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日本の小説家・エッセイスト・写真家・映画監督 (1944-) ウィキペディアから
(しいな まこと、1944年6月14日 -)は、日本の作家、エッセイスト。
誕生 |
1944年6月14日(80歳) 東京都世田谷区 |
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職業 | |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
代表作 |
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主な受賞歴 | |
デビュー作 | 『さらば国分寺書店のオババ』(情報センター出版局、1979年) |
配偶者 | 渡辺一枝 |
子供 |
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公式サイト | 椎名誠 旅する文学館 |
ウィキポータル 文学 |
東京写真大学中退。流通業界誌編集長を経て、『さらば国分寺書店のオババ』でデビューし、その後『アド・バード』(日本SF大賞)『武装島田倉庫』『銀天公社の偽月』などのSF作品、『わしらは怪しい探検隊』シリーズなどの紀行エッセイ、『犬の系譜』(吉川英治文学新人賞)『岳物語』『大きな約束』などの自伝的小説、『犬から聞いた話をしよう』『旅の窓からでっかい空をながめる』などの写真エッセイと著書多数。映画『白い馬』では、日本映画批評家大賞最優秀監督賞ほかを受賞した。
また日本各地、世界各地の特に辺境に頻繁に赴き、多くの旅行記と映像記録を発表しており、紀行作家、旅行家としての面も大きい。
日本SF作家クラブ名誉会員。
1944年、東京都世田谷区三軒茶屋に5人兄弟の三男として生まれる[1]。父親は公認会計士[1]。1950年より千葉県印旛郡酒々井町と千葉市幕張に転居[1]。千葉市立幕張小学校を卒業[2]。
1956年、父が死去[1]。翌年に千葉市立幕張中学校入学[2]。「父親が死ぬとグレなければならないという奇妙な使命感」から不良を目指し始める[1]。中学時代は喧嘩に明け暮れる[1]。1960年、中学校を卒業し千葉市立千葉高等学校に入学[1]。
1963年、千葉市立千葉高等学校卒業[1]。同人誌『幕張じゃーなる』創刊[1]。
1964年、東京写真大学(現・東京工芸大学)に入学[1]。同人誌『斜めの世界』創刊[1]。
1965年、友人の車に同乗中の事故により重傷を負う[1]。東京写真大学を中途退学[1]。代々木の演劇学校に脚本の勉強に通う[1]。同人誌『フモリスト』創刊[1]。同年秋より江戸川区小岩のアパート克美荘で、高校時代の同級生である沢野ひとし[3]、沢野の中学時代の同級生である木村晋介らと約2年間の共同生活を行う[4][5]。
1966年、流通業界の専門誌『ストアーズレポート』を刊行しているデパートニューズ社(現・ストアーズ社)[注 1]に入社。デパート業界を対象とした業界誌『調査月報』の編集を任せられる[1]。
1968年、渡辺一枝と結婚、東京都小平市に転居[1]。ガリ版誌『月刊おれの足』創刊[1]。
1969年、デパートニューズ社より『ストアーズレポート』を創刊[1]。編集長に就任[1]。
1974年、8ミリにてドキュメンタリー作品『神島でいかにしてめしを喰ったか…』を製作[1]。小金井市の8ミリ同好会に参加し、8ミリ映画の製作にのめり込む[1][6]。
1977年、『本の雑誌』5号の巻頭エッセイとして「さらば国分寺書店のオババ」を執筆[1]。7月、同誌の編集権が目黒考二から椎名に移る[1]。
1977年ごろ、『本の雑誌』の経費を稼ぐために、「エロ漫画の原作」のアルバイトを目黒と共同で行っていた。椎名がストーリーを考え、目黒が台本化する形式で、月4、5本は書いていたという[7]。
