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脚本家 ウィキペディアから
小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日 - 1996年(平成8年)2月5日)は、日本の脚本家、映画監督。青森県八戸市出身。
青森県八戸市柏崎新町の母の実家玉内家で誕生。旧制八戸中学校(現・青森県立八戸高等学校)時代に同郷の友、松下正寿の兄・正臣の影響で武者小路実篤の作品に傾倒し、小説を実篤に送るなど文学に目覚めた。実篤の勧めで日本バプテスト神学校(現・関東学院大学)に進学し卒業[1]。白樺派の影響を受け、実篤主宰の新しき村に参加する。関東大震災に遭遇し帰郷するも、「大震災救援」のための演劇活動に精力を注いだ。
1929年(昭和4年)に実篤の紹介で日活太秦撮影所に助監督として入社。その後、脚本部に転属する。主に阿部豊のもとで脚本を書く。1933年(昭和8年)に『モダンマダム行状記録』でデビューする。
この後、日活多摩川撮影所を経て、東宝へ入社。それ以後は注文が多く入るようになり、特に喜劇のシナリオを多く書いた。 この頃の代表作に『エノケンの法界坊』、『エノケンの頑張り戦術』などがある。一時期、本城 英太郎の名で原作・脚本を手掛けたこともあった。
1939年(昭和14年)、音楽映画『ロッパ歌の都へ行く』、『金語楼の親爺三重奏』の二作品で監督。
以後は娯楽作品の脚本に専念、ドル箱脚本家として活躍する。戦中にはマキノ正博監督の映画脚本を担当したほか、戦後は黒澤明の脚本チームのまとめ役になるなど脚本界でも重要な位置を占め、のちフリーランスとなる。
1952年(昭和27年)、黒澤明から新作『生きる』の脚本の依頼を受ける。この作品は、死期迫るガン患者を深い人間愛で見つめた傑作として評価され、その年の映画賞をすべて独占するとともに、脚本家・小国の名を有名にした。『生きる』をきっかけとし、それ以後、黒澤映画の全盛期に次々と制作された傑作のほとんど全てに脚本家として参加し、日本映画史に燦然と輝く作品を支えた。
1966年(昭和41年)、TV番組制作会社C.A.Lの役員に就任。
主な作品に『あなたと呼べば』、『支那の夜』、『次郎長三国志』、『七人の侍』、『銭形平次捕物控』、『四谷怪談』、『赤穂浪士』、『赤ひげ』、『トラ・トラ・トラ!』、『乱』などがあり、生涯手掛けた映画は300本を数える。
時代劇映画の脚本も多数手掛けるが、「チャンバラっていうのは結局、踊りだと思う」、「時代劇は虚構の事実」と語っている[3]。
黒澤明作品では、脚本の競作において、裁判官(ジャッジ)の役目を担っていた。黒澤もその眼力の高さを買っていた。『生きる』において、主人公が途中で亡くなり、その葬儀がクライマックスになる展開を考えついたのは小国の功績である。
「日本一脚本料の高い脚本家」として知られていた。100万円で一軒家を買えた時代に、小国の脚本は一本につき50万円したという。
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