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かつて存在した日本の中央官庁 ウィキペディアから
内務省(ないむしょう、旧字体:內務省、英語: Home Ministry)は、1873年(明治6年)11月10日から1947年(昭和22年)12月31日まで存在した日本の行政機関。警察や地方行政など内政一般を所管した[3][2]。
内務省 ないむしょう Home Ministry | |
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解体前の内務省庁舎。現在、同地には中央合同庁舎第2号館が建っている。 | |
役職 | |
内務卿/内務大臣 |
大久保利通(初代) 木村小左衛門(最後) |
次官 |
芳川顕正(初代) 鈴木幹雄(最後) |
組織 | |
内部部局: 1873年 (明治6年) | 地理寮、戸籍寮、警保寮、土木寮、勧業寮、駅逓寮 |
内部部局: 1936年 (昭和11年) | 大臣官房、神社局、地方局、警保局、土木局、衛生局、社会局 |
内部部局: 1942年 (昭和17年) | 大臣官房、防空局、地方局、警保局、国土局、管理局 |
内部部局: 1947年 (昭和22年) | 大臣官房、地方局、警保局、国土局、調査局 |
概要 | |
所在地 |
日本 東京都千代田区霞ヶ関二丁目1番地 北緯35度40分31.9秒 東経139度45分4.6秒 |
設置根拠法令 | 太政官布告「内務省ヲ置ク」[1] |
設置 | 1873年(明治6年)11月10日[1] |
廃止 | 1947年(昭和22年)12月31日 |
前身 | 大蔵省・司法省・工部省から部分移管[2] |
旧憲法(大日本帝国憲法)下の日本では内政・民政を担う行政機関であり、強大な権限の集中から「官庁の中の官庁」、「官僚勢力の総本山」、「官僚の本拠」[4] などと呼ばれる最有力官庁であり、設立当初から国民生活統制の中核となったが、太平洋戦争の敗戦後、GHQの指令によって解体・廃止された。
内務大臣は、内閣総理大臣に次ぐ副総理の格式を持った官職とみなされていた(太政官制での歴代内務卿、及び1885年(明治18年)12月22日の内閣制度発足後の歴代内務大臣については「内務大臣 (日本)」を参照)。また、内務次官、警保局長[注釈 1]、警視総監は「内務三役」と称された重職で[5]、退任後は約半数が貴族院の勅選議員に選出された[6]。
1871年(明治4年)11月12日、岩倉使節団に副使として参加した大久保利通は、日本の政治体制のあるべき姿として先進国のイギリスではなく、発展途上のドイツ(プロイセン王国)とロシア帝国こそモデルになると考えていた。
官僚の力を活用した近代化を目指していた大久保は、行政や財政を司る官僚機構に注目し、各国の内務省と大蔵省について調査させた。1873年(明治6年)3月、官僚機構を活用した近代化のモデルを求めてドイツを訪問した大久保は、ビスマルクの下で、官僚機構を通した近代化を推進している様子を見て強い影響を受けた。
同年5月、帰国した大久保は、フランス第二帝政の国内省(内務省[注釈 2])[7]と、プロイセン王国の帝国宰相府(1879年に帝国内務省に再編[8])[9] をモデルとして、1873年(明治6年)11月10日、強い行政権限を持つ官僚機構として内務省を設立し[1]、内務卿に就任した。
内務省は当初、殖産興業や鉄道・通信なども所管し、大蔵省・司法省・文部省三省の所管事項を除く内政の全般に及ぶ権限を有していた。
内務省ハ国内安寧人民保護ノ事務ヲ管理スル
所其事務ヲ支分シテ六寮一司ト為ス
勧業寮 警保寮 戸籍寮 駅逓寮 土木寮 地理寮 測量司
その後、農商務省・逓信省など各省が独立し、内務省の所管は大正期には地方行政・警察・土木・衛生・社会(労働)・神道(国家神道[注釈 3])の分野に限られるようになったが、戦前は各省の総合出先機関的性格が強かった道府県庁を直接の監督下においていたため、地方行政を通じて各省の所管事項にも直接または間接に関与し、内政の中心としての地位を保ち続けた[注釈 4][11]。特に、文部省は内務省によって事実上支配下に置かれていた[12]ため、日本の教育行政は内務省が主導していた[注釈 5][13]。
