慶應義塾高等学校
神奈川県横浜市港北区にある慶應義塾大学付属の私立男子高等学校 ウィキペディアから
神奈川県横浜市港北区にある慶應義塾大学付属の私立男子高等学校 ウィキペディアから
慶應義塾高等学校(けいおうぎじゅくこうとうがっこう、英: Keio Senior High School)は、神奈川県横浜市港北区日吉4丁目に所在する私立男子高等学校。
略称は「塾高(じゅくこう)」、「慶應日吉高」など。高校野球では、原則として新字体を用いるため校名表記は「慶応」。
1898年(明治31年)に設立された旧制の慶應義塾普通学科は、のちに慶應義塾普通部と改称し、旧制中学校5年制に相当した。戦後の1948年(昭和23年)の学制改革で、慶應義塾普通部は新制中学校に名を留め、新制高等学校は新たに「慶應義塾第一高等学校」「慶應義塾第二高等学校」が設置された[注 1]。翌1949年(昭和24年)に第一・第二両校が統合され「慶應義塾高等学校」として発足した[2]。
慶應義塾が設置する一貫教育校の一つであり、塾内では慶應義塾大学とともに独立した一組織という位置付けとなっている。90%以上の卒業生が慶應義塾大学へ推薦入学しており、事実上は大学を中心とした附属校といえる。卒業すればほぼ全員が慶大に進学できるが、各学部ごとに定員が決まっており、学業と課外活動を総合した成績順で希望が考慮される。
特に医学部に入学するには、学年で上位20名程度の高い成績が必要となる(ただし、医学部側で成績の最低ラインが定められているわけではない。定員が22名であり、毎年のように希望者がこの人数を上回るため、事実上第一希望者のうち上位22位までに入る必要がある。この(事実上の最低)ラインが10段階評価で8.5~9.0辺りとなるのが通例)。
国会議員(現役)や一部上場企業社長(現役)等を務める卒業生の数が、全国の高校で最多であると、マスメディアで取り上げられることがある[3][4]。
入学者は、慶應義塾普通部の大半からの入学者(約240名)、慶應義塾中等部男子の大半からの入学者(約130名)の内部進学者、外部の中学校からの外部入学者(約370名)で構成される。一学年のクラス数はA組 - R組の18クラス、内部進学者数は年ごとに多少変動がある。2017年時点の1学年の人数は約720人、全校生徒は約2200人であり、マンモス校と見なされることがある[4]。
使用されている白亜の現校舎は元々は旧制大学予科の校舎で、1934年(昭和9年)に竣工。新制慶應義塾高校発足直前までGHQにより接収されていたという経緯をもつ。「かながわの建築物100選」に指定されており、建て替えや改築が禁止されている。
1948年 | 前年に公布された学校教育法に基づき、新制高等学校として「慶應義塾第一高等学校・第二高等学校」が発足。 三ノ橋校舎(麻布新堀町、中央労働学園専門学校校舎)にて授業を開始。 |
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1949年 | 「第一高等学校・第二高等学校」の名称を廃止し、「慶應義塾高等学校」となる。 同時に三田山上(1・2年生使用)を本校舎、三ノ橋校舎(3年生使用)を分教場とした。 アメリカ軍より日吉返還される。 アメリカ軍より返還された日吉(現第1校舎)へ移転。 授業を開始。 |
1949年11月 | 自治会・文連・体連の三者共催で第1回日吉祭を開催。 |
1951年3月 | 自治会がすべての任務を終了し、新たに生徒会して発足。 |
1951年4月 | 生徒会が第1回学園評議会を開催。 |
1952年4月 | 1・2年生が月島港より旅行に出発。 1年生は日帰りで千葉勝山から東京湾めぐり。 2年生は大島へ1泊旅行。 |
1952年5月 | 日吉の陸上競技場で第1回陸上運動会を開催。 |
1952年9月 | 全校で学校行事としての修学旅行に出発。 3年生は北海道、2年生は裏磐梯、1年生は草津の各方面へ。 |
1955年5月 | 「マムシ谷」にバスケットコート4面・バレーコート5面が完成。 |
1955年11月 | 第6回日吉祭が行われたが、初めて女子高と共同で開催。 |
