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日本の俳優(1957 - 2003) ウィキペディアから
古尾谷 雅人(ふるおや まさと、1957年〈昭和32年〉5月14日 - 2003年〈平成15年〉3月25日)は、昭和から平成初期の日本の俳優。本名は古尾谷 康雅(ふるおや やすまさ)。
ふるおや まさと 古尾谷 雅人 | |||||
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本名 | 古尾谷 康雅(ふるおや やすまさ) | ||||
生年月日 | 1957年5月14日 | ||||
没年月日 | 2003年3月25日(45歳没) | ||||
出生地 | 日本・神奈川県川崎市中原区 | ||||
死没地 | 日本・東京都文京区 | ||||
身長 | 188cm | ||||
血液型 | B型 | ||||
職業 | 俳優 | ||||
ジャンル |
テレビドラマ 映画 オリジナルビデオ | ||||
活動期間 | 1977年 - 2003年 | ||||
配偶者 | 鹿沼えり | ||||
著名な家族 |
古尾谷雅人 (2代目)(息子) 水野快令(娘) | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『金田一少年の事件簿』(堂本版) 『六番目の小夜子』 『永遠の仔』 映画 『ヒポクラテスたち』 『丑三つの村』 『宇宙の法則』 オリジナルビデオ 『コンプレックス・ブルー』 | |||||
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神奈川県川崎市中原区出身。身長188cm。正木ルーム(有限会社ビッグアンドエム内で設けられた芸能事務所)に所属していた。
妻は女優の鹿沼えり。息子の古尾谷雅人 (2代目)(旧芸名:髙藤疾土)、娘の水野快令も同じく役者。
川崎市の旧家の子として誕生するも、幼少時に両親の離婚による生母との生別。その後、父が迎えた継母との不和に苦悩した少年時代を送る。
初期は本名の古尾谷康雅名義で活動。俳優デビューは日活ロマンポルノ、特に社会派ミステリーや耽美的な作風で初期のロマンポルノ人気を支えた田中登監督作品に多く出演し、屈折した青年像を演じた。
デビュー作『女教師』(1977年、監督は田中登)では主役の女教師をレイプする不良中学生役。
なお、田中とは『人妻集団暴行致死事件』(1977年)、『丑三つの村』[注釈 1]でも組んだ。この頃、にっかつ所属だった鹿沼えりと映画で共演、後に結婚している。
一般作進出は、1979年のフジテレビドラマ『二人だけの儀式』だが、本格的進出は1980年の映画『ヒポクラテスたち』(監督・大森一樹)。作品・古尾谷はじめ主要キャスト全員の演技力の高さが評判となっただけでなく、本作で共演して以来、斉藤洋介・内藤剛志と生涯の親友となった[注釈 2]。
さらに1983年の日本テレビドラマ『若草学園物語』で主役の教師役をつとめ、その主題歌「見上げるだけの人間のようで」でバップから歌手デビューも果たすなど、一躍脚光を浴びた。松田優作を敬愛、尊敬しており、松田自身からも目を掛けられていた。
映画『丑三つの村』で主人公・犬丸継男を演じた時には、熱を入れて役づくりに励み、
古尾谷自身は、斉藤や内藤らと違い、ほとんどバラエティに出ないことで知られ、ドラマや映画での撮影時には常に自分に厳しく取り組んでいた。しかし、過去には『笑っていいとも!』のコーナー「テレフォンショッキング」では数回ゲスト出演しており、1999年4月8日にフジテレビ系列で放送された『たけし・さんまの有名人の集まる店』では高島礼子と共に出演、トークを繰り広げた。
2003年3月25日、東京都文京区の自宅で首つり自殺を図り死去。45歳没[2]。晩年は事務所兼自宅マンションの住宅ローンや、1年前に亡くなった父の遺産相続をめぐって継母との民事裁判を抱えていた。