元内務官僚で、内務大臣も務めた後藤文夫は、各省庁に対する内務省の影響力の理由の一つとして、地方団体に対する監督権(特に地方財政監督権)の存在を指摘している。これにより、内務省の所管事項であった土木や衛生は勿論のこと、文部省・農林省・商工省・交通行政関係者に対しても内務省の立場を非常に強くしていたという[14]。このほか内務省は地方財務監督権(原案執行、起債認可、継続費の認可)も持っており、各省庁は何をするにしても内務省の同意と協力を得なければならなかった。
満洲事変や支那事変(日中戦争)を経て戦時体制に入ると、防空事務・国土計画の他に、国民精神総動員運動などの国民運動の指導、監督が新たに所管に加えられた。1938年(昭和13年)1月11日には外局であった衛生・社会両局が厚生省として分離されたが、当時の人事は内務省と一体のものとして運用されていた。
1910年代から1930年代にかけては政党員が内務大臣に就任したり、内務官僚出身者が代議士に転身して政党幹部に就任したりすることで省内に大きな影響力を与える一方、自党が選挙に有利になるように反対する省幹部や知事らを更迭して自党を支持する官僚を後任にあてる人事を頻繁に行うようになり、政権党が変わるたびに大規模な人事異動が行われて「党弊」とも呼ばれた。
1930年代に軍部が台頭すると、それと結んだ革新官僚が政党の影響力を排除した法改正を行うなど、独自の政治力を持つようになる。一方、軍部が地方行政や警察への介入を図ったために、双方の間で権限争いも生じた(ゴーストップ事件など)。戦前の北海道庁、樺太庁、警視庁、各府県の特別高等警察(特高警察)は内務省の下部組織であった。
国民精神総動員運動が叫ばれた時代には、民間人主導の精神運動の地方組織が、内務省の統括下にある市町村役場とその指導下にあった町内会や部落会に依存しなければ、事実上運動ができない限界を逆手にとって、次第に内務官僚の意向が重視されるようになり、1938年(昭和13年)7月29日には内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)に、精神運動に対する企画と指導の権限を与えることが決定した。これによって正式に精神運動は、内務省主導で推進されることになった。
内務省は精神運動の地方組織として、道府県庁内に精神運動の主務課(総動員課・総動員事務局・地方課・事変課・時局課など)を新設し、町村分会の設置と分会による隣保組織(部落会、五人組、十人組、隣保組)の指導などの実践網の整備に乗り出した。これらの実践網の整備は、表面的には精神運動中央連盟が実施する形をとっていたが、実際には内務官僚と警察官の主導によって推進されており、のちの大政翼賛運動における内務省の指導力の強さの源泉となるものだった[15]。
1938年(昭和13年)7月30日、産業報国運動の中央指導機関として産業報国連盟が発足するが、指導力不足によって機能せず、政府は1939年(昭和14年)4月28日に、内務・厚生両次官通牒「産業報国連合会設置に関する件」を全国の知事宛に発し、道府県知事(東京は警視総監)を会長とする道府県連合会と、その下に警察署管区を単位とする支部連合会を結成することを指示した。これによって中央機関である産報連盟と企業単位産報をつなぐ組織が完成したが、これによって内務省は産報運動の指導権を掌握することになった[16]。
日本の敗戦後、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた[17]。1945年(昭和20年)8月24日、政府は「警察力整備拡充要綱」を閣議決定し、帝国陸軍・海軍と憲兵の解体によって、治安維持の全責任を内務省・警察が担うことを決めた[18]。
以上3つがその計画であり、警察を軍隊の代わりにすることを意図していた。1945年(昭和20年)9月7日、内務省は陸軍省・海軍省と協議し、復員軍人を警察官に吸収する計画を立てた。警備隊・武装警察隊・水上警察の上級幹部として、陸軍大学校・海軍大学校出身者と、優秀な憲兵将校を2,000人採用し、警部補には陸軍士官学校・海軍兵学校出身者を充てることがその内容であった[18]。