1979年、『さらば国分寺書店のオババ』でエッセイストとしてデビューする[1]。
1980年、7月に目黒考二、沢野ひとし、木村晋介と株式会社本の雑誌社を設立。12月、ストアーズ社を退職しフリーになる[1]。その後は私小説、SF小説、エッセイ、ルポルタージュ、写真集などを多数発表。
1987年、株式会社椎名誠事務所設立[1]。
1989年、『犬の系譜』で第10回吉川英治文学新人賞受賞[1]。
1990年、『アド・バード』で第11回日本SF大賞受賞[1]。映画『ガクの冒険』公開[1]。
1991年、映画製作会社ホネ・フィルム設立[1]。
1993年、映画『あひるのうたがきこえてくるよ。』で第10回山路ふみ子映画文化賞受賞[1]。
1993年から2007年まで、「週刊金曜日」編集委員を務めた[8]。
1996年、映画『白い馬』で日本映画批評家大賞最優秀監督賞、95年度JRA賞馬事文化賞を受賞[1]。
1997年、映画「白い馬」でフランス・ボーヴェ映画祭グランプリ受賞、ポーランド子ども映画祭特別賞受賞[9]。
2011年8月、ネット・ミュージアム「椎名誠 旅する文学館」が開館[11]。2014年、「椎名誠 旅する文学館」シリーズとして、10作の著書が電子書籍化[12]。同年、『ぼくは眠れない』 (新潮新書)で35年間の不眠症体験について記す[13]。
2013年~2016年、椎名主宰の雑誌『とつげき!シーナワールド!!』が出版社を変えながら5巻刊行。 2017年から『ずんがずんが―椎名誠自走式マガジン』と改名して「椎名誠 旅する文学館」から刊行開始。
妻の渡辺一枝(1945年ハルビン生まれ)は作家・エッセイストで、チベットについての本など、多数の著書がある[注 2][14]。娘の渡辺葉は翻訳家でエッセイスト、米国の弁護士[15][16]。息子の渡辺岳[17]はプロボクサー[18][19]として活動後、米国で写真学を学び写真関係の仕事に就いた。
椎名の著作の挿絵を担当することが多く、著作にも頻繁に登場するイラストレーターの沢野ひとしは高校時代の同級生[3]。弁護士の木村晋介は沢野の中学時代の同級生で、沢野の紹介で親友となった[20]。なお渡辺一枝は木村の高校時代の友人である[1]。
中学生のとき、1枚の写真に出会った。兄が購読していた写真雑誌「アサヒカメラ」の1ページだった。陽のあたる農家の縁側で竹のような籠「いづめ」に入れられてゆったり眠っている赤ちゃんの写真に心が奪われた。このいづめに赤ちゃんを入れてあげた親の心の温かさがその1枚の写真から伝わってきた。ふいに今いる、がさつに閉塞した空間にそうそういつまでも付き合っていなくていいのだと気付き、気持ちを切り換えて、じわじわとその狭い世界から脱出していくように努力した。思いがけない「写真の力」を初めて感じ、写真との関係が密接になっていき、「いつしか将来は写真を仕事としたいと思うようになった」という[21]。
写真大学はケガなどもあって中退してしまったが、作家になってから写真と文章とを収録した著書は多数あり、写真雑誌『アサヒカメラ』の連載などを受け持っている。
デビュー前から8ミリ、16ミリでの自主制作映画を撮っていた[22]。「ガクの冒険」で映画監督としてデビューした後に映画製作会社「ホネ・フィルム」を設立した[1]。
無類のビール好きである。中学生の頃に初めてビールを飲み、大人になってからはほぼ毎日飲んでいる[23]。 好きな酒肴には、ウニ・ホヤ・ナマコを挙げる。しかし、これらの上を行くものとしてコノワタ、さらに上の究極の肴としてばくらいも挙げている[24]。 酒をビールに限定した場合は、串カツ・ばくらい・鮭の皮である、と言う[25]。
「」内が椎名誠の作品。
椎名自身による映画化作品は#映画を参照。
他多数
すべて「ホネ・フィルム」作品。
すべて「ホネ・フィルム」作品。
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