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球技の一種 ウィキペディアから
テニス(英: tennis、中: 網球)またはローンテニス(英: lawn tennis)は、二人または二組のプレイヤーがネット越しにラケットでボールを打ち合う球技。オリンピックやパラリンピックで採用されている競技であり、年齢性別、身体的個性を問わず広く親しまれている。日本において漢字名の庭球(ていきゅう)と呼ばれることもある。
後述の「ジュ・ド・ポーム」のことを「テニス」という場合がある(この場合は本稿のことを「ローンテニス」と呼ぶ)。
複数の人間が1つの球を互いに打ち合うという形式の球技の起源は、紀元前にまで遡ることが出来る。エジプトでは宗教的な行為のひとつとしてこのような球技が行われていた。紀元前15世紀の壁画で球を打ち合う球技を行う人々の姿が描かれたものが発見されている。
フランス貴族の遊戯として定着をはじめた16世紀以降には「jeu de paume」(ジュ・ド・ポーム、「掌の遊戯」の意)と呼ばれた。
フランスでこの球技が盛んになった理由としては、ローマ時代の直接の影響よりも、8世紀から11世紀まで、イベリア半島から南フランスまで進出していたイスラム教徒(後ウマイヤ朝)が、エジプト時代と同様に、宗教的行為として行っていたものに、キリスト教の僧侶が興味を持ち模倣したことから始まったと言われている(「ラケット」の語源がアラビア語であることに注意されたい。フランスの僧院で特に盛んに行われるようになったのは、イスラム勢力がヨーロッパから駆逐された12世紀ごろ以降からとされる)。
「テニス」の名称はフランス宮廷で行われたテニスの原型であるジュ・ド・ポーム (Jeu de Paume) において、攻守交代の際にサーバーが「トゥネス!」(仏: Tenez!、動詞 tenir の命令形で「(球を落とさないように)取ってみろ」の意、現代フランス語では「トゥネ」と発音する)と掛け声をしていたことにちなむと一般的に言われる。アラビア史研究の権威フィリップ・K・ヒッティ(Philip Khuri Hitti)は、中世にリンネル織物で有名だったエジプトのデルタ地方の都市で、リンネルで球を作ったと思われる「ティンニース」からきているのだろうと述べている[1]。基本的なルールやスコアリング方式はローンテニスと似ている部分もあり、ファイブズ (fives)、ペロタ (Pelota) などのハンドボールから発達した。
18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの貴族の間で大流行し、多くのコートが建造されたが、現存するものは少ない。イギリスでは復元されたコートがクリフトン大学にある。近代における貴族階級の遊戯としてのテニスは、イギリスではロイヤル・テニス(Royal Tennis、「王家のテニス」の意)、アメリカではコート・テニス(Court Tennis、「宮廷のテニス」の意)とも呼ばれている。
手袋を使うこともある。Jeu de paumeの「paume」とは掌を意味する。ボールは固形物(石等)を芯に糸を巻き、皮で被ったもので現代のものよりはるかに重く、弾力性は少ない。サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。失敗したプレイヤーはポイントを失う。ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世においては、レシーバーにあたる人間の従者が第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことに起源がある(従者「サーバント」が主人に対して行う行為は「サービス」)。14世紀には現在のラケットの原型が登場した。これにはまだガットは張られておらず、ガットが張られるようになったのは16世紀になってからである。
現代の多くのスポーツとは異なり、ローンテニスの歴史はごく浅い。1873年12月、ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が考案した「スフェリスティキ(sphairistike、ギリシア語: σφαιριστική、「球戯術」の意。略してスティッキ[sticky])」がその原型。現在の社会体育、生涯スポーツの概念の先駆けとなる発想で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめる「持ち運びのできるテニス」などともいわれ、コートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。ボールは中空のゴムボール(ソフトテニスボールと同様なもの)を採用し、当初は現在のように硬質のフェルトで覆われていなかった。1874年、少佐は商用としての可能性を見て特許を取得したが、商業的には成功せず、特許の期限切れにともなう再申請は行っていない。しかし、イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まり、アメリカではニューヨークのスタッテン島、メアリー・ユーイング・アウターブリッジの家で最初にプレイされた。中空のゴムボールでは芝生上でしばしば不安定なバウンドをみせることがあり、フェルトを巻いたものも考案され、2種のボールは永らく併用されていたが、やがてフェルトカバーボールが主流となっていく。
