員として勤務した。また同月から2013年(平成25年)3月まで立命館大学衣笠総合研究機構で特別招聘准教授、2013年4月から2014年3月まで同機構客員准教授に就任。2014年5月より同機構客員協力研究員を務めている。
2012年5月より法政大学国際日本学研究所(文部科学省国際共同に基づく日本研究推進事業欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査とそれによる日本及び日本観の研究)の客員所員に就任。
2014年4月、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員、併せて同センター客員教授に翌年4月から就任した。
2015年(平成27年)4月より京都産業大学日本文化研究所専任研究員として勤務している。
彬子女王 | 父: 寬仁親王 |
祖父: 崇仁親王(三笠宮) |
曾祖父: 大正天皇 |
曾祖母: 貞明皇后 | |||
祖母: 百合子 |
曾祖父: 高木正得 | ||
曾祖母: 高木邦子 | |||
母: 信子 |
祖父: 麻生太賀吉 |
曾祖父: 麻生太郎【先代】 | |
曾祖母: 麻生夏子 | |||
祖母: 麻生和子 |
曾祖父: 吉田茂 | ||
曾祖母: 吉田雪子 |
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