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三重県志摩市の地名 ウィキペディアから
志摩町越賀(しまちょうこしか)は、三重県志摩市の大字[1]。2004年1月1日現在の面積は4.18km2[2]。郵便番号は517-0704[WEB 2](集配局:志摩郵便局[WEB 4])。
隣接する地区では漁業を主業とする一方、越賀は農業も盛んであり、越賀茶や「きんこ」と呼ばれるサツマイモを干した食品の生産が行われる[WEB 5]。
志摩市の南部、前島半島(さきしまはんとう)の西部に位置する。北側(内海)と南側(外洋)が海に面し、南側に漁港と海水浴場を有する。北側は越賀浦と言い、真珠養殖が行われるとともに、外洋が荒れた時に避難港の役割を果たす[WEB 5]。内陸部は高台になっており、畑作が盛んである[WEB 5]。『角川日本地名大辞典』では「半農半漁の地域」とされ[3]、高木秀和は「熊野灘に面したこれら[注 1]の集落では農業のウエイトは全体的に低いといえるが、志摩町越賀のみ例外的に高い」としている[4]。
東は志摩町和具、西は志摩町御座と接する。集落は主に南部に集まり、中田・高岡・若宮などに分かれる[5]。ただし、自然条件が似通った和具と比べれば1軒あたりの屋敷は広い[6]。
越賀北部の小字柳谷にある柳谷遺跡では縄文時代の遺物が大量に出土しており、縄文土器に関しては関東地方や瀬戸内地方の土器と共通する特徴があることから、沿岸を伝っての交流があったことが推察される[7]。また、この遺跡の周囲600mには縄文時代の遺跡がほかに3つ集まっており、越賀南部でも縄文時代後期の阿津里(あづり)貝塚が確認されている[7]。南部では古墳時代後期の全16基の円墳群である野里浜(のりはま)古墳群、全10基の野里ノ岬(のりのみさき)古墳群、全7基の布浜(めはま)古墳群が確認されている[7]。このように1地域に古墳が集中するのは、志摩半島では珍しい[7]。
平安時代末期の『外記日記』の仁平2年6月26日(ユリウス暦:1152年7月29日)条に「裁定申各神宮司言上為越賀荘押妨神領事」の文字があり、また『玉葉』の承安2年11月1日(ユリウス暦:1172年11月18日)条には「越賀御厨事、同以消息遣親宗許了」の文字が見られ、越賀荘と越賀御厨の間に争いがあったことが窺える[5]。また『神鳳鈔』にも「越賀」の字がある[8]。
応永年間(1394年〜1428年)に越賀の地にやってきた越賀氏(佐治氏とも)は、初代・越賀隼人の隆俊が城山に越賀城を構え、九鬼水軍の攻略に3年間耐えしのいだが九鬼嘉隆と和睦し、九鬼氏に仕えた[9]。息子で2代の隆政は文禄の役で武功を挙げ、御座や鵜方など1800石の所領を得、関ヶ原の戦いでは東軍に味方した九鬼守隆に従い、そこでも手柄を上げた[9]。その長男で3代の隆春は、11歳にして大坂夏の陣に臨んで活躍し、九鬼氏が移封となった際には九鬼隆季に従い丹波国綾部藩に移った[9]。隆春の弟である隆次は九鬼久隆に付き従って、摂津国三田藩へ移った[9]。
江戸時代には志摩国英虞郡鵜方組に属し、鳥羽藩の配下にあった。越賀の港は志州四箇津の1つとして栄え、東風のため大王崎沖を通れない船の避難港となった[8]。村内の八幡宮の石垣の修繕には越後国や淡路国など遠方の船頭らからも寄進がなされた[5]。漁業も行われ、鯛6枚を献上したほか、カツオ・エビ・イワシ・アワビなどを獲っていた[8]。また夕方に越賀を出港し、翌朝尾張国熱田の朝市に届ける「ノリツケ」を行っていた[8]。伊勢国山田へ魚を届ける時は、夜中に起床して英虞湾を渡り鵜方村に上陸し、磯部を経由して逢坂峠を越えて[注 2]夜通し駆ける「徒荷持」(かちにもち)を行った[10]。農業の生産性が低く[注 3]、漁業はできるが市場が遠かったため、江戸時代から出稼ぎが行われ、志摩国鳥羽のほか伊勢国山田・大湊・松坂、更に尾張・三河・美濃・紀伊・大坂天満まで出て大工・イワシ漁・稲刈り・海士などの仕事に従事した[12]。米の生産量が少なかったため、年貢は米納ではなく金納が多く、天保15年(1844年)の記録では年貢564俵のうちおよそ26%に相当する147俵分が金納であった[13]。
安政元年11月4日(1854年12月23日)、安政東海地震に伴う津波が襲来、溺死者3名を出し、家屋など39棟が流され、田畑にも砂が流入するなどの被害をもたらした[14]。幕末には砲台が築かれ、岩井戸岬に跡が残る[5]。
