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日本の戦国~江戸時代の武将、大名、初代忠勝系本多家当主 ウィキペディアから
本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎(へいはちろう)。
本多忠勝像、良玄寺蔵 | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文17年2月8日(1548年3月17日) |
死没 | 慶長15年10月18日(1610年12月3日) |
改名 | 鍋之助(幼名)[1]→忠勝 |
別名 |
平八郎(通称)[1] 渾名:三河の鹿 |
戒名 | 西岸寺殿前中書長誉良信大居士 |
墓所 |
浄土寺(三重県桑名市) 圓教寺(兵庫県姫路市) 良玄寺(千葉県夷隅郡大多喜町) |
官位 | 従五位下・中務大輔 |
主君 | 徳川家康 |
藩 | 上総大多喜藩主→伊勢桑名藩主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多忠高、母:小夜(植村氏義娘) |
兄弟 |
妹:栄子姫(長束正家室) 異父妹:女(中根忠実室) |
妻 |
正室:於久の方(阿知和玄鉄娘・見星院) 側室:乙女の方(松下弥一娘・月量院) |
子 | 小松姫(真田信之正室)、もり姫(奥平家昌正室)、忠政、忠朝、女(本多信之室)、女(松下重綱室)、女(蒲生瀬兵衛室) |
天文17年(1548年)、安祥松平家(徳川本家)の最古参の譜代である安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として[1][2]、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた[3]。
天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する[1]。このとき、同時に元服した[4]。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆に徳川方として参戦している[5]。
忠勝が一次史料に現れるのは、永禄11年(1568年)の祝田新六に宛てて出された、家康の書状に対する副状である[6]。忠勝は新六の働きを褒め、懸命に取り成すので褒美のことは自分に任せてほしいと伝えている。この時期から家康への他の国衆の取次役を担っていたことが分かる。
今川義元が敗死し、家康が今川家から独立し、織田信長との清洲同盟締結後、忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦した。永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして旗本先手役に抜擢されて、与力54騎を付属される[7]。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。この戦いにおいて忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せた。
元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いでは偵察隊として先行し、武田本軍と遭遇。報告するために撤退するが、武田軍に追撃され、大久保忠佐と共に殿軍を務め、坂下という不利な地形に陣取り、馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康率いる本隊を逃がし撤退戦を無事に完了させた。この時に忠勝が着ていたのが鹿角の兜に黒糸威の鎧であった[7][注釈 1]。 同年12月の三方ヶ原の戦いでは左翼を担い、山県昌景隊と戦い、撃退している。天正元年(1573年)の長篠城攻めでは9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破り、獲得した長篠城に入り、城を守っている。天正3年(1575年)の長篠の戦い[4]、天正8年(1580年)の高天神城奪還戦にも参戦している。これらの合戦における忠勝の活躍は敵味方を問わずに賞賛され、家康からは「まことに我が家の良将なり」と激賞され、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」と忠勝を詠んだ川柳もある[8]。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという[9]。この時、帰路の途中の木津川で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだという[10]。
天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初忠勝は留守を任されたのだが、豊臣方16万の大軍の前に徳川軍が苦戦して崩れかけていることを聞き、忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたが、この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい戦機は去った[8]。この豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛された[11]。また、織田信雄にも賞され、法成寺という刀を賜った。徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると天正14年(1586年)11月9日(天正16年(1588年)4月とも[12])、従五位下・中務大輔に叙位・任官された[13]。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国夷隅郡大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の12万石)を与えられる[1]。江戸から遠くなっているのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、家康の配置方針による。康政は北の真田氏や上杉氏に対する備え、忠勝は安房国の里見氏に対する備えである[14]。また川村優は里見氏に対する備えとみたうえで、上総国内の里見系・北条系国人層を分断、制圧する絶好の位置で、久留里・佐貫との連携プレーをする位置で上総国内の有力国人層の制圧が目的と分析している[15][16]。ただし、近年の研究では大多喜城が居城に定められたのは、天正19年(1591年)初頭ごろで、それまでの半年ほどの間は家康ではなく、秀吉の承認を経て同じ夷隅郡の万喜城(現在のいすみ市)を居城にしていたとされている[注釈 2][17][18][19]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初上田城攻略における対真田交渉を期待されていたが、途中東海道を進発することになり、東山道の徳川秀忠隊を離れ、対真田交渉は嫡男の忠政に引き継がれている[20]。また忠勝自身も加藤貞泰との交渉において活躍をしている[20]。前哨戦ともいえる竹ヶ鼻城攻めや岐阜城攻めに参戦し、また石田三成重臣・島左近に敗れた中村一栄隊と有馬豊氏隊の撤退の手助け、吉川広家など諸大名に井伊直政と連署の書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。本戦でも奮戦し、わずかな手勢で90にも及ぶ首級を挙げた。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石[21]に移されると、旧領・大多喜は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた[4][21]。これは一説に家康が忠勝に対してさらに5万石を増領しようとしたが、忠勝が固辞したために家康が次男に与えたとされている[22]。一方で、関ヶ原合戦後に忠勝は一国が与えられることを望み、家臣へ与える知行の目録まで作成して待っていたが叶えられず、訪れた阿部正次にこの話をした後に目録を焼いたとされる。
忠勝は桑名藩の藩政を確立するため、直ちに城郭を修築し、慶長の町割りを断行し、東海道宿場の整備を行い、桑名藩創設の名君と仰がれている。晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭し[14]、忠勝自身も慶長9年(1604年)頃から病にかかるようになり、江戸幕府の中枢からは遠ざかっている。
慶長9年に先述のように病にかかり隠居を申し出るも、この際は家康に慰留されている。その後、慶長12年には眼病を煩い、慶長14年(1609年)6月、嫡男・忠政に家督を譲って隠居する[23]。慶長15年(1610年)閏2月には三河国田原で徳川秀忠が挙行した大規模な巻狩に同行した。同年10月18日に桑名で死去した[24]。享年63。この際に重臣の中根忠実と梶勝忠両名が殉死し、忠勝の左右に埋葬された[12]。忠勝は臨終に際して「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」という言葉を遺している[12][25]。
遺書の一節「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」と、辞世の歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」は、晩年は不遇であったとされながらも、主君・家康への変わらぬ忠誠心の大きさを物語っている。
水戸藩主徳川斉昭、15代将軍徳川慶喜らは忠政の末裔に当たり、経済学者の三木谷良一や、その次男である楽天グループ創業者の三木谷浩史も子孫にあたる(それぞれ本多忠明の曾孫、玄孫)[33][34][35]。
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