1956年6月 | 9月の修学旅行を6月に移動。 3年生は北海道、2年生は北陸、1年生は東北の各方面へ。 |
1956年10月 | 第7回日吉祭開催。この年から後夜祭が行われるようになる。 |
1958年 | 完成した日吉記念館で慶應義塾創立百年記念式典を開催。 日吉祭実行委員会主催で初の関東高校学生招待会議を開催。 |
1959年3月 | 第10回卒業式を初めて屋内(日吉記念館)で開催。 |
1959年4月 | 初めての生徒手帳を作製し全員に交付。 |
1963年 | 日吉会堂が完成。名称は教職員・生徒からの公募で決定。 |
1963年6月 | 夏季略装でシャツ左胸部分に徽章を付けることになる。 新聞会発行の「ザ・ハイスクール・ニュース」第139号が高等学校新聞連盟第1回全国コンクールで最優秀紙に選出。 |
1968年10月 | 慶應義塾高等学校創立20周年記念式典を開催。 |
1970年5月 | 特別教育棟(現A棟)が完成。 |
1973年11月 | 特別教室棟にプラネタリウムを設置。 |
1984年3月 | 新棟(現B棟)・地下体育館が完成。 |
1990年11月 | A棟にコンピュータ教室を新設。 |
1994年4月 | 新カリキュラムが実施され、家庭科を設置。 |
1994年8月 | 旧美術室棟を改修し、体育科視聴覚教室兼美術科鍛金教室が完成。 |
1995年6月 | 中断していた招待会議が、本校・女子高ほか13校から94名が参加して開催。 スクールカウンセラーが生徒の相談を受ける相談室が設置。 |
1996年4月 | 従来の『生徒手帳』に代わり、本年度より本校での生活概要をまとめた『塾高ガイド』が新しく作られ生徒全員に配布。 これまで別々に発行されていた『永久機関』『丘の上』『若き血』が『新世紀』(1年生用クラブ紹介等)としてまとめられ、1年生に配布。 |
1999年2月 | 各学年で行われていた修学旅行をやめ、「選択旅行」形式に変更。 |
1999年5月 | 1年生の修学旅行が1泊2日の親睦旅行へと改められる。 |
2002年4月 | 1年生全員を対象としたBLS (Basic Life Support) 教育・普通救命講習が開始。 |
2003年1月 | 新たに推薦入学試験(募集人員約40名)が制度化され実施。 |
2003年4月 | 新カリキュラムが実施され、数学と英語の授業に習熟度別クラス編成を導入。 |
2003年4月 | 文部科学省のスーパーサイエンスハイスクール (SSH) に指定。 |
2005年4月 | 新カリキュラムへの完全移行に伴い、土曜日を休みとする週5日制が採用。 |
2005年4月 | 3年生による卒業研究論文の提出が必修化。 |
2009年4月 | 南側グランドが人工芝化。 |
2009年11月 | 蝮谷体育館が完成。 |
2013年4月 | 新1年生を対象に新カリキュラムが開始。 |
2018年8月 | 日吉協育棟が完成。建物の名称は「交流館」と「創造館」となる。 |
2022年4月 | 新1年生を対象に新カリキュラムが開始。 |
2023年8月 | 夏の甲子園で107年ぶりに優勝。 |
男子校の伝統でもある金ボタン5個仕様の黒詰襟学生服を制服としている。学帽も制定されているが、現在は自由化されている。[要出典]
卒業生のほとんどが慶應義塾大学に進学し、慶應義塾関係者(包摂して「社中」と呼ばれる)一体となって應援(塾内では、応援に対して特別の意味を込めるとき旧字体で表記する場合がある)が行われる。
應援では「若き血」「Titan」「Sirius」「烈火」「ダッシュケイオウ」などが歌われる。
2023年夏の甲子園で107年ぶりに優勝したが、そこで應援で使用された曲を以下に示す。基本的にこの順番で演奏される。
本大会の應援では、通常行う「我ぞ覇者」「Blue Sky Keio」などの曲は省略されている。
これらの應援は、「應援指導部」/「吹奏楽部」/「女子高バトン部」の「應援3部」によって先導される。また、大学では「慶應義塾体育会應援指導部」(チアリーディング部 (Majorettes)/吹奏楽団の2部門と各種ツールで構成される)が単独で「應援3部」の役割を担っている。