明治時代になると、小規模ながらアイ・綿花の栽培や養蚕が始まるも、それぞれ1902年(明治35年)、終戦頃、1935年(昭和10年)代に途絶えた[15]。1879年(明治12年)に隣の御座村を吸収したが[16]、1889年(明治22年)の町村制施行により御座が分離した[17]ため単独で越賀村として村制を敷き、1954年(昭和29年)に昭和の大合併で志摩町の大字、2004年(平成16年)に平成の大合併で志摩市の大字となった。
1887年(明治20年)7月、消防や公共事業などに携わってきた「若者中」から発展して「越賀青年会」が発足、途中「越賀組」に改名したのちに1912年(明治45年)2月に「越賀青年団」となった[18]。同青年団は、15〜35歳の男性を団員とし、道徳の涵養(かんよう)、「夜学部」などでの学術知識の研修、体育、農業の発展のための品評会・試作といった事業を展開した[19]。一方で15〜30歳を対象とした「越賀共制社」という組織もあり、遭難者の救助や祭典の任務にあたった[20]。これら若者を対象とした2団体の並存状態について、宮前耕史はともに風俗改良・悪習矯正を掲げながらも「青年会」は学術研究を主とした私的な団体、「共制社」は共同体の利害に関わる公的な団体と言える、としている[21]。また当時、「遊屋」という女性のための夜業の場があったが、そこには男性が出かけて行き、男女交際の場ともなっていた[22]。そして夜業を終えると空き家に侵入し、性的な関係を結ぶ行為が常態化していたという[23]。その現状を憂い、越賀の風儀矯正を目的とした「越賀崇徳会」は、男性向けの夜業の場を設けて男女とも「遊屋」への宿泊を義務付け、村の青年社会にふさわしくないものを村八分にすることを主張した[24]。この「崇徳会」の意見がどの程度受け入れられたかは不明であるが、大正時代初期には青年団長により「遊屋」は廃止された[25]。
1893年(明治25年)には越賀村の海女が寒天の原料・テングサを求め、北海道の礼文島へ出稼ぎに出かけた[WEB 6]。その後、1920年代まで海女は礼文島や利尻島へ毎年出稼ぎへ行くようになり、中には出稼ぎ先で結婚する海女もいた[WEB 6]。大正時代より越賀村では天然真珠の採取が行われ、1926年(昭和元年)には真珠養殖が始まった[26]。1960年代には養殖規模で東隣の和具に3倍の差を付けられたが、生産高は和具と同程度だった[26]。
第二次世界大戦後、真珠加工場建設のために整地中、柳谷遺跡が発見された[7]。また、1953年(昭和28年)の台風13号復旧工事で野里浜古墳群から弥生時代の遺物が、1968年(昭和43年)6月の分譲別荘地開発の際は野里浜古墳群1号墳から土師器や須恵器が出土した[7]。1950年代には畜産が盛んになり、果樹・茶などの栽培も始まった[26]。
中村精貮は以下のような説明をしている[27]。
2019年(令和元年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 1]。
1746年以降の人口の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。 国勢調査による人口の推移。
1746年(延享3年) | 710人 | [5] | |
1844年(天保15年) | 1,135人 | [29] | |
1868年(慶応4年) | 1,211人 | [29] | |
1908年(明治41年) | 2,033人 | [29] | |
1960年(昭和3年) | 2,880人 | [30] | |
1980年(昭和55年) | 2,484人 | [3] | |
2000年(平成12年) | 2,159人 | [30] | |
2005年(平成17年) | 1,992人 | [WEB 7] | |
2010年(平成22年) | 1,812人 | [WEB 8] | |
2015年(平成27年) | 1,566人 | [WEB 9] |
1746年以降の世帯数の推移。なお、2005年以後は国勢調査による推移。
1746年(延享3年) | 154戸 | [5] | |
1844年(天保15年) | 203戸 | [29] | |
