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日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから
宮本 恒靖(みやもと つねやす、1977年2月7日 - )は、大阪府富田林市出身の元サッカー日本代表選手。FIFA Master修了。日本サッカー協会・第15代会長。
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2006年5月 内閣総理大臣官邸 | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ツネ、ツネ様、バットマン | |||||
カタカナ | ミヤモト ツネヤス | |||||
ラテン文字 | MIYAMOTO Tsuneyasu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1977年2月7日(47歳) | |||||
出身地 | 大阪府富田林市[1] | |||||
身長 | 176cm[1] | |||||
体重 | 72kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1992-1994 | ガンバ大阪 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1995-2006 | ガンバ大阪 | 295 | (7) | |||
2006-2009 | レッドブル・ザルツブルク | 21 | (0) | |||
2009-2011 | ヴィッセル神戸 | 42 | (1) | |||
通算 | 358 | (8) | ||||
代表歴2 | ||||||
1993 | 日本 U-17 | 4 | (0) | |||
1997 | 日本 U-20 | 5 | (0) | |||
2000 | 日本 U-23 | 1 | (0) | |||
2000-2006 | 日本[2] | 71 | (3) | |||
監督歴 | ||||||
2017-2018 | ガンバ大阪U-23 | |||||
2018-2021 | ガンバ大阪 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月31日現在。 2. 2006年6月18日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。
2002年と2006年にはFIFAワールドカップに出場し、キャプテンを務めた。
2013年7月19日、第13期FIFAマスターを卒業し、元プロ選手としては2人目、日本人元プロ選手としては初めてのFIFAマスター卒業生となった[3]。
日本サッカー協会(JFA)の専務理事を経て、現在は日本サッカー協会(JFA)の第15代会長を務める。
大阪府富田林市出身。サッカーを始めたのは富田林市立伏山台小学校5年生。ポジションはフォワードだった。サッカーを始めるまでは、地区の少年ソフトボールをしていた。地元の富田林市立金剛中学校に進学、同校にてサッカーの指導を受けて技術を向上、サッカーを始めてから約3年後の中学2年生時「第14回全日本選抜中学生大会」(現・14歳以下ナショナルトレセン)、日本ジュニアユース代表候補(現・U-15代表候補)合宿に招集。中学校2年生時「大阪府英語暗唱大会」で優勝。
大阪府立生野高等学校時代はガンバ大阪ユースに所属し、上級生がいなかったため初代キャプテンに就任。[4]、ユースチーム卒業までの3年間務めた。ユースでは1994年12月にJユースカップで優勝し初めてのタイトルを得た[4]。1993年にはU-17日本代表に選ばれ、日本で開催された1993 FIFA U-17世界選手権に出場しベスト8の成績をおさめた。[5]。U-18ジュニアユース(監督・山本昌邦)招集された。
1995年6月24日、ガンバ大阪のトップチームにクラブでは初めて昇格し[4](同期入団は實好礼忠、森下仁志、中口雅史、高木健旨、松山明男)、スイーパーとして活躍。プロ契約後、数年間中々出場機会に恵まれず、ポジションも頻繁に変わりプロ選手として苦悩する事になる。同時期に同志社大学経済学部に進学。労働経済学のゼミに所属し、2001年に卒業した。
1996年から1998年頃、当時のクゼ、アントネッティ両監督にはボランチで起用されたこともあった。初ゴールは1997年10月4日、同年オールスター戦にも初選出されキャプテンを務める[4]。2000年にトップチームの主将に就任、オールスター戦にJ-EASTとJ-WESTの両チーム合わせての得票1位で選出(2002年も1位選出される)[4][注釈 1]。2001年1月にイングランドサッカーのトップリーグであるプレミアリーグに所属していたウェストハム・ユナイテッドFCへの移籍を試みたが、イギリス政府から労働ビザが発給されずに断念した。このゴタゴタで、背番号が5から35になった[4][注釈 2] が、2003年からは再び5番に戻った。2002年に就任した西野朗監督にはセンターバックで起用され、山口智・シジクレイ・デ・ソウザと3バックを形成した。2004年度には再び主将に就任。2005年12月3日、リーグ最終節の川崎フロンターレ(等々力陸上競技場)戦ではヘディングシュートを決め、クラブ初、自身にとっても初となるJリーグ優勝のタイトルを得て、ピッチ上で号泣した[4]。
