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日本の大学野球チーム ウィキペディアから
亜細亜大学硬式野球部(あじあだいがくこうしきやきゅうぶ、英: Asia University Baseball Club)は、東都大学野球連盟に所属する大学野球チーム。亜細亜大学の学生によって構成されている。ユニフォームは縦縞に「ASIA」、帽子は「A」と「U」の組み文字。
生田勉(元監督) | |
加盟団体 | 東都大学野球連盟 |
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本拠地 | 東京都西多摩郡日の出町平井1449-1 |
創部 | 1958年 |
監督 | 正村公弘 |
公式サイト | 亜細亜大学硬式野球部 |
リーグ戦成績 | |
リーグ成績 | 1部リーグ優勝 27回 |
全日本大学野球選手権大会 | |
出場回数 | 14回 |
最高成績 | 優勝5回 |
明治神宮野球大会 | |
出場回数 | 11回 |
最高成績 | 優勝5回 |
1959年9月、東都大学リーグの準加盟リーグ(後の4部リーグ戦)に加盟し、同年秋の準加盟リーグ戦は日本体育大に次ぐ2位となる。翌1960年春、準加盟1部リーグ戦で優勝し、入替戦で東京教育大を下し東都大学リーグ3部昇格。同年秋の3部リーグ戦は成蹊大に次ぐ2位。翌1961年、生原昭宏(早大OB)が監督就任。同年春の3部リーグ戦は4位だったが秋に優勝し、入替戦で成蹊大を下し翌1962年春に2部昇格。
1964年春、入替戦で国学院大を下し同年秋に1部昇格。以降、1994年秋まで降格することなく1部に定着した。
1966年秋、矢野祐弘監督(立大中退)が率いて2年目、最上級生の主将岩本紘一や東山親雄捕手、2年下のエース森永悦弘と西尾敏征両投手(共に通算17勝9敗、69年卒)、東都の元本塁打記録20本保持者大橋穣や内田俊雄(のち亜大監督)らを擁して、東都大学リーグ初優勝を飾る。翌1967年秋に2回目のリーグ優勝を果たす。
1971年春、山本和行投手(通算33勝〈亜大歴代3位〉26敗、72年卒)を擁して3回目のリーグ優勝を果たした。続く全日本大学選手権(第20回大会)に初出場し、準決勝で前年優勝校の中京大を8-2、決勝で横山晴久と3年池田信夫両投手擁する法政大を7-4で下し選手権初制覇。同年秋はリーグ戦4位ながら第2回明治神宮野球大会に招待され、秋季リーグ優勝の鈴木博識投手らを擁する日本大との春秋の東都優勝チーム同士の決勝戦となったが1-3で敗れ準優勝に終わった。1970年代は駒沢大が無双ぶりを発揮し、中央大が強くさらに東洋大が躍進しはじめるなか、主戦小林達也(通算20勝15敗、76年卒)や黒紙義弘(通算12勝11敗、77年卒)と竹桝和也(77年卒)、1年下の矢野隆司(通算10勝17敗、78年卒)と高橋周司(通算11勝6敗、78年卒)らの投手陣、主軸に古屋英夫らを擁するも、亜細亜大はなかなかリーグ上位を窺うことができなかった。
1978年、矢野祐弘が総監督になり、OBの内田俊雄が監督就任。小松義昌(12勝16敗、80年卒)や宮本賢治(通算35勝〈下記東浜巨と同数の亜大歴代1位〉18敗、82年卒)らの投手陣が活躍し、翌翌1980年秋に3年宮本投手や4年大石大二郎らを擁してリーグ優勝。翌1981年春も宮本投手の力投でリーグ戦連覇を果たした。80年秋の第11回明治神宮野球大会では準決勝で関東学院大を4-1、決勝で石田富士男と白武佳久両3年生投手擁する日本体育大に2-4で敗れ準優勝。81年春の第30回全日本大学野球選手権大会では準決勝で近畿大に2-10で大敗した。この1980年代は駒大が依然強いなか、東洋大が強くさらに80年代半ばからは青山学院大が躍進しはじめた。亜大もこの時期、駒大・東洋大と共に3強の一角に数え上げられ、1984年春に3年三原昇(通算15勝11敗、86年卒)や2年阿波野秀幸(通算32勝18敗、87年卒)両投手、3年生の4番古川慎一らを擁して優勝。続く第33回全日本大学野球選手権大会準決勝で近畿大を2-0、決勝で3年西川佳明と秦真司のバッテリー擁する法政大戦では法政2年山本貴にサヨナラ本塁打を喫し3-6(延長11回)で敗れ準優勝。それ以降も、1番鈴木慶裕、3番パンチ佐藤、4番古川の強力打線に、下級生北口正光や中本浩、生田勉捕手(のち亜大監督。3人共に89年卒)らが加わり、エース阿波野のほか与田剛(通算1勝、88年卒)や森昌彦(通算1勝、88年卒)、弓長起浩(通算3勝3敗、90年卒)らの投手陣を擁しつつもリーグ戦でなかなか勝ちきれなかった。