1877年、イギリスのロンドンでアマチュアの大会としては第1回目のウィンブルドン選手権が開催された。アメリカでは1881年に設立されたアメリカ国立ローンテニス協会(現在の全米テニス協会)が、ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。同年、「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカ・ロードアイランド州ニューポートで開催され、1887年には「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship) が始まった。これらのアメリカでの大会群は現在の全米オープンの原型である。1900年には男子国別対抗戦であるデビスカップが始まった。
諸説[注釈 1]あり、1878年(明治11年)にアメリカ人教師のリーランドが文部省の体操伝習所で紹介説が広く流布されているがこれも確たる証拠はないとされ、いまだ詳らかではない。
明治期の日本で調達が困難であったローンテニス用具を、安価なゴムボール等の代用品で賄った。これがやがて軟式テニスと呼ばれる様になった。独自の発展を遂げ、今日のソフトテニスに至る。
1886年に東京高等師範学校(東京高師、後の東京教育大 現筑波大)に体育専科がおかれ、坪井玄道が教師に赴任、普及に尽力した[2]。
当初ゴムボールも輸入品であったが、坪井の依頼をうけて三田土ゴムは1890年(明治23年)にゴムボール製造を開始。1900年に日本国産球が完成し、1908年には特許を取得している。 東京高師の卒業生は1887年頃から全国に教員として赴任し、ゴムボールをつかったテニスは全国に普及していくこととなった[3]。 1898年(明治31年)、東京高師と東京高等商業学校(東京高商 現一橋大)の間で対抗試合が行われ、これが日本で最初の対抗戦といわれる。 1904年(明治37年)、東京高師、東京高商、早稲田、慶応の4校の代表が集まりルールを制定、これが日本人が制定したテニスルールの最初のものとされる。
明治期後半 学校対抗の団体戦が日本全国で盛んに行われ、最盛期を迎える[4]
慶応庭球部の主将を務めた小泉信三が欧州遊学中、ウィンブルドン選手権を観戦し、感銘をうける。母校に軟球から硬球への転向を示唆、これを受け、1913年(大正2年)に慶應大学庭球部が突如硬式テニスへの転向を宣言する。
その後、軟式テニスで育った熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎ら多数の名選手がテニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らは、その当時においては独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で活躍し、1920年代前半から1930年代後半まで続いた日本テニス黄金時代を築き上げることとなる。
1918年(大正7年)、熊谷一弥が全米選手権において、日本人テニス選手として史上初のベスト4進出を果たし、1920年(大正9年)には清水善造のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝(現在では準決勝に相当)に進出し、世界1位に君臨していたビル・チルデンに肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックにおいて熊谷がシングルスで銀メダルを獲得し、ダブルスでも熊谷と柏尾誠一郎のペアが銀メダルを獲得し、オリンピックで初めての日本のメダルとなった。翌1921年、男子テニス国別対抗戦・デビスカップの日本チームの活躍は目覚ましく、準優勝に輝いている。
1921年、日本庭球協会(元日本テニス協会)が発足。同年全日本テニス選手権がスタートしている。
日本テニス界の先駆者であった熊谷一弥と清水善造の後に続き、大正期から昭和期へと移行した1920年代には原田武一が日本を代表する選手として活躍した。原田はとりわけ、デビスカップで傑出した成績を挙げることとなる。特に1926年のデビスカップでは、日本テニス史に残る名勝負が繰り広げられた。日本は「アメリカン・ゾーン」決勝でキューバに5戦全勝で勝ち、「インターゾーン」の決勝でフランスと対戦する。当時のテニス界は、フランスの「四銃士」と呼ばれた4人の強豪選手たちが世界を席巻し始めていた。原田はインターゾーン決勝のフランス戦で、第2試合シングルスでルネ・ラコステを 6-4, 4-6, 6-3, 9-7 で破り、第5試合シングルスでもアンリ・コシェに 6-1, 6-3, 0-6, 6-4 で勝ち、この活躍で世界的に有名な選手となった。日本チームは2勝3敗でフランスに敗れたが、原田のシングルス2勝は大きな反響を呼んだ。1926年、原田武一は「全米テニスランキング」でビル・チルデン、マニュエル・アロンソに次ぐ第3位にランクされ、世界ランキングでも7位に躍進する。
1930年代に入ると、佐藤次郎が登場する。佐藤は4大大会でシングルスでは通算5度もベスト4に進出し、ダブルスでは布井良助とペアで準優勝を経験し、混合ダブルスにおいても準優勝に輝くなど、日本の男子テニス選手として空前絶後の世界的な活躍を残し、当時の世界ランキング3位にまで登り詰めたが、1934年(昭和9年)4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をしてしまう。しかし、同年のウィンブルドン混合ダブルスで三木龍喜がドロシー・ラウンドとペアを組んで優勝し、日本人のテニス選手として最初の4大大会優勝者になった。