1868年(慶応4年) | 205戸 | [29] | |
1908年(明治41年) | 335戸 | [29] | |
1960年(昭和35年) | 530世帯 | [30] | |
1980年(昭和55年) | 675世帯 | [3] | |
2000年(平成12年) | 712世帯 | [30] | |
2005年(平成17年) | 708世帯 | [WEB 7] | |
2010年(平成22年) | 687世帯 | [WEB 8] | |
2015年(平成27年) | 646世帯 | [WEB 9] |
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[WEB 10]。
番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 志摩市立志摩小学校 | 志摩市立志摩中学校 |
越賀茶(こしかちゃ)は、三重県志摩市志摩町越賀で生産される日本茶。伊勢茶の1つでもある。栽培品種は「やぶきた」と在来種の「やえほう」が中心で[WEB 12]、ほどよい渋みと甘みを有する[31]。温暖な気候のため、三重県の他の地域に先んじて茶摘みが行われるが、2011年(平成23年)は例年より10日遅い4月24日から茶摘みが始まった[31]。
2011年(平成23年)現在、約100戸の生産農家が計3haの農地で茶を栽培し、約7t収穫している[31]。栽培には「周囲園」と呼ばれる、他の作物畑を囲むように茶の木を植える方法を採用し、土壌流失を防いでいる[31]。
越賀漁港(こしかぎょこう)は、三重県志摩市志摩町越賀の熊野灘沿岸にある第1種漁港。志摩市が管理している[32][WEB 13]。1952年(昭和27年)から漁港認定に向けて3か年計画を立て、翌1953年(昭和28年)3月5日に漁港認定を受けた[WEB 13]。しかし、同年の台風13号で被災し計画通りにはいかず、最小限の施設として船揚斜路が設けられた[WEB 13]。
細萱泉らが地理情報システム(GIS)を用いて南海トラフを震源とするマグニチュード8クラスの東南海・南海地震が発生した場合の津波をシミュレートしたところ、越賀漁港には地震発生から10分後に9.5mの津波が押し寄せるという結果が得られた[33]。
越賀では、海女によるサザエ・アワビ、漁師によるエビ刺し網漁、アジ・サバ定置網漁といった沿岸漁業が盛んである[3]。2009年(平成21年)の陸揚量は135.6t、陸揚金額は128百万円である[WEB 13]。越賀漁業協同組合は、平成に入ってから活発化した三重県内各地の漁業協同組合の合併に加わらず、単独経営を続けてきたが、2010年(平成22年)3月31日をもって解散した[WEB 14]。
昔、越賀村に三右衛門婆(さんよむばば)という老女がおり、子供を見ればかわいがり、「食べてやりたいほどかわいい」と口癖のように言っていた[10]。孫ができた時、非常にかわいがり、ついには赤ちゃんに食らいついて死なせてしまった[10]。赤ちゃんの親が戻ってくると婆は「布団で寝ている」と話し、布団をめくると赤ちゃんは血まみれになっていたという[10]。
婆が死んだ時、葬式を行ったが風雨が激しく墓に埋葬できなかった[37]。そこで棺桶を放置しておくと、いつの間にか棺桶の中が空になっていたという[38]。異説では埋葬しようとすると雲が下りてきて、人々が慌てているうちに雲が婆の亡骸を抱えて天に連れて行ったという[38]。
その後、三右衛門爺が大坂へ出かけると、「三右衛門騒動」という芝居を上演していた[38]。「自分のことをやっているな」と思った爺がのぞいてみると予想通り、三右衛門婆が孫を食い殺してしまった物語を演じており、爺はこの芝居を鑑賞して帰ってきた[38]。
この伝説は、後世に「23日のサンヨム婆」といい、子供を脅すのに多用された[38]。
鉄道は通っていない。最寄り駅は、陸路なら阿児町鵜方にある近鉄志摩線鵜方駅、志摩町和具から海路を利用すれば阿児町神明賢島にある同線賢島駅となる。
越賀は江戸時代に「ホトケムラ」(仏村)と呼ばれたほど仏教が篤く信仰され、明治初期の神仏分離で神道への改宗を強要された後に村人の尽力で仏教勢力の復興を果たした[40]。
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