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日本の私立大学 ウィキペディアから
東京工芸大学(とうきょうこうげいだいがく、英語: Tokyo Polytechnic University)は、東京都中野区本町2丁目に本部を置く日本の私立大学。1923年創立、1950年大学設置。大学の略称は工芸大、写大(写真界)。
大学名の「工芸」は、工学と芸術を示しており、手工業品の工芸の意ではない[1]。小西六本店(→小西六写真工業→現コニカミノルタ)社長 六代目杉浦六右衛門の「時勢の必要に応ずべき写真術の実技家及び研究家を養成し、併せて一般社会における写真術の向上発達を図る」という理念を継ぎ、七代目杉浦六右衛門により、1923年に日本初の写真学校である小西寫眞専門学校として設立された[2]。日本では数少ない、写真学科を設置した大学である。戦前の旧制専門学校時代は写専と呼ばれ、現在でも写真界では東京写真大学(旧称)の略称である写大のまま通用しているケースもある[3][1]。
第二次大戦中、学生の動員先は小西六写真工業や富士写真フイルム(現富士フイルム)、日本光学工業(現ニコン)など写真関連の工場、または陸地測量部や海軍工廠など軍関係の写真関連施設が主だった[4]。 戦後、1950年に新学制の元で東京写真短期大学として発足し、翌年、財団法人を学校法人に改組し、理事は小西六写真工業(現コニカミノルタ)をはじめ、オリエンタル写真工業、日本光学工業(現ニコン)、富士写真フイルム(現富士フイルム)、大日本印刷など、写真業界と印刷業界の大手企業から集った[5]。宇治、深海らと共にオリンパス光学工業(現オリンパス)で胃カメラを発明した杉浦睦夫の出身校でもある[6]。
世界有数の研究施設として、風工学研究センター(附属機関としてAPEC諸国強風防災センター及び風工学技術情報室)を有する[7]。また、日本有数のオリジナル・プリント所蔵数を誇る写大ギャラリー[8]や、国内の大学で唯一の「色」の国際的な研究拠点である色の国際科学芸術研究センターを有する[9]。
時勢ノ必要ニ應ズベキ寫眞術ノ實技家及研究家ヲ養成シ併セテ一般社會ニ於ケル寫眞術ノ向上發達ヲ圖ル
時勢の必要に応ずべき写真術の実技家及び研究家を養成し併せて一般社会における写真術の向上発達を図る(大正12年 財團法人 小西寫眞専門学校)
東京工芸大学は
本学は、「東京工芸大学の理念」に基づき、以下に揚げる人材を育成するために、学生ひとりひとりの個性を尊重し、可能性を最大限に伸ばす教育をします。
東京工芸大学の目的及び使命は、次のとおりです。
1923年に日本初の写真学校として小西六本店(→小西六写真工業→現コニカミノルタ)社長が創設した小西寫眞専門学校を原点とする。
写真が1923年当時最先端技術と芸術の結晶だったことから、旧制専門学校(戦前の高等教育機関、現在の単科大学に相当)で写真の専門教育を行うためには、工学と芸術のどちらも高度に教授研究する必要があった。そのような経緯から、本学では工学と芸術が相互に深く関係するものとして捉えられてきた。大学名の英語表記には“Polytechnic” (「総合技術」「実学」といった意味を持ち、理工系エリートを輩出するフランスのエコール・ポリテクニークに由来する)という単語が使われている。
著名な写真家を多く輩出している。テクノロジーとアートの融合を特徴とする。
2003年4月、国内初のアニメーション学科を設置。2007年4月、西日本の京都精華大学に続き、東日本初のマンガ学科を設置。2010年、ゲーム学科を設置。創立以来の写真に加え、コンピュータや電子機器といった最先端テクノロジーを駆使するメディアアートを特に強みとする[12]。
1923年に創立した小西寫眞専門学校は、同年3月、以下の要領で本科生を募集した。
本科の入学試験科目は、「数学(代数・幾何)」「物理」「化学」「英語」「図画」の5科目であり、理学・工学系に加え美術系の試験を課していた。「アドミッション・ポリシー」を具現化したものが入学試験の科目だとすれば、創立当時の小西寫眞専門学校では、すでにテクノロジーとアートを融合した教育を実践するため、入学者にその素養を求めていたことが見てとれる。本科の3年間のカリキュラムは、写真の最先端の理論や実技などの専門科目に加えて、「数学」や「化学」など理系の科目、「図画」や「美術工芸史」など美術系の科目、「英語」や「経済」などの基礎教養科目が、体系的に組み合わされていた[13]。
1926年3月、小西六本店(→小西六写真工業→現コニカミノルタ)の附属機関というイメージを払拭し広く写真界と社会全般に貢献する教育機関としての姿勢を打ち出す為、東京写真専門学校へと改称した。1934年、写真を取り巻く社会の変化や時代の要請に応えるため、大きなカリキュラムの改正が実施された。第三学年の教育課程を第一部と第二部に分けたのである。第一部は表現に重きを置いた課程。第二部は技術に重きを置いた課程とした。この背景として、入学者や卒業後進路の多様化が挙げられる。創立当初、入学者は営業写真館の師弟が多く、卒業後は営業写真関係に就職する者が多かった。しかし年を追うごとに、写真に興味を持つ一般家庭からの入学者の割合が高くなった。卒業後の進路も多様化し、営業写真関係への就職だけでなく、表現・撮影系の職種としては新聞社や出版社、映画制作会社など、また技術・研究系の職種としては、写真工業や印刷関連の企業、政府や軍の関係機関などに進む学生が増えていた[14]。
1941年3月、学生定員を増やすことが文部省から認可され、あわせて本科の第一部を写真芸術科、第二部を写真理学科として設置することが認可された。これが、現在の本学の特色でもある、芸術学部と工学部という対極的な二つの課程からなる教育体制の原形である[14]。
