知日派(ちにちは)あるいは知日家(ちにちか)とは、日本の社会・文化などに対して深い理解を持つ言動を行う外国人を指す言葉である。日本文化を愛好する「親日」とは一般に区別され、対日強硬派の知日家もありうる。
また、特に国際政治において、日本政府の手法を知り尽くした政権スタッフやタフ・ネゴシエーター(手強い交渉人)、ジャパンハンドラー(日本を飼い馴らした人物。特にアメリカでの用法)を指すことが多い。この意味での知日派の代表としてリチャード・アーミテージ、マイケル・グリーン、ジョセフ・ナイ、カート・キャンベルらがあげられる。
中国や韓国でも用いられる語句であるが、特に韓国の場合には「親日派(チニルパ)」が売国奴と同義になるため、「知日派」が用いられる(詳しくは当該ページを参照のこと)。政治とは無関係に日本文化に熱中する人々は中国・台湾では「哈日族」、韓国ではやや軽蔑的に「イルパ」[1]と呼ばれる。
このページでは「親日家」もまとめて記載する。
物故済みの、歴史上の人物も含む。
アジア・ユーラシア
韓国
- 朴正煕
- 韓国の軍人・政治家、第5〜9代大韓民国大統領として軍事独裁政権を主導。日本の陸軍士官学校を卒業し、満州国軍人になった経歴がある(日本陸軍の経歴はない)。当時の通名は“高木正雄”。大統領としては、日韓基本条約を結び、日本との国交を回復。韓国が「日本に学び、強国になる」ことを目指した。プライベートでは日本統治時代を評価するなど、韓国の要人としては異例な発言も伝わる。一方で反日的な愛国教育を推進するなどもしており、自身が在日韓国人に襲撃され陸英修夫人が殺害された際(文世光事件)には「日本は赤化工作の基地となっている」と怒りを露わにした。
- 金大中
- 韓国の政治家、第15代韓国大統領。朴正煕の政敵であったが、彼もまた日本との関係が深く、朴政権によるテロを逃れて、1972年から1985年まで日本やアメリカで活動を行った。朴政権下のKCIAにより、日本のホテルから拉致監禁されたこともある(金大中事件)。大統領としては日本文化の自由化を進め、日本の常任理事国入りに対する韓国の支持を求めたこともある。
- 金玉均
- 朴鉄柱
- 「日本上代文化の研究」「帰化文化の研究」「日本の信仰、道徳等精神文化の研究」を研究主題とするシンクタンク機関韓日文化研究協会を設立。
- 池明観
- 日本女子大学で20年教鞭を執り、日韓文化交流会議韓国側座長を務めた。韓国における軍事独裁政権批判でも知られ、「T・K生」の名で『韓国からの通信』を書いたことを告白。
- 金鍾泌
- 韓国元首相。長く日韓議員連盟役員をつとめ日韓ロビーの韓国側ロビーを務めるなど対日融和に努めた。学生時代に日本留学を希望し読書家で菊池寛等日本文学にも造詣があった、韓国の政治家としては稀有な知日派であった。日韓基本条約締結の際には自ら「現代の李完用になる。」として激しい反対運動と対峙した。金大中事件の際には韓国政府を代表し日本政府側に謝罪したため韓国の一部から「日本に謝るとは何事か。」と批判を浴びた。引退後には「日本が好きな私」と発言した事もある。非公式な日本関係者との懇談では流暢な日本語を披露したという。
- 全斗煥
- 韓国10、11代元大統領。軍事独裁政権の権力者として民主化運動を弾圧したため、韓国国民、特に左派からの評判は悪かったが光復節の演説では「日本帝国主義を責めるだけではなく、我々の責任を顧みるべきだ」と発言するなど行き過ぎた反日運動に歯止めを呼びかけた。また1983年に韓国大統領として初めて公式来日し、昭和天皇と会談した。日本の政財界とのパイプも深く、特に瀬島龍三とは若手将校時代から親しく、ソウルオリンピック開催を巡り援助があったという説もある。1985年に中曽根康弘が靖国神社参拝をした際には、強い抗議をせず、韓国内部から弱腰と批判されている。
- 呉善花 (オ・ソンファ / 오선화)
- 韓国出身の日本評論家。1983年に日本の大東文化大学に留学し、以降知日派となる。1991年に日本に帰化。著書に『「日帝」だけでは歴史は語れない』『「反日韓国」に未来はない』などがあり、対立する日韓の歴史問題について、主に韓国の側を批判している。
- 崔基鎬
- 宣銅烈 (ソン・ドンヨル / 선동열)
- 韓国、日本で活躍した元プロ野球選手・元監督。ヘテ・タイガース(現・起亜タイガース)で、155km/h前後の速球と2種類の高速スライダーと制球力で抜群の成績をあげた。後に日本球界入り、中日ドラゴンズに入団し好成績を残した。元三星ライオンズ・起亜タイガースの監督であり、2017年から2018年まで韓国の代表監督も務めた。韓国のエースと呼ばれながら現役時代から尊大なところがなく、人間関係も良好で、日本球界を中心に多くの人脈を持つ。流暢な日本語を操り、日本の高校野球のファンでもあり、プロ野球マスターズリーグにも参加するなど知日家として知られる。
- 白眞勲
- 元・日本駐在のジャーナリストで2003年に帰化。前参議院議員。
中華民国(台湾)
- 蔣介石
- 日本の陸軍士官学校の出で、日本語にも堪能であった。戦後処理の相談をフランクリン・ルーズベルトに持ちかけられるなど、連合国軍首脳随一の知日派として知られた。日中戦争では当初は国共内戦での勝利を優先していたが、中途から徹底抗戦に転じ、対日協力者の粛清など強硬戦略を敷いて、連合国の一員として日本に対し勝利した。戦後は「徳を以って恨みに報ず」という声明を出し、復員を円滑に進め、日本における親華派・親台派の形成に寄与した。台湾での独裁政権時では、知識階級を大量虐殺し、日本語の使用を完全に禁止するなど日本色の一掃を図ったため台湾の本省人には評価が低いが、総統代理として息子の蔣経国を明治神宮へ公式参拝させるなど、日本と良い関係を維持した。
- 李登輝
- 日本統治時代に教育を受けた世代(日本語世代)の代表格といえる人物。太平洋戦争では日本軍で高射砲を扱っていた。彼は4つの言語に堪能であり、日本語、台湾語(閩南語)、英語、国語(北京語)の順に得意とされる。自らを「半日本人」と言ってはばからず、新渡戸稲造の『武士道』の研究、靖国神社参拝の全面支持や台湾における日本の植民地政策を高く評価するなどし、日本の保守系のメディアに登場することが多い。一方、前総統という立場にありながら過度に親日であるとして、台湾や中国では売国奴と罵られることがある。
- 謝長廷
- 李登輝と同じく京都大学への留学歴があり、対日関係を重視していることから知日派といわれる[2][3]。
日本では知日派と交流を持つなどして国益に繋げようとする動きも見られる。
2015年、安倍晋三首相は訪米先のマサチューセッツ工科大学 (MIT) で、MIT・コロンビア大学・ジョージタウン大学の3大学にそれぞれ500万ドルの支援をすることを表明した。日本の政治・外交の研究を支援することで知日派の育成に繋げる狙いがあるとされる[4][5]。
同年9月、日本政府は「知日派・親日派リスト」を作成し省庁横断で共有することを決定した[6]。
- 中田安彦・副島隆彦『ジャパン・ハンドラーズ―日本を操るアメリカの政治家・官僚・知識人たち』(日本文芸社)