2006年シーズン終了後、オーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクに1年間の契約で完全移籍し[6][7]、初年度にリーグ優勝を果たした。
レッドブル・ザルツブルクでは、4バックの左右どちらのセンターバックもこなし、2007-08年シーズンからはSKラピード・ウィーン戦(12月7日)、SKシュトゥルム・グラーツ戦(12月15日)などで左サイドバックとしてもスタメン出場した。宮本本人は自らのブログで10年ぶりにこのポジションでプレーしたと振り返っている[8]。
2007年12月には、2009年6月までの1年半の契約延長に合意した。
2008年1月、チームでの練習中に左太腿裏の腱断裂の怪我を負い、現地で手術、リハビリに務めることになった。6月に本格的に練習再開、8月17日には8か月ぶりに公式戦出場を果たす。同年10月28日のオーストリア協会カップ3回戦では海外移籍後初のキャプテンを任され、フル出場した。 前任者のジョバンニ・トラパットーニ監督時代と違い、コー・アドリアーンセ新監督が就任してからは試合出場機会が減少した。
2008-2009シーズンはアドリアーンセ監督が攻撃戦術を採用した影響もあり、リーグ戦は1試合も出場機会がなかった[9]。そのため、ザルツブルクとの契約は6月まで残っていたものの出場機会を求めて移籍を検討。クロアチアリーグやオーストリア国内のクラブからもオファーが届いていたが[10]、欧州での経験を日本で生かしたいという思いから、複数年契約や高額年俸を用意するなど熱心に誘いのあったヴィッセル神戸入りを決めた[4][9]。
2009年1月15日、ヴィッセル神戸が、ザルツブルクとの間で完全移籍に合意したと発表した。神戸入団後に主将に就任[11]。2009年の序盤戦はセンターバックで、2009年の後半はボランチの位置でプレーするようになった。同年7月18日のJ1リーグ第18節川崎戦では自身初となるバイシクルシュート(オーバーヘッドキック)を決め、これが宮本のプロ選手生活で最後の公式戦ゴールとなった。2010年および2011年は北本久仁衛と河本裕之をバックアップする控えのセンターバックとしてプレーし、出場機会は減った。2011年はJ1リーグ戦で4試合出場のみ、うち先発は第23節の福岡戦(レベスタ)と公式戦最終出場試合ともなった最終節の仙台戦(ユアスタ)の2試合だったが、残る30試合でも全てベンチ入りをしていた。
2011年のシーズン終了後、宮本は神戸側から出されていた契約延長の申し出を固辞。12月19日に現役引退を表明した[1][4][12]。また、引退後に国際サッカー連盟(FIFA)がスイスで運営する「FIFAマスター」(「スポーツに関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際修士」の大学院コース)で学び、また、コーチングライセンスの取得を目指す意向を示した[13]。
1997年にU-20日本代表に選出され、ワールドユースでキャプテンとして5試合に出場。
シドニー五輪を目指すU23代表でもフラット3の中心を担うと、2000年6月18日のキリンチャレンジカップ・ボリビア戦で日本代表初出場。シドニー五輪本大会ではオーバーエイジで加わった森岡隆三に押し出されベンチメンバーとなるが、森岡が累積警告による出場停止となったグループリーグ第3戦のブラジル代表選でスタメン起用される。
その後A代表の常連となるが、フラット3の中央には森岡が絶対的なレギュラーとして君臨しており、宮本はその控えの立場であった。2002年日韓W杯を前に森岡が怪我で一時離脱した際に出場した試合で不安定なプレーを繰り返したうえに、大会直前の静岡産業大学との練習試合で競り合った際に相手FW松下和磨の肘が顔に入り鼻骨骨折すると、森岡の復帰を待望する声が大きくなる。森岡が本大会に間に合わせる形で復帰したため、控えに戻った宮本だったが、初戦のベルギー戦で森岡が再び負傷してしまった事により緊急で途中出場。同点ゴールを献上してしまった事もあり、宮本のプレーを不安視する声もあがるが、次戦以降は不安視を一蹴するほどの獅子奮迅の活躍を見せ、日本代表初のベスト16進出に貢献。また、前述の鼻骨骨折により顔面を保護するために兵庫医大病院が用意した医療器具のフェイスガード(ノーズガード)を付けてのプレーとなったが[14]、その姿を見た海外のメディアから、バットマンと渾名された[15][注釈 3]。
トルシエ後のジーコJAPANでは、発足時よりキャプテンを務めた中田英寿が故障で離脱して以降、出場した試合全てのキャプテンを務めた。代表初ゴールは2004年2月7日のマレーシア戦。同年のアジアカップ準々決勝のヨルダン戦のPK戦では、中村俊輔と三都主アレサンドロが外したことで窮地に陥ると、マレーシア出身のスブヒディン・モハマド・サレー主審に、「これはフェアじゃない。ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしでPKの位置変更を申し入れ、前代未聞のPK戦途中でのサイド位置を実現させた[16]。この結果、川口能活のファインセーブもありこのPK戦を制すると、日本代表は2大会連続のアジア制覇を果たし、自身も大会ベストイレブンに選出された。
