相川勝六

日本の官僚、政治家、弁護士 ウィキペディアから

相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年明治24年)12月6日[2] - 1973年昭和48年)10月3日[2])は、日本の内務及び厚生官僚政治家弁護士宮崎広島愛知愛媛各県官選知事大政翼賛会実践局長、小磯内閣厚生大臣(第10代)、衆議院議員(8期)。

概要 生年月日, 出生地 ...
相川 勝六
あいかわ かつろく
生年月日 1891年12月6日
出生地 日本 佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市
没年月日 (1973-10-03) 1973年10月3日(81歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学独法科卒業
前職 官僚
所属政党 自由民主党
称号 正三位[1]
勲一等瑞宝章
法学士

第10代 厚生大臣
内閣 小磯内閣
在任期間 1945年2月10日 - 1945年4月7日

選挙区 宮崎県第1区
当選回数 8回
在任期間 1952年10月1日 - 1972年11月13日

官選第33代 愛媛県知事
在任期間 1943年7月1日 - 1944年4月18日

官選第31代 愛知県知事
在任期間 1941年3月26日 - 1942年6月9日

官選第31代 広島県知事
在任期間 1939年9月5日 - 1941年3月26日

その他の職歴
官選第29代 宮崎県知事
1937年7月7日 - 1939年9月4日
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経歴

佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市)出身。農業・相川定蔵の二男として生まれた[2]。1911年、佐賀県立鹿島中学校卒業。1912年、第二高等学校入学。1915年、第二高等学校卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独)卒業[2]

同年、内務省入省[3]千葉県[4]1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。1934年、内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。

1936年の廣田内閣組閣においては、潮恵之輔の入閣に内務省内の有力革新官僚の一人として反対し、報復として二・二六事件を口実に朝鮮総督府警察部警務局外事課長に左遷される。同様に反対していた唐沢俊樹安倍源基も共に左遷されている。

1937年、宮崎県知事就任。八紘之基柱建設を推進。1939年、広島県知事就任。部落会・町内会の結成。県主催紀元二千六百年奉祝博覧会開催。1941年、愛知県知事就任。1942年、大政翼賛会実践局長兼任。1943年、愛媛県知事就任、四国地方行政協議会長兼任。宮崎県知事在任中には高鍋に化学工業、日南に日本パルプ工業、小林と高鍋にアルコール工場を誘致し、県営で水力発電所を着工。愛知県知事に転任した際には、餞別を「相川厚生事業団」として引き揚げ漁民の託児所や福祉施設を広島に建設した。

1944年、厚生次官就任。1945年、小磯内閣の厚生大臣として労務行政を強化。

1946年、公職追放。1951年8月、追放が解除された[2]

1952年、第25回衆議院議員総選挙宮崎1区自由民主党から立候補、初当選。1965年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲二等からの昇叙)[5][6]。8期連続当選、1972年退任。衆議院では内閣委員会委員長、自民党では治安対策特別委員長を務めた。

1973年10月3日死去、81歳。死没日をもって銀杯一組を賜った[1]

栄典

位階

勲章等

逸話

  • 海軍の演習時に警察関係者として出席したが、折しも強風で相川の帽子が飛ばされた。この際、昭和天皇が「帽子がないと様にならないぞ」と風に飛ばされた相川の帽子を持ってこさせている。

著作

  • 『思い出づるまま』講談社出版サービスセンター、1972年。

脚注

参考文献

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