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広島市西区の町 ウィキペディアから
福島町(ふくしまちょう)は、広島市西区の町名。郵便番号は733-0024(広島西郵便局管区)。1丁目から2丁目まである。住居表示実施済み[2]
太田川放水路の東岸に位置する。全体が平地である。北で小河内町、東で都町と西観音町、南東で観音本町、南で南観音町、西で川を挟んで己斐本町と接する。己斐本町との間の太田川放水路には己斐橋と新己斐橋の2本の橋が架かっている。
昔は川田村と称した[3]。沿川の地を拓いて耕田となしたことに起因する[3]。その後沿川地であるゆえに1871年に川添村と改称し、1906年中、もと国守福島正則の三男八助を祀った小祠を同村木村氏の庭内に発見し、村民これを追慕し福島を以って町名としようと願い求め、翌年3月23日ついに福島町となった[3]。
文化年中(1804年-1818年)の頃、川田村の穢多は513人、非人は376人であった[4]。革田は昔から広島城下の東西両端に部落をなして住居し、東部落(尾長町岩鼻の西方付近)にある者を東革田と呼び、西部落(もと川田村、今の福島町)にある者を西革田と呼んだ[5][6]。
1619年、浅野氏入封のとき伍家平三郎に西革田頭を命じて切米12石3人扶持を給し、その子孫は代々革田の頭領を勤めた[6]。東西の革田は共に町廻り役の手先となって、犯罪者の探偵・捕縛に従事し、年頭・中元・歳暮・五節句・祭礼・葬式等の吉凶・式祭に際し若干の施与を受け、服飾は享保11年の倹約令によって男は茶筅髷、女は笄なき島田髷を結ばしめた[6]。平常良民より侮辱嫌厭されていたので良民と革田との間は相互に疾視し、時々闘争紛擾が起きた[6]。
半鐘を乱打しつゝ米屋を襲ひ米俵を川中に投込み警官も手の付け様なし広島市福島町の一揆は十二日夕七時頃再び蜂起し、米商を襲ひ一升二十銭乃至二十五銭の安売を強要しつゝ、西本川に軒を列(つら)ぬる米穀大問屋を襲ひ同所にては一升二十銭の安売りを要求し、これに応ぜざりし米店は忽(たちま)ち襲撃を受け米俵数十俵を担ぎ出して前の大川に投り込むの騒ぎを演ず — (『大阪毎日新聞広島版』1918年8月13日)
これらの記事で、福島町民の暴虐ぶりが強調された。
この節の加筆が望まれています。 |
西区役所前バス停(平和大通り沿い)と福島町バス停(広島県道265号伴広島線沿い)があり、広電バス[7]・広島バス[8]・ボンバス[9]が停車する。
1925年末の現住戸数・現住人口は789・3702[10]。2018年6月末現在の1丁目の人口・世帯数は937・578、2丁目は1,361・809[1]。
町名 | 人口 | 世帯数 |
---|---|---|
福島町一丁目 | 937 | 578 |
福島町二丁目 | 1,361 | 809 |
計 | 2,298 | 1,387 |
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