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ナマコの腸管で作った塩辛 ウィキペディアから
このわた(海鼠腸)は、ナマコの内臓の塩辛である。寒中に製した、また腸の長いものが良品であるとされる。尾張徳川家が師崎のこのわたを徳川将軍家に献上したことで知られ、ウニ、カラスミ(ボラの卵巣)と並んで日本三大珍味の一つに数えられる。
古くから能登半島[1]・伊勢湾・三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海など各地で製造されている。
語源は、こ(ナマコ)+の(助詞)+わた(腸、内臓)である。
このわたを製造する場合には、体色が赤っぽい「アカナマコ」が重宝がられるという[2] 。
まず、ナマコの体内を浄化するため、作業場近くの海に設けた生け簀で2日ほど放置する。腸管内部の餌の残渣や糞がある程度排泄されたころをみはからい、腹側の口に近い部分を小刀で5-6cmほど裂き、逆さにして内部の体腔液を抜きつつ、切り口から指を入れて内臓を引き出す[1]か、または脱腸器で内臓を抜き取る。 抜き出した内蔵は、指先でしごいて内部に残った砂を絞り出し、腸管・呼吸樹(「海鼠腸の二番」と称される)・生殖巣の三部位と、砂(砂泥)とに分別される。生殖巣はくちこの製造に向けられる[1]。
なお、内臓を抜いたナマコは生食用または熬海鼠(いりこ:煮干し品)の製造に向けられ、生食用は海水を満たしたナイロンの袋に詰めて出荷される。熬海鼠用は釜に入れるまで、海水を満たした桶に保管しておく(ナマコの生態的な特徴からすぐに死ぬことはない)。解体時にナマコの切り口を小さくするのは、熬海鼠の品質を良くするためといわれている[1]。
解体と分別作業が終わると、小盥に分けた内臓を海水でよく洗い、ザルに取って水気をきってから一升舛で量り、別の盥に入れて重量比で1割強(体積比では、内臓1升に対して2~3合)の食塩を加えて混ぜ合わせ、桶または壺に貯蔵する。2〜3日で塩漬けが完了して食用可能な状態となるため、箸などを用いて出荷用の容器へと取り分ける[1]。おおまかに、ナマコ100貫から内臓8升が採取でき、内臓1升からこのわた7合が製造できる。
多量の水分を含み、軟らかい紐状をなすこのわたの流通用容器としては、ガラス瓶・竹筒・桶の3種類がある。ガラス瓶が使用されるようになったのは、昭和40年代以降のことであるが、清潔で容積に変化がないことから、120 ml容の小瓶が使われている。竹筒入りは細身の青竹を用いるが、内容積に変化があるため、使用する時は、このわたの本数を読んで詰めている。さらに、「オケ」と呼称されている小型の木製容器も用いられる。容積は120 ml相当の物を取り寄せているが、出荷先からの要望によっても変わる。京都・大阪や金沢の方面では、竹筒入りのこのわたが求められる場合が多く、名古屋方面では桶入りのものを求める傾向があるという[1]。
100 gあたりの栄養価 | |
---|---|
エネルギー | 268 kJ (64 kcal) |
0 g | |
糖類 | 0 g |
食物繊維 | 0 g |
1.8 g | |
飽和脂肪酸 | 100 mg |
一価不飽和 | 190 mg |
多価不飽和 | 350 mg |
11.4 g | |
ミネラル | |
ナトリウム |
(120%) 1800 mg |
カリウム |
(7%) 330 mg |
カルシウム |
(4%) 41 mg |
マグネシウム |
(27%) 95 mg |
リン |
(24%) 170 mg |
鉄分 |
(31%) 4.0 mg |
他の成分 | |
水分 | 80.2 g |
コレステロール | 1.0 mg |
| |
%はアメリカ合衆国における 成人栄養摂取目標 (RDI) の割合。 |
ナマコの内臓はふつうは塩蔵品として市販されるが、生鮮品をそのまますすっても、三杯酢に浸して酢の物としても美味で、酒肴として喜ばれる。また、このわたに熱燗の酒をそそいだものは「このわた酒」と称される。
「このわた汁」は、このわたをまな板の上で庖丁で叩いてから椀に入れ、ごく薄味に仕立てた汁を注いだもので、このわたの真の味を賞し得るという。また味噌仕立てにもされ、三州味噌を庖丁で細かく切って水溶きし、鰹節と昆布とを加えて3時間ほど置き、裏ごしする。これを火にかけて味を調え、このわたを加えてさっと火を通して供する。
このわたは、能登国の産物として平安時代の史料に登場する。室町~戦国時代には、能登の守護職を務めた畠山氏が、特産の水産物としてこのわたを納め、「海鼠腸桶」を足利将軍家や公卿・有力寺社などへ贈呈した歴史が知られている[4][5]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』では、中央政府が能登国のみに課した貢納物の中に、熬海鼠に加えて「海鼠腸」が挙げられている。能登の交易雑物に「海鼠腸一石」と記録されている点から、かなり量産されていたことがうかがわれる[1]。
