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1933-2014, 映画監督、脚本家。 ウィキペディアから
鈴木 則文(すずき のりぶみ、1933年11月26日 - 2014年5月15日)は、日本の映画監督・脚本家。静岡県浜松市出身。愛称はコーブン、コーブンさん[1][2][3]。
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元々のデビュー作は、徳川時代の彦根藩主君の近習を務めた侍の話になる予定だった。しかしそのホンを東映東京撮影所所長の岡田茂へ提出したら[6]、『暴君好色』と商売第一のタイトルを岡田に付けられて、やむを得ず第1回作品として準備に入るが[7]、絶対条件だった佐久間良子が出演を拒み流れた[8]。岡田は鈴木を悲劇より喜劇のほうが向いてると判断していたことから[7]、1965年の映画『大阪ど根性物語 どえらい奴』で監督デビューとなった[7][8]。マキノ雅弘が監督した『日本大侠客』(1966年)に登場した藤純子演ずる馬賊芸者のお龍を基に、『緋牡丹博徒シリーズ』を生んだ。同シリーズは加藤泰・山下耕作・小沢茂弘らが監督しているが、お龍のキャラクターを確立させたのは鈴木で、シリーズのほとんどの脚本を手掛け(合作含む)、『日本女侠伝』、『女囚さそり』、『極道の妻たち』などと続く女ヤクザ映画の先駆けとなった。監督も務めたのはシリーズ第2作の『緋牡丹博徒 一宿一飯』だけだが、『緋牡丹博徒』シリーズの熊虎親分を主人公とするスピンオフ企画として、若山富三郎主演『シルクハットの大親分』(1970年)も監督している。1969年からの『関東テキヤ一家』シリーズでは多くを監督し(合作で一部脚本も担当)、『まむしの兄弟』シリーズでも1973年のシリーズ第6作『まむしの兄弟 恐喝三億円』で監督、脚本(高田宏治との合作)を担当している。『温泉みみず芸者』を始めとした東映ポルノ作品は、『徳川セックス禁止令 色情大名』(1972年)や『エロ将軍と二十一人の愛妾』(1972年)などや『女番長』シリーズを演出した[9]。『聖獣学園』主演の多岐川裕美の芸名は、鈴木が付けた[10][11]。1970年代当時としては優れたプロポーションの女優が鈴木の作品でヌードを披露しているが、それは鈴木の女優の扱いの良さによるところがある[11]。
1975年の千葉真一主演の『少林寺拳法』を皮切りに格闘・アクション映画の演出も担っていく。ほかにも志穂美悦子・真田広之・黒崎輝らジャパンアクションクラブ (JAC ) メンバーを主役に据えた作品を手掛けた。『女必殺拳シリーズ』では主演に志穂美を起用している[8][12]。『女必殺拳』の主役は当初アンジェラ・マオで進められていたため、「俺もひょっとしたらホンコンを足場にハリウッドに乗り込めるかも」と当時は思ったという[8]。同時期に『仁義なき戦い』シリーズなどでヤクザを多く演じていた菅原文太にとっても新境地を開く喜劇『トラック野郎』シリーズを手がける。
脚本家としては自身の作品も多く手掛けているほか、他の監督作品も執筆している。『緋牡丹博徒』シリーズであるが、外にも加藤泰の『明治侠客伝 三代目襲名』(1965年)や山下耕作のヒットシリーズ第1作『兄弟仁義』(1966年)などを手掛けている。ただし後述のテレビドラマ作品も含め、そのほとんどは1~2名の脚本家との合作作品である。1967年『戦国無宿』を手始めに、テレビドラマの脚本も手掛けている。主に時代劇が多いが、著名なものとしては『柳生あばれ旅シリーズ』、『名奉行 遠山の金さん』の一部、『暴れん坊将軍』シリーズの一部がある。
「不良性感度」を重視した東映の会社カラーを支え続けた監督であり、男臭さやお色気が前面に出た作品が多いが、コミックを原作にした喜劇的作品では米映画『ゴーストバスターズ』などのパロディ特撮が挿入されたり、かなりオタク受けのするセンスも披露されている。耽美的な演出を見せたり、かなり強烈な反権力メッセージ(特にキリスト教批判はしばしば繰り返された)を展開することも多かったが、これらを前面に押し立てて首尾一貫した作品としてまとめあげるよりは、常に下品な観客サービスに徹する方向を選んだ。結果、映画賞やキネマ旬報ベストテンなどとは終生無縁であったが、本人もそれをむしろ矜持としていた様子がインタビューなどから窺える。
