東久邇信彦
日本の旧皇族 ウィキペディアから
東久邇 信彦(ひがしくに のぶひこ、1945年〈昭和20年〉3月10日 - 2019年〈平成31年〉3月20日)は、日本の旧皇族、盛厚王と同妃成子内親王の第1王子、東久邇宮の第2代当主。皇籍にあった時の名は信彦王(のぶひこおう)[注釈 1]。明治天皇の曾孫、昭和天皇・香淳皇后の初孫であり、 今上天皇 (徳仁) の従兄にあたる。全日本野球会議名誉会長[1][2]、日本タイ協会常務理事[1][2]、世界連邦文化教育推進協議会の会長、特定非営利法人 国際安心安全協会最高顧問、富士山大賞大会長[3]、崇敬会「東郷会」名誉会長、日本の伝統を守る会名誉会長、日本モンテネグロ友好協会名誉総裁など、数多の要職・名誉職を歴任した。
生涯

1945年(昭和20年)3月10日午後1時20分、東久邇宮家の盛厚王の第1子(長男)として鳥居坂御殿において出生。母の盛厚王妃成子内親王の出産時は東京大空襲の最中であり、防空壕の中での誕生となった[4][5]。3月16日に信彦と命名される。母方の祖父母である昭和天皇と香淳皇后にとっては、初孫であった。1947年(昭和22年)10月14日、祖父・東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離脱したため、信彦王も両親と同様に皇室典範(昭和22年法律第3号)第13条により皇籍離脱した(昭和22年宮内府告示第16号)。当時、まだ2歳であった[注釈 2]。皇籍離脱後は、民間人、東久邇信彦として生活した。慶應義塾幼稚舎から慶應義塾で修学し、慶應義塾大学法学部卒業後は三井銀行に勤務[1]。私生活では、大学時代に友人と訪れたハワイで島田吉子と出会い、1972年(昭和47年)6月に結婚した[6]。島田家は、横浜で不動産管理業(アパート・駐車場経営)を営む庶民であるが、昭和天皇[7]も島田家の家庭的な様子に好感を持ち、初孫の信彦の結婚を祝福した[8]。翌1973年(昭和48年)4月3日には、長男の征彦が誕生した。2004年(平成16年)頃、ツカキグループ顧問に就任[9]。2008年(平成20年)6月、全日本野球会議名誉会長に就任。2009年(平成21年)8月3日、新潟県長岡市で発足した「日米友好の架け橋実行委員会」の名誉顧問に就任[注釈 3]。2010年(平成22年)10月31日、筑波山神社における万葉歌碑の建立除幕式に、特別招待者として警護辞退の「お忍び」で参列[10]。信彦ならびに宮内庁は、事前に報道された場合には参列を中止することを条件として了承したという[10]。2013年(平成25年)、念法眞教の代表顧問に就任[11]。同教団の代表顧問は、祖父・東久邇稔彦も長く務めていた[11]。2015年(平成27年)5月下旬、サイパン島における「御製御歌碑」の建立除幕式に参列した[11]。6月5日、日本モンテネグロ友好協会名誉総裁に就任。この頃、世界連邦文化教育推進協議会会長に就任した[12]。2019年(平成31年)3月20日午前、自宅で死去[1]。74歳没。ゴルフバッグを車に積み込む際にトランクに頭をぶつけ、その傷がやがて化膿し、体調を崩したという[4]。なお、3月8日[13]に天皇皇后のお忍びでの見舞いを受けている[4]。葬儀は皇族専用墓地である豊島岡墓地の参集所で行われた[1][2]。
エピソード
(母は照宮成子内親王であり)初孫であることから、母方の祖父である昭和天皇にたいそう可愛がられた。ある時、昭和天皇より手紙が送られてきたが、若さゆえに返事を書かないでいたところ、侍従より「返事がまだないとお上が仰せだ」と督促がきたという[14]。母方の叔父である明仁上皇とは、天皇誕生日を祝う食事会に招待されるなど、深い交流があった[4]。時には、皇居に招かれ、皇室の将来や国民の暮らしについて天皇と意見を交わすこともあったという[4]。信彦が会長を務める「世界連邦文化教育推進協議会」の第五回全国推進大会(2019年2月18日)に招かれた彬子女王は、講義のなかで信彦のことを「東久邇のおじちゃま」と呼んでいる[15]。
家族・親族
系譜
信彦王 | 父: 盛厚王 |
祖父: 稔彦王 (東久邇宮) |
曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) |
曾祖母: 寺尾宇多子 | |||
祖母: 聡子内親王 |
曾祖父: 明治天皇 | ||
曾祖母: 園祥子 | |||
母: 成子内親王 |
祖父: 昭和天皇 |
曾祖父: 大正天皇 | |
曾祖母: 貞明皇后 | |||
祖母: 香淳皇后 |
曾祖父: 邦彦王(久邇宮) | ||
曾祖母: 俔子 |
明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) | 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) | 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) | 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) | 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) | 成子内親王 (1925-1961) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 | 竹田恒正 (1940-) | 北白川道久 (1937-2018) | 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- | 竹田家 | (男系断絶) | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明治天皇は父方の曾祖父であり母方の高祖父でもある。また、上皇は母方の叔父であると同時に父方の再従兄にもあたる。 さらに、今上天皇は母方の従兄弟であると同時に父方の三従兄弟でもある。このように両親・祖父母全員が皇族であり、現皇室とも血縁的に極めて近いことから、21世紀以降に表面化した、皇族男子(親王・王)の不足による皇位継承問題が指摘される中で、存命中の信彦は注目を集める存在だった。(2022年1月現在はその子孫たちが注目されている)
(20/23)伏見宮邦家親王 | (1)山階宮晃親王 | (2)山階宮菊麿王[16] | (3)山階宮武彦王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)梨本宮守脩親王 | (1)久邇宮朝彦親王 | (1)賀陽宮邦憲王 | (2)賀陽宮恒憲王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)久邇宮邦彦王 | (3)久邇宮朝融王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)梨本宮守正王 | 香淳皇后 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇明仁 | 天皇徳仁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(21)伏見宮貞教親王 | (1)朝香宮鳩彦王 | 昭和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)竹田宮恒久王 | (2)竹田宮恒徳王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)北白川宮能久親王 | (3)北白川宮成久王 | (4)北白川宮永久王 | (5)北白川宮道久王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松輝久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)北白川宮智成親王 | (25)伏見宮博恭王 | 博義王 | (26)伏見宮博明王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(22/24)伏見宮貞愛親王 | 邦芳王 | (4)華頂宮博忠王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)閑院宮載仁親王 | (7)閑院宮春仁王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1)東伏見宮依仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
依仁親王妃周子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
数字は代目。橙色背景は皇籍離脱した時の11宮家当主。※東伏見宮依仁親王は離脱前に薨去。
脚注
参考文献
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