清水章夫

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清水章夫

清水 章夫(しみず あきお、1975年9月9日 - )は、大阪府豊中市出身[1]の元プロ野球選手投手)。左投左打。

概要 京都先端科学大学 投手コーチ, 基本情報 ...
清水 章夫
京都先端科学大学 投手コーチ
Thumb
オリックス時代
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府豊中市
生年月日 (1975-09-09) 1975年9月9日(49歳)
身長
体重
186 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1997年 ドラフト1位
初出場 1998年5月6日
最終出場 2009年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
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経歴

要約
視点

プロ入り前

小学生から野球を始めるがライトで8番打者。中学でも野球は続けたが本人も下手くそだったと振り返る。大阪高校進学を期に野球を止めるつもりだったが、友人に誘われ見物した軟式野球部に入部し、ここで初めて投手を務めた。2年連続で大阪大会で優勝し注目を集めた[2]

やがて硬式野球への憧れを抱き、大学への進学を目指すも、軟式野球出身者であった清水を受け入れる大学は少なく、高校時代のクラスメートの父親の力も借り、名門の近畿大学へ入学[3]。一年目は二部(夜間部)に入学し二年目に一部に編入された[2]二岡智宏宇高伸次藤井彰人山下勝充らとチームメイトになり、4年時にはチームを全日本大学野球選手権大会優勝、明治神宮野球大会優勝などアマチュア五冠に導く。関西学生リーグ通算16試合登板、11勝1敗、防御率1.14。最優秀選手1回、最優秀投手2回、ベストナイン1回受賞。

1997年秋のプロ野球ドラフト会議に際しては6球団の争奪戦となったが、最終的には日本ハムファイターズ逆指名し、1位で入団することとなった[1]

プロ入り後

入団後の2年間は左肩やひじの故障に苦しんだ。3年目の2000年先発投手として6勝を挙げるも、その後は思うように勝ち星を伸ばせなかった。

2003年中継ぎに転向し、50試合に登板した。

2004年は42試合に登板したが防御率6.88と低迷。同年オフに何かを変えたいと投球フォームをサイドスローに変更したが、キャンプの投球練思うように習中にひじを故障し[2]、翌2005年は6年ぶりに一軍登板無しに終わった。

2006年はフォームをオーバースローに戻し、[2]一軍で中継ぎとして出番を与えられ、4月1日のオリックス戦で約2年振りの白星を手にした。

2007年は一軍登板がないまま6月28日歌藤達夫萩原淳とのトレード木元邦之と共にオリックスへ移籍した[1]。移籍先のオリックスでも一軍登板無しに終わったものの、この年二軍で二軍投手コーチの清川栄治の指導を受けて再びサイドスローに転向した[2]。秋のフェニックス・リーグでは好投をテリー・コリンズ監督に見せ好印象を与えたが、2008年の一軍キャンプには呼ばれなかった[2]。それでも腐らず練習に打ち込み、二軍で13試合に登板して自責点2の好成績を挙げ、住友平二軍監督の推薦を受けて5月17日ロッテ戦で一軍昇格した[2]。さらに、コリンズ監督が辞任してから二軍コーチ陣が一軍の指揮を執ると重用されるようになり[2]、主に左のワンポイントとして34試合に登板。5月25日横浜戦では移籍後初勝利を挙げ、8月14日日本ハム戦では6年振りとなるセーブを挙げた。8月28日のソフトバンク戦では、2点リードの8回裏2死2,3塁の場面で登板したが、本多雄一に初球で内野安打を許して降板。その後、本多が決勝のホームを踏んだため、プロ野球史上22人目の1球敗戦投手を記録した。大阪ドームでの2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ1stステージ初戦では中継ぎで登板し、これが自身の現役生活唯一のポストシーズン出場となった。

2009年もワンポイントリリーフとして一軍に定着し、自己最多となる58試合に登板し、11ホールドを記録した。8月25日の日本ハム戦では、2点リードされた10回表に登板し、稲葉篤紀を初球でレフトフライに仕留めると、その裏に味方打線が奮起して逆転サヨナラ勝利を収め、史上28人目の1球勝利投手を記録した。これに伴い、1球勝利投手と1球敗戦投手を両方記録、落合英二林昌樹に続いての史上3人目の投手となった。

2010年は肘の故障に苦しみ一軍登板無しに終わり、同年10月2日付で球団から戦力外通告を受け[1]、現役を引退した。

引退後

引退後は広島県福山市で、夫人の実家の自転車店「サイクルハウス ケンズ」で義父母と共にスタッフとして働いていた[4][1]。球団スタッフとして業界に残る道もあったが[1]、未練や悔しさを断ち切るために異業種への転向となった[1]。また、2013年には三原市で開催されたトライアスロンにも参加している[1]

2019年1月18日にベースボール・チャレンジ・リーグ新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ監督に就任することが発表された[5][6]。2シーズン指揮を執り、2020年10月9日に同シーズンの契約満了をもって退任することが発表された[7]

監督退任後は再び自転車業界に携わる[3]傍ら京都先端科学大学硬式野球部の投手コーチを務めている[8]

選手としての特徴

サイドスローからスライダーシュートを投げ分け、左右の揺さぶりで打たせて取る投球スタイル[9]。プロ入り後は主に中継ぎ投手として活躍した[10]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...




















































W
H
I
P
1998 日本ハム 32000010--.000479.2161500701987.452.17
2000 2316410690--.400513115.1104106937674061524.061.50
2001 2217200270--.222478108.1113164817871062594.901.49
2002 187210241--.33320448.14771106322027234.281.20
2003 500000010--.00017742.13442102211021183.831.30
2004 420000100--1.00015934.04441622271026266.881.76
2006 2900001303.25013630.13111414222012113.261.48
2008 オリックス 3400004216.66710624.0292403140013134.881.38
2009 58000012011.33316734.24131747181025194.931.67
通算:9年 279428201729220.3701987447.04594820511382951212562294.611.49
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記録

初記録
その他の記録

背番号

  • 21 (1998年 - 2003年)
  • 19 (2004年 - 2007年途中)
  • 42 (2007年途中 - 同年終了)
  • 13 (2008年 - 2010年)
  • 99 (2019年 - 2020年)

脚注

関連項目

外部リンク

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