1941年10月16日、緊迫する戦況に応じた臨時措置として、大学や専門学校など高等教育機関の修業年数短縮の勅令が公布された。同年12月8日、太平洋戦争が勃発した。1942年夏から学生の軍需産業への勤労奉仕が始まり、1943年10月12日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、文科系学生の徴兵猶予措置という特例は廃止された。1944年になると戦況は厳しさを増し、教育界でも官公立、私立を問わず、時局に合わせて体制を改める学校が増えてきた。本学では写真理学科と写真芸術科のいずれにおいても、技術と表現を融合した独自のカリキュラムを持っていたが、文科系の教育機関であるとされ文科系学生の徴兵猶予措置を取り消されていた。そこで、1944年4月より校名を東京写真工業専門学校へと改め、教育課程も写真化学工業科と写真光学器械科という理科系の二学科に編成し直すことで、徴兵猶予措置を取り戻すこととした[4]。
1950年、戦後に施行された新しい教育制度の中で、新制の大学として再出発をした東京写真短期大学では、主として写真材料や写真化学について学ぶ写真工業科と、撮影技術や表現を学ぶ写真技術科という、二つの教育課程を擁していた。それは写真を原点に、テクノロジーとアートの教育と研究を柱として、社会に貢献できる人材を輩出しようという本学の建学の精神を体現するものであり、現在の工学部と芸術学部からなる本学の教育課程につながる体制であった[15]。
1964年1月24日の理事会において「今日の驚異的な科学技術の躍進と時代の要求により、前々より懸案の4年制大学を現在の短期大学と併設したい」と当時の春木榮理事長が提案し、1年後の1965年4月に4年制大学を開設することが承認された。その後、同年6月1日の理事会で、4年制大学は工学部として、高度化する写真・印刷産業を支える人材の養成を目的とする「写真工学科」と「写真印刷科」2学科を設置することが承認されたが、写真のみに特化した2学科構成での工学部設置に文部省が難色を示し却下されてしまう。1965年6月17日に開催された理事会において、設置学部は工学部のまま写真工学科と印刷工学科の2学科と名称を変更し、1966年9月末に提出された申請は、文部省の大学設置審議会と私立大学審議会での議論を経て、同年12月18日、無事に認可された。こうして東京写真大学は誕生した[16]。
高度経済成長期、日本は世界第2位の経済大国に躍進した一方で、当時は公害と呼ばれた様々な環境問題に直面していた。こうした中、本学は工学部の写真化学分野を独立させて工業化学科を設置し、1973年4月に同学科の新入生を迎えた。また、高度成長期から続く建築ブームで、大都市での超高層ビルの建設や大規模工事、建設業の海外進出などで、建設業界では技能労働者・建設技術者の不足に悩まされていた。こうした課題の解決に向けて、建築学科の設置を1974年に文部省から認可され、同年4月に第1期の入学生131名を迎えた。1976年、急速なカメラの電子化に対応すべく電子工学科を新設した[16]。
1994年に芸術学部を設置[17]。その後、工学分野では工業デザインやヒューマンインターフェースなど芸術分野の素養が必要となり、また芸術分野ではゲームやインタラクティブアートなどテクノロジーの活用が必要となり、現在は工・芸融合科目という形でテクノロジーとアートの融合教育が行われている[18]。
1923年4月、小西六本店(→小西六写真工業→現コニカミノルタ)社長の七代目杉浦六右衞門が先代の遺言に基づき設立した小西寫眞専門学校が起源である。新学制により1950年4月に東京写真短期大学が発足、1966年4月に4年制の東京写真大学を設置、1977年4月に大学名を東京工芸大学と改称した。
※2021年5月1日現在
2002年の学校教育法改正により高等教育機関の認証評価が法制化された[20]。2021年5月10日現在、大学の認証評価機関は大学基準協会の他、日本高等教育評価機構など計5機関である[33]。不正入試を含む不祥事、大幅な定員割れ、教員不足等で「期限付適合」「保留」「不適合」となる大学も少なくない[32][34][35][36][37]。
どの専攻においても博士前期課程・博士後期課程を設置している。
※カッコ内は目安、太字は現行組織
学部首席、学科首席またはこれに準ずる者に対して、学位授与式に以下の賞が授与される。
課外活動に顕著な実績を有する者に対して、学位授与式に以下の賞が授与される。
卒業制作物が、将来、極めて有望である者に対して、学位授与式に以下の賞が授与される。
文化、体育活動で顕著な成績を収めた者に対して、以下の賞が授与される。
学業成績が優秀な者に対して、在学中に以下の賞が授与される。
在学生を対象にした、写真に関する学内コンペがある。
フォックス・タルボット賞は、新しい写真表現への挑戦を奨励するとともに、若い写真家の登竜門としての機能を果たすことを目的として、東京工芸大学が1979年に創設した。
本賞の名称は、イギリスのフォックス・タルボット美術館の協力を得て、近代的な写真システムの原点であるネガ・ポジ法の発明者ウイリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(William Henry Fox Talbot, 1800-77)の偉業を讃え、その名を冠している。
紀要や博士学位論文の一部は、東京工芸大学学術リポジトリから検索・閲覧可能[56]。
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