1990年、エース小池秀郎(通算28勝14敗)、高津臣吾(通算11勝15敗)、川尻哲郎(通算4勝1敗)ら4年生の3枚看板投手を擁しリーグ戦春秋連覇。続く第39回全日本大学野球選手権大会準々決勝で4年水尾嘉孝投手の福井工業大を3-2、準決勝で創価大を3-0、決勝で小坂勝仁投手と矢野燿大らを擁する東北福祉大を小池の力投により2-1で下し優勝。同年秋の第21回明治神宮野球大会では準決勝で、エース杉浦正則や3年生片岡篤史擁する同志社大に小池温存高津先発により3-4で惜敗した。1990年代以降、入来祐作投手(通算23勝21敗、95年卒)、沖原佳典、部坂俊之投手(通算14勝10敗、97年卒)、中野栄一捕手らが活躍した。入来らが最上級生だった1994年秋の入替戦で4年西口文也投手擁する立正大に敗れ、64年秋に1部昇格以来初の2部への降格を経験したが、翌1995年春に3年生部坂らが活躍し入替戦で国士舘大を下し同年秋に1部に復帰。90年代半ば以降、飯塚智広・井端弘和・1学年下の赤星憲広や豊田浩之捕手ら小柄で俊足巧打攻守の内外野陣や2学年下の大型の松本奉文らの打撃陣、佐藤宏志(通算23勝12敗、00年卒)と中須賀諭(通算10勝9敗、00年卒)両投手、松井光介(通算10勝6敗、01年卒)と吉川昌宏(通算9勝2敗、01年卒)両投手、松井吉川の2学年下の木佐貫洋投手(通算12勝8敗、03年卒)や小山良男捕手らが在籍した。この時代以降、駒大や東洋大などを尻目に、青学大とリーグの覇のみならず全国大会優勝の覇を競った。
1996年、4年生エース部坂投手らを擁して第27回明治神宮野球大会初戦2回戦で新興東亜大に0-1で敗退。翌1997年、4年生エース小池俊児や2年佐藤宏志らの投手陣を擁して第46回全日本大学選手権準々決勝で東農大生産学部に6-5(延長10回)で辛勝、準決勝で関東学院大を2-0で破り、決勝で清水章夫投手や3年二岡智宏擁する近大に0-2で敗れ準優勝。翌1998年、3年佐藤投手らを擁して第47回全日本大学選手権準々決勝で龍谷大に3-5で敗退。同年秋、第29回明治神宮大会初戦2回戦で東亜大を6-4、準決勝で二岡らの近大を7-1、決勝で東北福祉を2-1で下し優勝。翌翌2000年、4年の松井と吉川、2年木佐貫洋らの投手陣を擁して第49回全日本大学選手権準々決勝で青森大を5-4、準決勝で4年山村路直と2年新垣渚両投手擁する九州共立大を2-0(延長10回)、決勝で東北福祉を5-4で下し優勝。 翌翌2002年、第51回全日本大学選手権準々決勝で東北福祉を10-0(6回コールド)、準決勝で九州共立を3-0、決勝で木佐貫と同期4年和田毅投手擁する早稲田大を2x-1で下し優勝。同年秋、第33回明治神宮大会準決勝で九州国際大を1-0、決勝で早大を破り勝ち上がってきた東北福祉を5-3で下し優勝。木佐貫洋と永川勝浩(通算5勝4敗)両投手卒業後の翌2003年、反頭一臣と片山純一両投手や川本良平捕手ら3年生、2年松田宣浩らを擁して、第52回全日本大学選手権準々決勝で2年竹林俊行投手擁する東亜大を6-4、準決勝で4年馬原孝浩投手擁する九州共立を5-2で破り、決勝で早大・東北福祉を破り勝ち上がってきた日本文理大の4年吉川輝昭ら7人の投手リレーの前に3-×4で敗れ準優勝に終わった[1]。同年秋は3年山岸穣投手らの青学大がリーグ優勝。翌2004年は春は日大、秋は中大がリーグ優勝した。
この26年間にわたる内田俊雄監督の下で、13回のリーグ優勝、全日本大学野球選手権大会で3度の優勝、明治神宮野球大会で2度の優勝という黄金期を迎えた。この期間に東都大学野球連盟を代表する強豪となり、リーグ全体のレベルアップに貢献した。特にエース木佐貫洋と永川勝浩両4年生投手や1年生松田宣浩らが活躍した2002年は、春・秋リーグ戦、春の全日本大学選手権大会、秋の明治神宮大会も制覇してのグランドスラム(4冠)を達成した。