佐藤亡き後は山岸二郎、中野文照が日本テニス界を代表する選手になる。特に山岸は1938年のデビス・カップ「アメリカン・ゾーン」決勝でオーストラリアと対戦した時、この年の世界ランキング3位だったジョン・ブロムウィッチを6-0, 3-6, 7-5, 6-4 で破り、1937年(昭和12年)に山岸は世界ランキング9位に入り、1938年(昭和13年)には8位にランクされた。同年にはアメリカのドン・バッジがテニス史上最初の「年間グランドスラム」を達成しており、山岸は彼らに続く強豪選手として高い評価を受けたのである。
しかし、1937年に勃発した日中戦争は泥沼の様相を呈し、国内の物不足も顕著になりボールも配給制となった。1939年には四大大会への海外遠征とデビス・カップへの選手派遣も中止となり、戦前の日本テニスの黄金時代は終わりをつげた。1941年に日本が太平洋戦争に突入すると、日本国内は戦時一色となり、日本テニス協会も1942年11月に解散を余儀なくされてしまい、翌年から3年間、戦争激化のため大会は中止せざるを得なかった。この影響は日本テニス界を確実に蝕み、今までのような高水準のレベルが維持は難しくなり、長期の低迷を迎えることとなる。
終戦後には日本においてテニスをはじめとするスポーツも徐々に復興し、1951年(昭和26年)からデビスカップの国際舞台に復帰するが以後の4年間アメリカゾーン20戦し2勝18敗と苦戦、過去の隆盛には遠く及ばなかった[5]。昭和30年よりは東洋ゾーンに参加するがここでも苦戦。インド、フィリピンの後塵を拝す時代がつづくことになる。そんななかで1955年(昭和30年)、全米選手権男子ダブルスにおいて宮城淳、加茂公成のペアが優勝を成し遂げる。
1970年代にははいると沢松和子が登場し海外で活躍[6]。1975年にはウィンブルドン女子ダブルスで優勝する快挙を達成する。
世界のテニスがオープン化するなかで日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(母が軟式テニスの皇后杯全日本チャンピオン、父は天皇杯準優勝 本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。
1995年(平成7年)には松岡修造がウィンブルドン選手権男子シングルスでベスト8を獲得した。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少なかった。
しかし、2008年(平成20年)に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たし、2014年(平成26年)には、全米オープンでアジア男子初の準優勝、同年末にはアジア男子初のATPワールドツアー・ファイナルに出場。初出場で2勝をあげ、準決勝まで進出するという快挙を達成、2015年には日本人及びアジア人最高位を更新する世界ランキング4位を記録、アジア選手初の生涯獲得賞金1,000万ドル (約12億円) を突破した。そして、全米オープンでは日本人で初めてのグランドスラムでの第4シードを獲得した。2016年にはリオデジャネイロオリンピックに男子シングルスの日本代表として出場。準決勝でイギリスの英雄アンディ・マリーにストレートで敗退するも3位決定戦で同大会ダブルス部門で金メダルを獲得したラファエル・ナダルにフルセットの末、勝利し銅メダルを獲得し、前述の熊谷一弥,柏尾誠一郎以来の96年ぶりのオリンピックテニス競技のメダリストに輝いた。
女子では、沢松以降。1980年代から90年代には井上悦子や1989年にプロ転向した伊達公子が活躍。伊達は1995年に日本人選手として最高の世界ランキングシングルス4位を記録。1997年には平木理化が全仏オープン混合ダブルスで優勝した。2004年2月、杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たした。また、ダブルスとしては世界的な名手と知られ、2000年10月には日本人男女初となる世界ランキング1位を記録した(後に2003年にも1位に返り咲く)。そして2018年には、ハイチ出身の男性を父に持つ大坂なおみが全米オープンに優勝、さらに2019年の全豪オープンも制してアジア人として初めてシングルスの世界ランキング1位となり、2020年には再び全米オープンに優勝した。大坂は二重国籍であったが、22歳を前にして日本国籍を選択、選手登録も日本協会である。
前述したようにソフトテニス(軟式テニス)はテニスが日本へ紹介された当時、テニス用具の国産化が難しく輸入品が高価であったため、ゴム製の手毬(玩具として輸入されていて容易に入手できた)を代用ボールとして使われたのが始まりで、ゴムボールを使用するソフトテニスは日本が発祥。東京高師(現筑波大)の卒業生により全国に伝播され日本のテニス文化の基礎となった。現在ではアジアを中心に行われていたがプレイされる国や地域が増加傾向にある。2007年の第13回世界選手権では40を超える国がエントリーした。ダブルスが主体であったが、1994年以降はシングルスのルールが整備されている。ルールの一部はテニスのものと異なっている。
試合形式としては、1人対1人で行うシングルスと2人対2人で行うダブルス、混合ダブルスがある。
試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーがサーバー、他方がレシーバーとなり、1ゲームごとに交替する。プレーヤーは奇数ゲーム終了ごとにコートを入れ替わる。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアにバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返す。次のようなときに失点(相手の得点)となる。