なお「慶應義塾塾歌」とは別に、塾高独自の校歌(「慶應義塾高等学校の歌」:村野四郎作詞、服部正作曲)が存在する[7]。野球の試合(県大会や甲子園)で塾高が対戦校に勝利した際は、塾歌が「慶應義塾高校校歌」として歌われる。
明文化された校則はほとんどない。しかし、トイレで同個室に複数人で入ると停学処罰される(喫煙防止が目的:通称「ワンボックス」)、カーディガン禁止(英国紳士は自宅でしかカーディガンを着ないという理由だとも言われるが、教員でさえ正確には分かっていない)など、ユニークな校則もある。[要出典]
授業は1日6時限(1時限50分)で週5日制。8:20から授業開始、終了は14:50である。HRは木曜日の7時間目にある。
2年次より第二外国語、3年次より選択教科目が導入されている。3年次に「卒業研究」(大半の講座は論文形式)が卒業の要件として義務付けられている。
2003年から2008年まで文部科学省指定のスーパーサイエンスハイスクールに指定されていた。
慶應義塾では水泳が大学や小・中で重視されているが、高校では水泳の授業はない。プールは部活動施設として利用されている。
一般入試と推薦入試の2つがある。
卒業生のほとんどが、慶應義塾大学に推薦入学する[8]。
六大学野球慶早戦が行われるとき、慶早戦が1勝1敗で月曜日以後に持ち越しとなった際には決着が付くまで休講となる(現在はカリキュラム変更に伴い、優勝が懸かった場合のみ休講)など、独自の文化に根ざした運営を行っている。
日吉祭(文化祭)は、毎年11月に行われる。来場者数は2日間で1万人を超える。
全校的学外活動としては、一般の修学旅行に当たる選択旅行がある。選択旅行に参加しないと卒業できない。
部活動には文化系と体育系がある。参加する生徒が多く、とても盛んである。
ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ、ギター・アンサンブル、クイズ研究会、ディベート部、フォトフレンズ、マンドリンクラブ、ライブラリー・クラブ、仏教青年会、化学研究会、吹奏楽部、地学研究会、奇術部、情報科学研究会、放送研究会、数学研究会、文芸部、映画部、書道部、棋道部、楽友会、演劇部、漫画研究会、生物学研究会、福澤研究会、美術部、英語会 (E.S.S.)、茶道部、鉄道研究会、電子工学研究会、音楽鑑賞会。
アメリカンフットボール部、ゴルフ部、サイクリング部、スキー部、スケート部(スピード)、スケート部(フィギュア)、スケート部(ホッケー)、ソッカー部(サッカー)、ソフトテニス部、ハンドボール部、バスケットボール部、バスケットボール部B、バドミントン部、バレーボール部、バレーボール部B、フェンシング部、ホッケー部、ボクシング部、ヨット部、ラクロス部、レスリング部、剣道部、柔道部、空手部、合氣道部、少林寺拳法部、卓球部、器械体操部(トランポリン)、器械体操部(器械体操)、射撃部、山岳部、庭球部、弓術部(和弓)、應援指導部、拳法部、水泳部(水球)、水泳部(競泳)、水泳部(葉山)、水泳部(飛込)、洋弓部(アーチェリー)、相撲部、端艇部(ボート)、競走部(陸上競技)、自動車部、航空部、蹴球部(ラグビー)、軟式野球部、重量挙部、野球部、馬術部。
1888年創部の三田ベースボール倶楽部を起源とする。1948年の高等学校開設とともに高等学校野球部となり、現在に至る。旧制時代は慶應義塾普通部と慶應義塾商工学校が別にあり、選手権大会ないし選抜大会にはいずれかの野球部が出場していたため、現在の高等学校野球部としては旧両校の出場回数を合算した上での出場回数となっている。また、高校野球の応援席で男子校としては珍しく、女子高バトン部も應援指導部、吹奏楽部とともに応援に参加している。
部訓は「エンジョイ・ベースボール」。自由かつ伸び伸びと野球を楽しむことを日頃から重視している。髪型も自由[注 3]としており、実際に坊主頭でない部員も多い[9][10]。
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