2004年、内田俊雄が総監督になり、OBの生田勉が監督就任。同04年秋季リーグ終了後に部員の不祥事が発覚し半年間の対外試合禁止処分をうけた。翌2005年春季リーグ戦を出場辞退し2部降格となるも同05年秋、入替戦で中大を下し1部に復帰。以降も勢い衰えず翌2006年、4年の主戦糸数敬作(通算8勝6敗、07年卒)のほか、2年岩見優輝(通算9勝7敗、09年卒)や鶴川将吾(通算8勝2敗、09年卒)らの投手陣、長打の2年岩本貴裕(通算16本塁打)や1年中田亮二(通算9本塁打)らの打撃陣を擁して秋季リーグ戦優勝。続く第37回明治神宮大会準決勝で2年西村憲投手らの九州産業大、決勝で宮本賢と大谷智久両投手擁する早稲田大を下し優勝。
2011年、3年生エース東浜巨(通算35勝〈宮本賢治と並び亜大歴代1位〉19敗、13年卒)と2年嶺井博希の沖縄尚学高出身バッテリーらを擁して明治神宮大会2回戦で準優勝した愛知学院大に0-1で敗退。翌2012年、第61回全日本大学野球選手権大会ではエース東浜や飯田哲矢ら4年生投手のほか、3年九里亜蓮や2年山崎康晃らの投手陣を擁して2回戦・準々は東浜が完投。準決勝は九里先発で龍谷大を4-2で破り、決勝は東浜先発で1年吉永健太朗投手擁する早稲田大に0-4で敗れ準優勝。同年秋、明治神宮大会準決勝で優勝した桐蔭横浜大(法大を下し優勝)に敗退。翌2013年、第62回全日本大学野球選手権大会準決勝で日体大を破り、決勝で明治大を破り勝ち上がってきた上武大に敗れ準優勝。同年秋、明治神宮大会準決勝で桐蔭横浜大、決勝で明治大を下し優勝。翌2014年春、リーグ戦6連覇を達成。続く第63回全日本大学野球選手権大会2回戦で2年田中正義投手の創価大に2-3で敗退。
東都史上初となるリーグ戦5連覇を達成した東洋大の記録(2007春 - 09年春)を更新し、2011年秋から14年春にかけて亜大が6連覇を遂げた。この記録を担った東浜巨や飯田哲矢、彼らの1年下の九里亜蓮、2年下の山﨑康晃や大下佑馬らの投手陣、打撃陣では東浜と同期の高田知季、彼らの1年下の嶺井博希捕手、3年下の藤岡裕大や板山祐太郎、4年下の宗接唯人捕手はじめ大学球界では明治大に次ぐ最多レベルの現役プロ野球選手を輩出している(2024年現在)。
2015年秋、第46回明治神宮野球大会では藤岡や板山、北村祥治、丸山高明、遠藤雅洋ら4年生、宗接捕手や木浪聖也ら3年生の打撃陣と、4年石塚賢次や花城直、2年嘉陽宗一郎ら投手陣の継投で、2回戦の立命館大を2-1、準決勝で中川皓太投手擁する東海大を4-3、決勝で2年大竹耕太郎投手擁する早稲田大を2-1(延長14回)で下し優勝。翌2016年、第65回全日本大学野球選手権大会準々決勝で優勝した中京学院大に1-5で敗退。翌2017年春秋リーグ戦で東洋大が連覇し、嘉陽と髙橋遥人両投手や北村拓己ら4年生の投打を擁する亜大は両季で2位につけた。翌2018年春季リーグ戦で甲斐野央・梅津晃大・上茶谷大河ら"東洋三羽烏"の4年生投手陣を擁して3連覇を目指す東洋大との試合で、中村稔弥と頓宮裕真の4年生バッテリーと上茶谷との3連投も敗れ、亜大は4位に終わった。
2020年秋、右肘術後間もない4年生エース平内龍太や2年青山美夏人、岡留英貴と松本健吾の両3年生らの投手陣を擁して、リーグ優勝。しかし続く第51回明治神宮野球大会はコロナ禍で中止。翌翌2022年春、国学院大の3連覇を阻みリーグ優勝。続く第71回全日本大学野球選手権大会では近大、名城大を下し準決勝で東日本国際大を3-1、決勝で上武大を7-1で下し優勝。同年秋、リーグ戦は国学院大が優勝、翌2023年は青学大の春秋連覇と続き、亜大は4・3・4位。同年6月、生田勉が体調不良のため監督を退任した[2]。同年8月1日、OBの鈴木一央が監督就任[3]。翌2024年1月1日付で八戸学院大監督を務めた正村公弘(東海大OB)が監督に就任した[4]。
※ 2023年現在
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