2006年、自身2大会連続2度目のワールドカップ出場となった2006年ドイツW杯では、第1戦(オーストラリア戦)と第2戦(クロアチア戦)はフル出場したが、第3戦(ブラジル戦)は累積警告により出場出来なかった。ドイツW杯以降は代表に選出されなかった為、クロアチア戦がA代表最後の出場となった。
日本代表ではU-17からA代表に至るまでの全カテゴリでキャプテンを務めた[17]。
現役引退後は、FIFAマスター入学に向けての準備に励む傍ら、サッカー教室などを開催したり、NHKやWOWOWのサッカー中継にゲスト解説者として登場。2012年ロンドンオリンピックの期間中には、ジャパンコンソーシアムの男女サッカー中継に解説者として出演した。
2012年4月17日に自らの公式サイト内のブログで、FIFAマスター第13期生への合格を公表した。日本人の元プロサッカー選手では初めての合格で、2012年9月17日に入学した[18][19]。卒業してからも、引き続き欧州にて指導者資格の取得を目指す可能性があることを表明している[20]。
2013年7月19日、2012-2013年FIFAマスター第13期生修了式が行われ、宮本恒靖を含め24か国の生徒が卒業した[3]。日本人は2013年7月19日時点で、宮本を含め通算9名ほどがFIFAマスターを卒業している。元プロサッカー選手の卒業生は2名で、日本人元プロサッカー選手としては宮本が初めてである[21]。
なお、ロンドンオリンピック開幕直前の2012年7月16日には、ホームズスタジアム神戸で引退試合を開催。ガンバ・ヴィッセル・日本代表時代のチームメートが多数参加したほか、中田英寿や宮本の長男もサプライズで登場した。この試合はスカチャン、BSスカパー!で生中継されたほか、同月22日の深夜には、この試合のダイジェストを中心に構成された特別番組『宮本恒靖引退試合スペシャル〜日本のキャプテン17年の歩み〜』が、毎日放送で放送されている。
FIFAマスター取得後の2013年10月、ベースボール・マガジン社発行のサッカー専門誌「サッカーマガジン」のリニューアル(週刊から月刊の「サッカーマガジンZONE」に移行)[22] に伴い、特別編集長を委嘱される[23]。
2014年1月31日より、日本プロサッカーリーグにリーグ運営の円滑化を目的として新たに設置される、議決権を持たない特任理事(非常勤)に就任[24]。
2014年4月4日、2014年ブラジルW杯テクニカルスタディーグループ10名のうちの1人(試合を分析し、技術や戦術、傾向などを分析し、試合ごとのテクニカルリポート及び大会の総括リポートを作成するグループ。指導改善や強化に役立てる。W杯では、1966年イングランドW杯から導入)に内定したと発表された[25]。
2015年、古巣・G大阪のアカデミーコーチングスタッフに就任[26]。ジュニアユースチームのコーチを務めるかたわら、トップチームの指導に必要な日本サッカー協会公認S級コーチライセンスの講習を受けた[27]。また、シーズン終了後には、Jリーグの功労選手賞を受賞した[27]。
2016年、G大阪ユースの監督に就任[27]。1月21日には、日本サッカー協会の理事会で、S級コーチライセンスの取得を認められた。前年の講習を受講した21名の中で、最も早い認定であった[27]。9月1日、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルで計画していたサッカーによる民族融和を進める為、7歳から12歳の男女を対象としたサッカー・アカデミー「マリ・モスト(小さな橋)」の施設がほぼ完成して、10月9日に開校して引き渡し式も行われる予定である。
2017年、J3・G大阪U-23の監督に就任。3月12日の開幕戦(対ガイナーレ鳥取)では、代表でチームメートだった森岡隆三と監督として対戦した。翌年もG大阪U-23の指揮を執っていたが、同年7月23日、同日に解任が発表されたレヴィー・クルピの後任として、トップチームの監督に就任した[28]。コミュニケーション力を発揮し[29]、チーム全体の事だけでは無く一人一人の役割についても分かり易く細分化して選手に伝えて、仕事に全うできる状況を作り上げた[30]。その結果チーム成績も向上し、第25節から第33節にかけて9連勝を記録するなど10勝3分4敗の成績を残し、就任時の16位から9位にまで順位を浮上させた。2019年はリーグ7位で終えると、2020年はリーグ2位・天皇杯準優勝の実績を残した。
2022年3月、日本サッカー協会理事に就任[33]。新設の会長補佐と国際委員長を兼務。2023年2月1日には専務理事に就任。
2023年12月24日、2024年3月をもって最終任期で会長を退任する田嶋幸三の後任として、3月24日付で第15代日本サッカー協会会長に史上最年少で就任した。元プロサッカー選手、元Jリーガー、ワールドカップ出場経験者として初めてのサッカー協会会長となる[34]。
父 宮本恒明は、東大卒の元関西電力常務取締役で、独立行政法人造幣局監事[35] を経て、現在は一般財団法人関西電気保安協会理事長。恒靖の父であることから、2007年度イエローリボン賞(第1回ベスト・ファーザー in 関西)を受賞している[35]。
母 宮本弘子は元英語教師[36]で、元堺市市民人権局理事・教育委員会学校教育部長[14]。