スコアは、0ポイント:ラブ (love)、1ポイント:フィフティーン (fifteen, 15)、2ポイント:サーティー (thirty, 30)、3ポイント:フォーティー (forty, 40) と数える。2ポイント差以上をつけて4ポイント以上を取ると1ゲームを獲得する。例としてカウントが40-30であれば、40の側のプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。両者とも3ポイント (40) の状態を「デュース」(deuce) と呼び、デュースの後1ポイントリードしている状態を「アドバンテージ」(advantage) と呼ぶ。アドバンテージを得ているプレーヤーが1ポイント取得するとそのプレーヤーがゲームを得る。アドバンテージを得ているプレーヤーの相手側が1ポイントを取得すると再びデュースとなる。
2ゲーム差以上をつけて6ゲーム以上を取得するとセットを得る。例としてゲームカウントが5-5となった場合は、6-5の後、7-5とすればそのセットを得る。ゲームカウントが6-6となった場合には、次のゲームはルールによってはタイブレーク (tiebreak) が行われる。タイブレークでは2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、…となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。総セット数の過半数、例として5セットの内3セットを取得すれば勝利となる。
タイブレークは1965年にJames Henry Van Alenが試合時間短縮のために考案し、1971年にウィンブルドン選手権において初めて導入された。この時には最終セット以外のセットでゲームカウントが8-8となった後に行うというルールであり、1979年に同大会において最終セット以外のセットでゲームカウント6-6の後に行うというルールに変更された。4大大会の全仏オープンでは最終セットでタイブレークを採用しておらず、2ゲーム差が付くまでセットが続行される[要出典]。かつてはオリンピック、デビスカップ、フェドカップでも同様のルールを採用していたが、現在ではすべてのセットでタイブレークを採用している[7][8]。2019年、全豪オープンとウィンブルドン選手権で最終セットのタイブレークが導入された[注釈 2][9][10]。
2005年秋以降の男子国際大会でのダブルスにおいて、ノーアドバンテージ、また1セットを5ゲーム先取方式とする(ゲームカウント4-4でタイブレークを行う)等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心とした反対運動など論争が起こっている。
このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月のAIGジャパンオープンテニスでは、日本の岩渕聡、鈴木貴男組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。
2006年のナスダック100オープンにおいて、条件つきで判定に異議を唱えられる「インスタントリプレイシステム」(チャレンジシステム)が初めて採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「ホークアイ」というコンピューターグラフィックスを用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォールトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。
同システムは、4大大会では2006年の全米オープンにおいて初めて導入され、センターコートなど2会場で設置された。2007年には全豪オープンおよびウィンブルドン選手権でも導入された。日本では2008年に東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントにおいて、2010年にジャパン・オープン・テニス選手権においてそれぞれ初めて使用された。
2011年のウィンブルドンにおいては、インスタントリプレイ (Electronic Review) に関して以下のルールが適用されている。
なお、チャレンジシステムはクレーコートの試合ではコートにボールの跡が残るため採用されない。
この節の加筆が望まれています。 |
公式の試合において、着用する服装はルールにより定められている。清潔でプレーにふさわしいと認められたテニスウェアを着用しなければならない他、トーナメントによっては開催要項に明記して、服装の形や色を規制する場合がある。有名なのはウィンブルドン選手権において白を基調としたウェアとシューズの着用が義務づけられている。これは、1884年の初代女子シングルス優勝者のモード・ワトソンが上下のウェアを白で統一していたことに由来する。
また、スポンサーや製造者のマークの大きさも決められており、アディダスの三本線はデザインとは認められず製造者マークと見なされ、2008年より大きさの制限が設けられている。 ジュニアの大会では、原則としてメーカーのマークなどが、胸の位置以外にあるものは認められない。
テニスラケットも原則としてメーカー契約選手で無い限りメーカーのマークがされたガットを使用する事は出来ない。
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