Remove ads
日本の映画作品シリーズ ウィキペディアから
『緋牡丹博徒』シリーズ(ひぼたんばくとシリーズ)は、藤純子(富司純子)主演で、東映によって制作されたヤクザ映画シリーズ[1]。全8作[1]。東映京都撮影所製作。
藤純子の代表的シリーズとして知られる[1][2]。シリーズはつながっており、明治中頃、"緋牡丹のお竜"こと女侠客・矢野竜子が闇討ちで殺された父の仇を求めて賭場を流れ歩き第一作で仇を討ち、二作目以降は、渡世修行するために、諸国まわって義理と人情を踏みにじる不正な悪党と戦っていくという内容[1][3][4][5]。
鶴田浩二、高倉健と並ぶ任侠スターである藤純子(富司純子、以下、藤)の人気を不動のものにした任侠シリーズで[1]、全国の仁侠映画ファンの支持を得て大ヒットした[6][7]。1968年の第一作『緋牡丹博徒』から藤の結婚引退直前の1972年『緋牡丹博徒 仁義通します』まで全八作が製作された。緋牡丹の刺青を背負った女ヤクザ"緋牡丹のお竜"が、女ながら義理と人情のしがらみの中に生き、不正には身をもって立ち向かっていくというのがパターンであり、藤が片肌脱いで背中の緋牡丹の刺青を見せるシーンが見せ場となっている[8]。お竜と義兄弟の絆で結ばれた若山富三郎扮する熊虎親分が毎回コメディ・リリーフとして登場し、鶴田浩二・高倉健・菅原文太らのスターが交互に出演する。シリーズ全八作はいずれも高い水準を保っているが、加藤泰監督による第三作『緋牡丹博徒 花札勝負』、第六作『緋牡丹博徒 お竜参上』、第七作『緋牡丹博徒 お命戴きます』が特に評価が高い[7][9]。第六作『緋牡丹博徒 お竜参上』での、故郷に帰る流れ者・菅原文太にお竜がミカンを渡す雪の今戸橋のシーンは屈指の名場面とされる[6][7][10]。本シリーズが大ヒットした1968年から1969年にかけて"東映任侠映画"は頂点に達した[4]。
企画、及びタイトル命名は、当時の東映常務兼企画製作本部長・岡田茂(のち、同社社長)[8][11][12][13][14][15][16][17]。岡田は1964年から東映京都撮影所(以下、京撮)を俊藤浩滋と組んで任侠路線へ転換させたが[18]、1966年から江波杏子主演の大映映画『女賭博師シリーズ』を横目に「東映も女版の任侠映画をやらない手はない」と製作に着手した[8][13][19][20]。第1作封切り3ヵ月前の1968年6月、岡田は鈴木則文と企画事務係だった佐藤雅夫を呼び、「女剣劇物ができないか、『女狼』というタイトルで書いてみろ。女優は藤純子」と命じ、脚本に着手させた[5][13][21][22]。また「片肌脱いで刺青を見せる場面を必ず入れること」を条件につけた[13]。途中から日下部五朗が参加し、鈴木と佐藤、日下部と三名のディスカッションによってプロットが練られた[13]。
岡田は藤の父である俊藤を呼び、岡田「純子が双肌脱げば大ヒット間違いなしや」[17]、岡田「(主演は)藤純子で。いけるぞ」、俊藤「男の世界で女が出しゃばるというのは、どうかなあ。メロドラマならともかく。女はいつも男のうしろで控えめにしてるのが、やくざの世界やからな」、岡田「そやけど、初めから女の任侠ものやから、そんなことを思うやつもいないやろ。いっぺん考えてくれ」というやりとりがあったように俊藤は最初は乗り気でなかった[12][13][14][15][17]。躊躇する俊藤をよそに岡田が企画をどんどん進め[17][21]、「やっぱりあんたが(製作を)やらなくちゃおかしいよ。それじゃなければこの企画は一本で終わるよ」と説得し俊藤が渋々製作を引き受けた[12][23]。しかし俊藤は途中からだんだん入り込んでいったという[12]。鈴木則文は「岡田さんと俊藤さんがどの時点で話し合ったのか、どんな話をしたのか僕は知りません」と話している[13]。
