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日本の宗教思想家 (1962-) ウィキペディアから
上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年〈昭和37年〉12月17日 - )は、日本の宗教思想家、心理学研究家、ひかりの輪代表。
アーレフ(現Aleph・旧オウム真理教)元代表で同宗教法人の責任役員であった[1]。2007年3月にアーレフを脱会、2007年5月にひかりの輪を設立。
福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)にて九州大学出身で福岡銀行に勤める父と、福岡学芸大学(現:福岡教育大学)出身で教員の母の間に生まれる。父親は最初弁護士を目指していたが、かなわずに銀行員となった[2][3]。同い年で同じ久留米市の生まれでは松田聖子[2]や藤井フミヤなどがいる。福岡には4歳まで生活し、父親が東京勤務となったため一家で上京[2]、その後、父親が東京のライターを売る貿易会社に転職するが、父親の女性問題によって両親が別居し、母子2人暮らしとなる(両親が正式に離婚したのは上祐が出家した頃[4])。父親は離婚後も養育費はきちんと払っていたことを上祐は後に確認している[2]。父親は、その後脱サラしライター分野で起業[2]。小学校から高校まで成績は良かった。なお、「上祐」という苗字は、福岡県を中心に20名ほどいるとしている[2]。
早稲田大学高等学院(早大学院)卒。大学時代、英語会のサークルに所属し、英語ディベート活動の大会で入賞するなど活躍した。その後、日本の英語ディベートを統括する日本ディベート協会の理事となった[5]。修士課程の2年目の1986年、オウム真理教の前身団体で当時ヨガ団体だった「オウム神仙の会」に出会い、8月に入会する[3]。きっかけは『月刊ムー』(学研)での麻原の紹介記事であった。当時、超能力や健康、神秘的な事柄に関心があったが、ヨガには興味はなかった。入会後、泊りがけで参加した丹沢セミナーにおいて、1日10時間にも及ぶ厳しい行法やヨガの呼吸法など、ストイックで過激な修行に強い印象を受けた。その後、数回修行を繰返したところで神秘体験を経験。瞑想しながら体の感覚がなくなるような不思議な感覚や不思議な色や光を見る。最終的にはクンダリニーまで体験。このことで、麻原をヨガの正しい指導者として認識するに至る[2]。
同年4月に特殊法人宇宙開発事業団[注釈 1]に入る(現JAXA)。宇宙開発事業団に入った理由は、当時の宇宙開発事業団会長がNHK教育テレビジョンで「これからの地球を救うのは宇宙である」と話しているのを聞き、感銘を受けたためである[4]。また、アポロの月着陸を見た世代であり、宇宙が子供時代からの憧れであったためである。しかし、就職する少し前に始めていたオウム神仙の会が面白くなり、出家するため、1か月で退職。上祐が宇宙開発事業団を退職したのは5月だが、オウム真理教は7月から出家制度を基本とする宗教団体に衣替えしていった。出家や退職について母親には反対されたが押し切った[注釈 2]。
上祐は、オウムでは、男性の中で佐伯一明(後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった[6]。上祐が出家当時の麻原は「極限」という言葉を好み、「6つの極限」を提唱していた。「布施や奉仕の極限」「戒律を守る極限」「忍耐の極限」「精進の極限」「瞑想の極限」「知恵を磨く極限」である。オウム真理教では上祐は早くから認められ、1987年時には既に数百人の会員のうち10人ほどしかいなかった「大師」として認められる。1987年10月頃、ニューヨークにオウム真理教の支部を開設し、その支部長を務めた。1989年には大阪支部長を務めた[7]。新興宗教ブームの仕掛け人として、当時麻原はしばしばマスメディアにも登場した頃であった[2]。
1989年には坂本弁護士一家殺害事件が発生。この事件の直前に上祐は麻原に反対する発言をした[注釈 3]ため、石井久子とともに共謀の場から外されたため、この事件には関わっていない。この坂本弁護士の事件の前に、坂本弁護士を殺害したメンバーが中心となり2件の内部事件(オウム真理教男性信者殺害事件)がすでに起こされていた[注釈 4]。上祐は、これら3つの事件の全容を知らずに教団のスポークスマンとしてそれらの事件の「もみ消し役」を麻原に命じられた。その際の発言の数々が、マスメディアで「ああいえば、上祐」と言われるきっかけとなる[2]。
1992年12月には、「尊師」,「