特高警察は大幅な拡充を計画し、「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために、1900万円が要求されていた。内容は、1.視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、2.労働争議、小作争議の防止・取締り、3.朝鮮人関係、4.情報機能の整備、5.港湾警備、6.列車移動警察、7.教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である[18]。
政府・内務省は、警察力の武装化と特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを企図していた。1945年(昭和20年)10月5日、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否した[18]。
1945年(昭和20年)10月4日、GHQは特別高等警察や政府による検閲(日本における検閲を参照)、いわゆる国家神道の廃止を指示、さらに内務省のもとでの中央集権的な警察機構の解体・細分化を求めた。また、警保局や地方局を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事は公選に移行されるなど、地方行政が大きく転換された。同年末、GHQの指令を受けて内務省は廃止された。
内務省最後の日、内務官僚の後藤田正晴は内務省が解体・廃止されることに憤慨して、「内務省を復活させなければ、死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、後に警察庁でコンビを組む渡部正郎は、前述の発言は後藤田のものだと証言している[19]。
内務省廃止の式典の最後に、中堅・若手の内務官僚が集まり「必ず将来、内務省を復活させます」と、内務省の先輩に誓って解散したという秘話が伝えられている[20]。ほか、内務省廃止の日に最後の別れの酒宴が開かれた席上で、居残り組(総理庁官房自治課)の中心である鈴木俊一が、内務省の先輩達に対して「私があとに残って、必ず内務省を元通り復活させてみせます」と誓ったとされる[21]。
1936年(昭和11年)6月時点では、以下の組織形態であった[22]。
敗戦後の1947年(昭和22年)は以下の組織形態となった[23][24]。
内務省が担っていた業務は、以下の省庁がそれぞれ所掌した。
現在、これらの省庁の中でも、総務省・警察庁・国土交通省・厚生労働省を指して「旧内務省系官庁」と呼ぶことが多い。内閣官房副長官(事務担当)、宮内庁長官にはこれら旧内務省系官庁の出身者が就任することが多い。
内務省の解体・廃止によって、旧内務官僚たちは上記の旧内務省系官庁に分散することになったが、再統合を目指す様々な案が浮上した1960年代初頭まで、旧内務省系官庁が人事などで相互に助け合う事例が度々見られた[28]。
例えば、内務省の解体・廃止後の1948年(昭和23年)に内事局の官房自治課長を務めていた小林與三次が、GHQから公職追放の対象としてにらまれた際に、旧内務省国土局の後身である建設省に一時的に「退避」している。GHQによる占領統治が終るまでの間、小林は建設省の文書課長という枢要なポストを務めており、その後、1952年(昭和27年)8月に自治庁行政部長として返り咲いている[29]。
総理府官房自治課と地方財政委員会が統合されて1949年(昭和24年)に地方自治庁が設立されると、旧内務省地方局系の自治官僚は、旧内務省警保局系の国家地方警察本部のキャリア官僚の採用を事実上代行してサポートしていた。内務省の解体・廃止後、国家地方警察と自治体警察に細分化された日本の警察機構は権威がガタ落ちし、学生からの人気が急落していたからである。そのため、東京大学法学部の出身者は皆無というありさまであった。国家地方警察本部はその対策として、地方自治庁から東京大学法学部出身のキャリア官僚を採用し、まもなく国家地方警察本部に配置換えをすることでキャリア官僚を補っていた[28]。
この慣習は、1954年(昭和29年)の警察庁の設立により警察機構の再中央集権化が達成され、警察官僚の権威と人気が回復し、自前で優秀な学生を確保できるようになるまで続いた。旧内務省系官庁間の人事異動は局長レベルでは珍しくなったが、それは現在も続いている[28]。
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