『蜷川親元日記』にも、畠山義統より足利義政への進物として「海鼠腸百桶(只御進上)」との記述があり、また、日野富子へ向けて「このはた百桶」、義統の親元に向けて「このはた五十桶」が贈られたと記されている[1]。塩辛である海鼠腸の特徴と、中世文献上に記述されている「桶」の数量から、海鼠腸桶は口径6cm未満(2寸相当)の小型の曲物容器であった可能性が指摘されるとともに、福井県一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館より大量に出土した小型曲物こそが、この「桶」であろうとの指摘がなされている[6]。
室町時代に成立した「奉公覚悟之事」にもこのわたの記述があり、「このわたハ桶を取りあげてはしにてくふべし。是も一番よりハ如何。半に両度もくふべき也(下略)」[7]との説明から、このわたが、片手で持ちうる大きさの「桶」に詰められていたであろうことが明らかであるという[8]。
江戸時代に、能登の名産品として、このわたを将軍家に献上した加賀藩前田家は、この中居産の海鼠腸を御用品に定めることで、南湾の石崎町と同じく能登のナマコ生産を支配した。 このため、現在でも七尾湾で水揚げされたナマコを加工している場所は、七尾市石崎町と鳳珠郡穴水町中居の二ヶ所だけである。石川県下におけるナマコ生産・加工に関する歴史も、前田氏が能登の支配を始めた江戸時代からと伝承されている[1]。
近世初頭の慶長8年(1603年)には、「コノワタCono vata.(海鼠腸)」の表記で『日葡辞書』に収録されている[1]。
また、1697年頃に編纂された『本朝食鑑』 では、「海鼠 奈麻古(ナマコ)ト訓ズ」の説明に以下のように付記して、「黄腸(きわた)ヲ淹(つ)ケテ爲シ」た醢(ひしお=塩辛)を紹介している[9]が、ここでは「このわた」の呼称は文中に登場していない。
(前略)…一種、長サ七八寸有リテ肥大ナル者有リ、腹内ニ三條(=三本)ノ黄腸(きわた)ガ琥珀ノ如クシテ、之ヲ淹(つ)ケテ醬(しゃう)ト爲シ、味ワヒ香美、言フヘカラス。諸(さまざま)ナ醢(ひしお=塩辛)ノ中ノ第一ト爲スナリ。…(後略)
『本朝食鑑』 では、このわたについて以下のように独立した項目を設けて詳述している[10][11]。
海鼠腸(古乃和多ト訓ズ)或ハ「俵子(たわらこ)」ト稱ス。腸醬ヲ造ル法、先ヅ鮮腸ヲ取リテ潮水ノ至ッテ清キ者ヲ用ヰテ洗浄スルコト數十次、沙及ビ穢汁ヲ滌去シテ白鹽ニ和シテ攪勻シテ之ヲ收ム。
以純黄ノ光有リテ琥珀ノ如キ者ヲ以テ上品ト爲シ、黄中、黒・白相ヒ交ジル者ヲ以テ下品ト爲ス。今、三色相ヒ交ジル者ヲ以テ日影ニ向ケテ箆(へら)・箸ヲ用ヰテ頻ニ之ヲ攪ク(=撹拌する)時ハ則チ盡ク變ジテ黄ト爲ル。或ハ腸一升ニ雞子ノ黄汁一箇ヲ入レ、箆・箸ヲ用ヰテ之ヲ攪勻スルモ亦、盡ク黄ト爲ル。味モ亦、稍(やや)美ナリ。
一種、腸中ニ色赤黄、糊ノ如キ者有リ、號シテ鼠子(このこ)ト曰(い)フ。珍ト爲サズ。 凡ソ海鼠、古(いにし)ヘハ能登ノ國、海鼠腸一石ヲ貢ス。「主計部」ニ『腸十五斤』ト有リ。今、能登、之ヲセズ。尾州・参州ヲ以テ上ト為シ、上武ノ本木、之ニ次グ。 諸海國、海鼠ヲ采(と)ル處(ところ)多クシテ、而腸醬ヲ貢スル者少ナシ。是(これ)黄腸ハ好ム者全ク希ナルノ故也。近世、參州柵ノ嶋ニ異僧有リ、戒ヲ守リテ甚ダ厳ニシテ、腸醬ヲ調和スルハ最モ妙ナリ。浦人、腸ヲ取リテ洗ヒ浄メテ盤(うつわ)ニ入ル。僧、之ヲ窺ヒ、腸ノ多少ヲ察シテ妄(みだ)リニ白鹽(なまじほ)ヲ擦(す)リテ腸ノ中ニ投ズ。浦人、木箆ヲ用ヰテ攪勻シテ之ヲ收ム。二三日ヲ經テ之ヲ甞ムレバ、其味ハヒ言フ不可(べからず)。今、貢獻ル者、是也。故ニ參州之産ヲ以テ上品ト爲ス。
後ニ僧故(ゆえ)有リテ尾州ニ移リテ、復(ま)タ腸醬ヲ調ヘテ尾州之産ヲ以テ第一ト為ス。世、皆、奇ナリト稱ス…(後略)(現代語意訳)
現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以って、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。
海鼠腸―古乃和多(このわた)と訓ずる。或いは「俵子(たわらこ)」とも称する。この腸醤(ちょうしょう)を造る方法は以下の通りである。 まず新鮮な海鼠の腸(わた)を取って、潮水(しおみず)の至って清浄なるものを用いて洗浄すること、数十次、砂及び汚れた汁(しる)をきれいに洗い流し去ってから、白塩(なまじお)に和して攪拌しつつ、塩とよく合わせて平らにならした上、これを保存する。
至って黄色い光りを帯びて琥珀の如きものを以って上品とする。黄色の中に黒や白の部分が相い交じっているようなものはこれを以って下品とする。 しかし、今、この三色の相い交じっているものを以ってこれを日の光に当てつつ、箆(へら)や箸を用いて、存分に攪拌し続けると、則ち、ことごとく黒白の部分の変じて、全く黄色となる。