岡田は俊藤に内緒で藤を呼び「片肌脱げるか。あんた脱げよ。そして刺青入れろ」「任侠ものの女の主演は東映では初めてだ。うちで新しい映画をやろう」と口説いたら「片肌なら脱ぎますよ」と藤が即答し[11][13]、「脱げよ。緋牡丹やろう」と答え、岡田が"緋牡丹お竜"という名前を付けたという[11][19]。藤は「入れ墨を見せるために両肌を見せるシーンがあり、『何も両肌脱ぐことはないでしょう。片肌にして下さい」と頑として譲らず、「当時の東映はお金儲けのためなら何でもやる会社で(笑)、岡田常務は『言うことを聞かない女優だな』と思っていたかもしれない」などと話している[24]。岡田が藤の主演抜擢、藤の父である俊藤の製作、鈴木則文の脚本などを決め、「タイトルそのほかも僕が全部プロデュースした」と話している[12][15]。
鈴木は1966年のマキノ雅弘監督の映画『日本大侠客』で、藤が演じた"鉄火芸者・お竜"をイメージし、愛読書だった小島政二郎の『人妻椿』のヒロイン"矢野淑子"の名前を合わせ"矢野竜子"という姓名を決めた[25]。また火の女のイメージから出身は熊本と想定し「肥後熊本は五木の生まれ、姓は矢野、名は竜子、通り名を緋牡丹のお竜と発します」というフレーズを決めた[2][26]。背中の緋牡丹の刺青であるが、岡田は著書で「もともと時代劇に『緋牡丹大名』などの緋牡丹物はいくつかあったが、『緋牡丹』に『博徒』を合わせたタイトル、そして役名"緋牡丹のお竜"を生み出したのは私である」と述べている[11]。鈴木は脚本を書き岡田に第一稿を渡した。鈴木がタイトルを、『女狼』から『女博徒緋牡丹お竜』と変更していた。岡田はタイトルをマジックで大きく紙に書き「『緋牡丹博徒』にしよう」とタイトルを決定した[2][5][13][14][19][27][28]。岡田は東映作品の題名の多くの命名者としても知られるが[27][29][30]、「『緋牡丹博徒』はタイトルが成功した。『緋牡丹』と『博徒』、タイトルの前半と後半がまったく合わない言葉を組み合わせるのがコツ。普通に考えれば合いやせんよ。それを一緒にして『緋牡丹博徒』と言うと人が目をつけるんだ。『美女と野獣』みたいなもんだよ」などと岡田は解説している[5][12][31]。1974年にブルース・リー映画が日本で大ヒットした際に、岡田は鈴木則文に「京都時代に俺とお前で作った『緋牡丹博徒』のカラテ版をつくる」と指示して志穂美悦子主演で『女必殺拳』を作ったことがある[32][注釈 1]。岡田は『緋牡丹博徒』は自身と鈴木の二人で作ったと考えている。鈴木は「緋牡丹の刺青をした女渡世人、緋牡丹のお竜という人物像を作り第一作を書いたのは私ですが、それでもたくさんの人に知恵をかしてもらっています。第5作『緋牡丹博徒 鉄火場列伝』は、ほとんど笠原和夫と山下耕作のものです。第4作『緋牡丹博徒 二代目襲名』の原作は火野葦平の『女侠一代』です」などと述べている[33]。俊藤は娘の初主役を引きたてるため、相手役を高倉健に頼み、ワルに大木実、脇のお笑い担当に若山富三郎など回りのキャストを決めた、また江波杏子の『女賭博師シリーズ』は、壺振りの話であったが、藤には手本引をさせた、博奕のシーンでは本物のやくざに来てもらい指導を仰ぎ、博奕のお客になって張ってもらった、だから殺気がみなぎる、本格的な画を撮ることができた、しかもそれを女がやる、そういうことが物凄い人気になったんだろう、などと述べている[34]。
※三作目から
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.