八紘之基柱
宮崎県宮崎市の平和台公園に位置する塔 ウィキペディアから
宮崎県宮崎市の平和台公園に位置する塔 ウィキペディアから
八紘之基柱(あめつちのもとはしら)は、宮崎県宮崎市の平和台公園に位置する塔。現在の名称は「平和の塔」。また正面に彫られた「八紘一宇」の4文字から「八紘一宇の塔」ともいう。
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塔の建造に使われた石材は国内外から寄贈を受けた石材が使用されています。
陸軍各部隊に司令部周辺の石と最前線の石を送れという指令があったので中国からの石も使用されているようです。
1940年の神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝うにあたり、国は紀元二千六百年奉祝事業として宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになった[1]。
そして宮崎県当局も「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」を立ち上げ、県を挙げて奉祝することになった。当時の知事相川勝六(奉祝会会長も兼任)は、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を作る事を提案し、実行に移すことになった。
相川知事は大阪毎日新聞・東京日日新聞(いずれも毎日新聞の前身)に頼み、この塔を設計する彫刻家を公募した。そして名乗りを上げたのが日名子実三である[2]。日名子は「報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい」と申し出て、相川知事も日名子の熱心さと彫刻家としての名声から、この申し出を了承することになった。相川知事は条件として、「何ヶ月間か宮崎県内を巡り、その風物に触れて構想を練ってほしい」と注文を出し、日名子もこれを受け入れた。そして宮崎神宮に参拝した際に、日名子は御幣を見てインスピレーションを感じ取って、これに盾を組み合わせたデザインにしたという。
場所について、相川知事は当初神武天皇縁の地である「皇宮屋(こぐや)」を考えていたが、県の幹部より皇宮屋の北部の台地を勧められ、実際に現地を訪れた結果、この地に建造することになった。
1939年(昭和14年)3月、日名子は模型を完成させ、相川知事の了解を得た。5月20日から工事開始。県内から動員された学徒を中心とする[1]、延べ約6万人の労働により翌1940年(昭和15年)11月25日に完成し、高松宮宣仁親王を迎えて落成式典が行われた[3][4]。
戦後の1946年(昭和21年)にGHQの命により、「八紘一宇」の碑文と武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像が撤去された。塔内部の奉安庫に収納されていた秩父宮雍仁親王の揮毫「八紘一宇」も撤去・処分の対象となったが、宮崎県職員によって密かに運び出され、宮崎神宮の倉庫内に隠された[1][3]。
1957年(昭和32年)、「平和の塔」に改称。一時はロッククライミングの練習場代わりに使われるほど荒廃した。
1962年(昭和37年)に荒御魂像が、1965年(昭和40年)に「八紘一宇」の文字が復元された[1][5]。これらの復元を主唱した県観光協会会長の岩切章太郎に革新政党や労働組合が抗議に訪れたが、「日名子の芸術作品だから元に戻すのが当然」と追い返したという。[要出典]
1964年(昭和39年)9月10日には、東京オリンピックの聖火リレーのスタート地点となった[1][5][6][7][8][9][10]。「世界平和を謳うオリンピックの精神と『八紘一宇』は同義」との意見が広がるにつれ、平和のシンボルとして県民に親しまれるようになる[1]。
正面には「八紘一宇」の文字(秩父宮雍仁親王筆)が刻まれ、四方に武人である「荒御魂(あらみたま)」、商工人である「和御魂(にぎみたま)」、農耕人である「幸御魂(さちみたま)」、漁人である「奇御魂(くしみたま)」の信楽焼の四神像が配置されている[2]。
塔内部は空洞になっており、「厳室」と呼ばれている。厳室入口の青銅製の扉には、神武天皇が美々津から出航する場面が彫られている。厳室内には、塔に彫られた「八紘一宇」文字の元となった秩父宮の真筆が安置されている。また日名子の作品である8個のレリーフ(大国主命国土奉還、天孫降臨、鵜戸の産屋、橿原の御即位式、明治大帝御東遷、紀元二千六百年興亜の大業、太平洋半球、大西洋半球)が架けられている。ただしこれらのレリーフは石膏でできており、劣化しやすいため、厳室内は原則非公開となっている[11]。
高さは、36.4m[3]。1,789個の切石(縦45センチ・横60センチ・幅15センチ)が礎石として使われている。
※漢字は常用漢字に改めた。
八紘之基柱は、紀元二千六百年に方り、宮崎県奉祝会は、八紘一宇の御精神を、悠久に、一代建造物として、具現し奉り、皇民精神修養根本道場たらしむべく、畏くも秩父宮殿下の、御染筆を賜り、官幣大社宮崎神宮の北方二粁、神武天皇御東征御軍議の聖蹟地八紘台(高さ五十米の丘)上に、東は霊地檍ヶ原を隔てゝ黒潮躍る太平洋を、西には、霊峯高千穂を指呼の間に望み、南は大淀の流れの千載に清きを眼下に見下し、我等が遠祖の眠る十七基の古墳群にかこまれて、二千六百坪の大広場を控へて立つ百二十尺の皇土の基柱であります。
基柱頂上部は、二間四面、基底部は、八間四面、正面の神武天皇御東征美々津出航の大軍船隊の浮彫のある大銅扉を拝すると厳室となつて居まして、奥まりたる正面、校倉風の奉安庫に御染筆を納め奉り四周の壁には 一、大国主命国土奉還 二、天孫降臨 三、鵜戸の産屋 四、橿原の御即位式 五、明治大帝御東遷 六、紀元二千六百年興亜の大業(五尺×十一尺、二面、五尺×五尺、四面)の大壁画彫刻をめぐらしてあります。
基柱建立の議起りて、其設計及彫刻制作の一切を、実三に托せられて満二ヶ年、一億同胞の援助のもとに、工成り、紀元二千六百年十一月二十五日、畏くも秩父宮殿下御使の御派遣ありて、竣工式を挙行、つづいて高松宮殿下の御台臨を賜り、高貴の御姿を、基柱正面露台上に仰ぎ拝するの光栄に浴し、聖柱の意義を、一層重からしめました。
基柱の基底部、玉垣をめぐらしたる十五間四面の礎石は、内地の津々浦々より、又皇軍第一線の各部隊より、遠くは南米及独乙の在留邦人より、各々由緒ある各地の石材の献納を受けたもの二千個を以て築き上げ主柱部鉄筋コンクリート建日向石舗装の耐震保久の構成とし、其形状は神籬に想を得て、書紀にある天皇盾を立て、雄叫びをなされ給ひし故事により、盾の形を組み合せて、之を幣帛の形になぞらへ、正面に御染筆「八紘一宇」の四文字を謹刻し奉り、四周に、荒魂、和魂、奇魂、幸魂の陶製四魂像(高サ一丈五尺)を配してあります。
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