或いはまた、腸(わた)一升に対して鶏卵の黄身一箇を投入し、やはり箆や箸を用いて、これを均一になるまで攪拌してもまた、ことごとく黄色となる。これは味もまた、他の色の交っていた時に比すれば、やや美味となる。 一種に、腸中に色の強い赤みを帯びた黄色の、糊のようなものがある場合があるが、これは呼んで「鼠子(このこ)」と言う。但し、これは海鼠腸(このわた)の中では珍味とはしない。
およそ海鼠に就いては、古えは能登の国が海鼠腸一石を貢(こう)した。「延喜式主計部」にも『腸十五斤』と載る。しかし今は能登の国はこれを貢していない。
尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。
近頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これはなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通りである。
浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(なまじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。
その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用いて攪拌し、塩分を均等にした上で平らにならし、これを大きな壺に収めおく。かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ曰く言い難きほどに美味なのである。
たわらごという呼称について、江戸時代後期の風俗習慣についてまとめた『嬉遊笑覧』では、
俵子(たわらこ)は沙噀(さそん:海鼠の別称)の乾たるなり。正月祝物に用る事目次のことを記ししものにも唯その形米俵に似たるもの故俵子と呼て用るよしいへり。俵の形したらんものはいくらもあるべきにこれを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故たわらごと云ふ名を取て祝ひ用ゆるなり
海鼠の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり。
俵子は虎子の転じたるにて、ただ生海鼠の義なるべし…
と簡潔に触れているのみであり[12]、「たわらご」・「たわらこ」の呼称の起源が、元来、ナマコの生鮮品・煮干し品・内臓の塩蔵品のいずれを指すものであったのかは判然としない。
『和漢三才圖會』では、卷第五十一(魚類 江海無鱗魚)に「海鼠(とらご)」の項を設け、このわたについても
海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの=塩漬け)とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。
との説明を与えている[13]。
江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された 『尾張名所圖會』においては
海鼠膓 大井村の名産すでに名所圖會にのせ置たれど其旨少したがへり 依て再び出す野必大の本朝食鑑に海鼠膓(訓古乃和多)以尾州参州為上武之本木次之諸國采海鼠處多而貢膓醤者少矣是好黄膓者全希之故也近世参州柵島有異僧守戒甚嚴而調和於腸醤者最妙浦人取腸洗浄入盤僧窺之察腸之多少妄擦白塩投腸中浦人用木箆攪勻收之経二三日而甞之其味不可言今貢獻者是也故以参州之産為上品後僧有故移于尾州而復調腸醤以尾州之産為第一世皆称奇矣としるせり佳境
遊覧にしるせるも又是に同し大永二年祇園會御見物御成記の献立のうちにこのわた桶金臺繪ありと見え 室町殿日記に或時秀吉公御咄の人々をめして雜談どもありける所へ或大名かたより蛎つべた貝海鼠腸の三種進上申されたれば太閤御覧ありていかに幽齋是につけて一句あるべしと仰られければ畏り候とて かきくらしふるしら雪のたべたさにこのわためしてあたゝまりませ と申されたれは秀吉公おほきに興し給ひたるとしるせり其頃このわたを世に賞美せし事を知るべし…
として、『本朝食鑑』からの引用がなされ、併せて豊臣秀吉がその美味を称賛した逸話について触れられている。同じく江戸時代末期の文化8年(1811年)、 栗本丹洲が著した『千蟲譜』の「海鼠」の項でも、このわたについて
此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことはり)ありと思へり。
と言及されている。
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