1989年の『文学賞殺人事件 大いなる助走』(筒井康隆原作)は自身も制作予算を負担したこともあって、取り分け思い入れが深いという。任侠・ポルノ・格闘・アクション・漫画・小説と多彩なジャンルの作品を発表しているが、鈴木本人は「一部で無思想無節操の職人監督の典型との評があるが、それが何よりの褒め言葉」と語っている。一方で、三島由紀夫の自決直後に書かれた「仮説・兄弟仁義 衝撃の思想としての十一月二十五日」など、論考やエッセイでは独特の気骨と才知を見せている。
座右の銘は「下品こそ この世の花」[11][13]。東映プロデューサーの天尾完次とは盟友関係で、天尾が東映京都撮影所から東映東京撮影所へ異動した際には、鈴木も帯同した[14][15]。監督としても脚本家としても映画界に足跡を残したと同時に裏方に徹し、ファンからサインを求められても「俺は裏方だから」、「そんな器ではない」とほとんど断っている。
「俺は照明をまんべんなく当てて影を作らないんだ。その方がバカに見えるだろ?」[11]、「ピントは奥まで全部合わせるんだ。そうすると画面に奥行きがなくてバカに見えるだろ?」[11]、「今までに、政治が、文学が、弱い人の味方をしたことがあったか!?だからせめて映画ぐらいは弱い者の味方であってもいいじゃないか、なんて言ったら格好つけすぎかな」とも語っている。
1965年の映画『大阪ど根性物語 どえらい奴』でプロデューサーの天尾完次から、中島貞夫を紹介され共同で脚本を執筆、中島とは終生の友人となった[16]。議論になるとムキになって興奮する、そくぶん(則文)に引っかけ「こうぶん」と中島らは呼んでいた[11][16]。しかし性格は真面目できっちりしていたという。中島や鈴木たちは作品が完成すると岡田茂のチェックを受けていたが、ある時、深夜になり岡田が酒の匂いをさせてやって来て、途中からウトウトし始めた。チェック次第で岡田からのダメ出しがあるかも知れず、中島は「しめしめ」とほくそ笑んでいたが、鈴木が「オレの作品に対して何事ですか!」と岡田を揺すって起こしてしまった[16]。起こされた岡田にコテンパンに切られた[17]。岡田は鈴木を「喜劇に向いてる[18][19]」「パクリの才能がある[20]」と評している。関本によると「興奮してはいても、誰かが意見を言うと『ああ、そうかそうか』と耳を傾ける人。それに、いろんな人を育てた。僕を監督にしたのもそうだし、菅原文太は売れない頃から鈴木さんが飲みに連れて行ったりしていた。その絆が『トラック野郎』に結びついたんだと思うよ」という[11]。
鈴木は岡田茂に引き上げられた人だが[21]、鈴木の結婚が決まると岡田と俊藤浩滋の両方が「結婚式の仲人をやる」と言って来た[21]。俊藤にも「緋牡丹博徒シリーズ」などでずっと世話になってきた義理があり、困り果てた鈴木は二人が来れないようにハワイで結婚式を挙げた[21]。
九州弁を喋る女を偏愛し、自らが生みだしたキャラクターである「緋牡丹博徒シリーズ」の主人公・お竜や『トラック野郎』に登場するモナリザお京が九州生まれなのは、その反映である[22][23]。喜劇役者の由利徹のファンでもあり、「トラック野郎シリーズ」には全作出演してもらったほか[注釈 1] 、その他の作品にも出演しており、鈴木作品の最多出演者である[13][24]。
夏樹陽子は鈴木を「監督然とした風情はなく、驚くほどに気さくでした。日焼けか酒焼けかわからないような赤い顔で台本と赤ペンを持って、いつもニコニコしていました。私にとっては母性本能をくすぐるステキなオジサンさんだったかな。どなられたり怒られたりしたことは一度もなかったですね。『なっちゃんね、ここはこうで、こうして、思いっ切りやって』って、優しく演技指導してくれました。女性を撮るのがうまい人だったと思います。監督は物事をその時の空気感で捉えて演出していくタイプ。理屈っぽい面はなかったですね[25]」と評している。
「聖獣学園」などのキリスト教世界を舞台としたエログロ映画を撮ることでキリスト教批判を繰り返してきた鈴木であったが、逝去する2ヶ月前にカトリックの洗礼を受け、逝去後にはカトリック吉祥寺教会にて葬儀・告別式が執り行われている。
鈴木の死去に際して、関本郁夫が「もともと石井輝男監督が『異常性愛路線』をやっていて、いわゆるエログロと呼ばれてヒット作は多かった。ただ、石井監督は人使いの荒さとかいろんな問題があり、プロデューサーの判断で鈴木さんにバトンタッチした形だったね」と述べている[11]。
※太字は脚本兼任。但し全て合作。
※監督兼任作品は除く。太字以外は合作作品
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