3月27日に営まれた通夜では斉藤洋介、竹中直人、阿藤快、大杉漣、ともさかりえ、KinKi Kidsの堂本剛、TOKIOの松岡昌宏、映画監督の大森一樹ら約600人が参列。特に斉藤は通夜、告別式では号泣し、映画『ヒポクラテスたち』で共演した阿藤は「ハリウッドで映画をやらせてあげたかった。無念でならない」と悔しさを訴え[3]、1991年の映画『ご挨拶』で共演した桃井かおりは「大きな悩みがあったと思うけど… きっかけさえあればだれだって死ねる。でも死んじゃダメ。長生きすることが勝ちなんだと思わないと。」[4]と、沈痛な表情でインタビューに答え、突然の死を悼んだ。
戒名は天鴻院漲演日雅居士。
2004年3月25日、埼玉県川口市の霊園で古尾谷の一周忌法要と納骨式が営まれたが、この日に合わせて妻・鹿沼が古尾谷との生活を綴った『最期のキス』を上梓している[5]。本書の末尾には「古尾谷の事を忘れてほしくない」との思いから《古尾谷雅人 ここに眠る》と、墓所の住所が明記されている[6][7]。
古尾谷の死後に妻・鹿沼が著書で綴ったところによれば、1990年代以降は仕事を選ぶようになったという[8]。古尾谷はあくまで硬派な役柄やシリアスな役柄にこだわり、軽薄な作品に出ようとせず、当時のトレンディドラマブームにも乗り損ねた[9]。また、敬愛する松田の死によって俳優としての将来像も見失っていたという[10]。制作サイドも古尾谷の姿勢と徐々に釣り上がる報酬単価から起用を敬遠するようになった[8]。古尾谷のもとには大河ドラマのオファーも度々舞い込んだが、幼少期に腸重積症を患った影響で腸が短くなり、トイレ休憩なしの長時間の撮影に耐えられない体だったため、辞退せざるを得なかった[11]。また、女性経験が少ないことや、手術痕を見せたくないというプライドから、ラブシーンのある映画やドラマに出演することも拒んだ[12]。自身のトラウマや病歴のため、俳優としての活動範囲が狭くなったことを古尾谷は終生苦しみ続けた。
やがて一日中家にいることも多くなり、昼間から酒浸りの生活になった[13]。収入が激減したことで、住民税や1億5000万円で購入した自宅マンションのローンなどの支払いが滞るようになり[14]、鹿沼も「元・女優」というプライドを捨てて近所のスナックでアルバイトをしながら金策に奔走し、返済を進めた[15]が、最終的に古尾谷家が抱えた負債は3億円にも及んだ[16]。
1995年から出演した『金田一少年の事件簿』が平均20%を超える視聴率を記録し、自身が演じた剣持警部も当たり役となる。鹿沼や関係者も「これで持ち直した」と期待したが[17]、精神面の不調や過度の飲酒により台詞覚えが悪くなった他[18]、松田美由紀と共演した『元気の神様』の撮影現場で故意に備品を破壊するなどのトラブルを起こし、心身の状態は悪化の一途を辿った[19]。鹿沼は古尾谷が躁うつ病とアルコール性健忘症を患っている[20]のではないかと見ていたが、折からの病院嫌い・医者嫌いも災いし、専門医の診断・治療の機会を失った[21]。
そうした状況下で実父の遺産相続を巡って継母との係争問題が表面化した。元々洗面所でいつまでも手を洗うほどの潔癖な性質[5]に加え、焦燥感によるストレスと昼夜逆転の荒んだ生活などから精神的に不安定な状態が顕著となり、鹿沼に対して顔面に重傷を負わせるほどの暴力(DV)に及んだかと思えば、逆に突然鬱状態に陥り「舞台で死ねたら役者として本望」「自分は必要ない人間じゃないか」と悲観的な言葉を発するようになるなど不安な日々が続いていた矢先の悲劇だったという[22][23]。
妻は女優・鹿沼絵里、娘は水野 快令(みずの れい)名義でモデルとしての活動歴がある。
息子(古尾谷雅)は高藤 疾土(たかとう はやと)名義で俳優デビューするも一時引退。2019年の俳優再デビュー時に父親の芸名を名乗り、2代目古尾谷雅人を実質襲名した。
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