1993年秋から教団ロシア支部に出向。なぜ上祐が指名されたのかは上祐自身分からないというが、麻原に対して信者の中で唯一異論を述べる存在であるために煙たがられたための「左遷説」「擁護説」などがメディアでは飛び交った。ロシア語はほとんど話せないが、片言のロシア語か、英語-ロシア語の通訳を介して英語で話していた。時には日本語-ロシア語の通訳を介することもあったが、その通訳は、ソ連崩壊前には対日本の諜報部で活躍していた人物であった[2]。
地下鉄サリン事件後には、麻原にロシアから日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。外報部長・緊急対策本部長などの役職でスポークスマンの役割を果たす。得意とする話術や堪能な英語力で教団の疑惑や犯罪容疑に反論することから、「ああいえば、上祐」と揶揄された[9]。1995年10月6日に国土法違反事件で有印私文書偽造などの容疑で逮捕され[注釈 5]、懲役3年の実刑判決を受ける。サリンの製造技術については、当時アメリカの学者がサリンに関する情報をインターネット上に公開しており、それをネット検索で見付けた土谷正実らが探し出し、試行錯誤の末、製造に成功したということをマスコミ関係者から聞いたと、上祐は証言している[2][10]。
1999年12月に広島刑務所を出所して、麻原の子女らと教団幹部らが内部対立していた教団に復帰し、2000年2月に「アレフ」(現Aleph)を設立、2002年にアレフ代表に就任した。アレフは、それまで教団最高幹部であった麻原の子女ら(松本麗華他)が逮捕されたこと(旭村事件)で、麻原の家族は、必然的に教団運営から外れることとなった[11]が、その後、麻原の妻の松本知子が出所すると、松本知子と麻原の子女らが、秘密裏に教団運営に関与、教団の主導権を握るようになり、上祐排除の指示(上祐は悪魔に取りつかれたため麻原を批判している等)を、教団幹部らにに出したことで、上祐は突然教団運営から排除され軟禁状態となった[12]。
なお、上祐が、一般に弟子の中で最高位とされる「正大師」の位階であったにもかかわらず、麻原の子女・松本麗華らが、上祐を排除したり軟禁したりできた理由は、麻原の子女らの教団内での位階が、上祐より上の「皇子(こうし:すべての弟子の上の位階)」と麻原により位置づけられていたためである[8]。
しかし2004年1月、麻原家やその意向に従う信者らの強い反対を押し切り教団に復帰、いわゆる「上祐派」が形成された。その結果、内部対立が激化し、上祐に反対する反上祐派と、上祐を支持する上祐派、そのどちらにもよらない中間派という三つに分裂した[13]。その後、2007年3月にアレフを脱会、2007年5月、別団体として独立、「ひかりの輪」を設立した。
なお、公安調査庁は、上祐が麻原の意思を実現するために“麻原隠し”を徹底し観察処分を免れるための隠蔽工作として別団体を作ったのではないのかという見方をしている[3]。一方、東京地方裁判所は、「原告(※ひかりの輪)の設立は、別団体を組織して、別団体との間で役割分担しながら活動することを求めていた松本(※麻原)の意思に従ってされたものであるとまでは認めることはできない。」と事実認定し(2017年9月25日の判決)、麻原の意思に基づいて設立された団体ではないとしている[14]。
2007年5月7日、麻原の教義を完全排除したとする新団体ひかりの輪を設立、代表に就任。上祐はひかりの輪を「仏教の思想や心理学を学んだり、ヨガの体操や呼吸法を実習したり、聖地巡り(パワースポット、全国各地の神社仏閣、それに付随する自然など)を行っている」と説明している[2]。その活動状況は、インターネット上のサイト[15]や、YouTubeチャンネル[16]で公開している。
公安調査庁は、麻原の影響力を払拭したかのように装うオウム真理教の後継団体であり、麻原の死刑が執行された2018年7月以降も依然として麻原の影響下にあるなど、危険な体質との認識を変えていない[17][18]。一方、公安調査庁に35年間務めた元公安調査官は、ひかりの輪への監査の結果、ひかりの輪は麻原の影響下になく、危険性はないと2020年9月30日付けでコメントしている[19]。アメリカ国務省も、オウム真理教そのものについて、テロの危険はないとして、1997年以来25年間続けてきた「外国テロ組織(FTO)」指定を2022年5月20日に解除している[20][21]。
詳細は「オウム真理教女性信者殺害事件#事件の発覚」を参照
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