3歳年上の姉がひとりいる[37]。
英語が堪能であり2004年のアジアカップでPK戦で審判にピッチについて英語で抗議し、PK戦を行うゴールを変えさせたエピソードがある。英語は、留学等を経ず中高の公教育のみで習得している[39]。ただし母が英語教師だったこともあり指導を受けていた[40]。
向かってくる相手攻撃陣の次のプレーを予想する読みのするどさと、ピンチのときでも率先して味方選手をひっぱるリーダーシップを持ち、所属していたガンバ大阪でも日本代表でもディフェンス陣のリーダーとして活躍した[41]。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1995 | G大阪 | - | J | 11 | 0 | - | 4 | 0 | 15 | 0 | |
1996 | 13 | 0 | 7 | 0 | 2 | 0 | 22 | 0 | |||
1997 | 20 | 26 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 33 | 1 | ||
1998 | 32 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 37 | 0 | |||
1999 | J1 | 30 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 | ||
2000 | 5 | 29 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 33 | 0 | ||
2001 | 35 | 24 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 29 | 0 | ||
2002 | 20 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 24 | 1 | |||
2003 | 5 | 26 | 1 | 5 | 1 | 2 | 0 | 33 | 2 | ||
2004 | 24 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 25 | 0 | |||
2005 | 30 | 3 | 4 | 0 | 2 | 0 | 36 | 3 | |||
2006 | 30 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 35 | 1 | |||
オーストリア | リーグ戦 | リーグ杯 | オーストリア杯 | 期間通算 | |||||||
2006-07 | ザルツブルク | 17 | ブンデス | 9 | 0 | - | 1 | 0 | 10 | 0 | |
2007-08 | 12 | 0 | - | 0 | 0 | 12 | 0 | ||||
2008-09 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | 2 | 0 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2009 | 神戸 | 14 | J1 | 32 | 1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 39 | 1 |
2010 | 6 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 12 | 0 | |||
2011 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | |||
通算 | 日本 | J1 | 337 | 8 | 43 | 1 | 32 | 0 | 412 | 9 | |
オーストリア | ブンデス | 21 | 0 | - | 3 | 0 | 24 | 0 | |||
総通算 | 358 | 8 | 43 | 1 | 35 | 0 | 436 | 9 |
その他の国際公式戦
注:2002年5月7日、国際Aマッチではない親善試合として、レアル・マドリード対日本代表戦が行なわれた。したがって、日本代表としての出場試合数は72となる。
# | 開催年月日 | 開催地 | スタジアム | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
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1. | 2004年2月7日 | 鹿嶋 | 茨城県立カシマサッカースタジアム | マレーシア | ○4-0 | キリンチャレンジカップ2004 |
2. | 2004年9月8日 | コルカタ | ソルトレイク・スタジアム | インド | ○4-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
3. | 2005年2月2日 | 埼玉 | 埼玉スタジアム2002 | シリア | ○3-0 | キリンチャレンジカップ2005 |
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