四天王寺
大阪市天王寺区にある仏教寺院 ウィキペディアから
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四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。山号は荒陵山(あらはかさん)。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。
四天王寺 | |
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中心伽藍回廊 | |
所在地 | 大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目11-18 |
位置 | 北緯34度39分14.04秒 東経135度30分59.22秒 |
山号 | 荒陵山(あらはかさん、こうりょうざん) |
宗旨 | 天台宗 |
宗派 | 和宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 救世観音 |
創建年 |
推古天皇元年(593年) (『日本書紀』による) |
開基 | 聖徳太子 |
正式名 | 荒陵山金光明四天王大護國寺 |
別称 |
荒陵寺 難波大寺 御津寺(みとでら) 堀江寺 |
札所等 |
新西国三十三箇所第1番 西国三十三所番外霊場 西国薬師四十九霊場第16番 近畿三十六不動尊霊場第1番 摂津国八十八箇所第25番 摂津国三十三ヶ所第33番 おおさか十三仏霊場第4番 大阪七福神(布袋尊) 河内飛鳥古寺霊場第1番 なにわ七幸めぐり 大坂三十三所観音めぐり第20番 - 24番 聖徳太子霊跡第1番 法然上人二十五霊場第6番 西山国師遺跡霊場客番札所 四国八十八箇所番外霊場 役行者めぐり 神仏霊場巡拝の道第43番(大阪第2番) |
文化財 |
紙本著色扇面法華経冊子5帖、七星剣、四天王寺縁起ほか(国宝) 六時堂、元三大師堂、絹本著色両界曼荼羅図ほか(重要文化財) |
公式サイト | 和宗総本山 四天王寺 - 日本仏法最初の官寺 |
法人番号 | 2120005001046 |
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている[1]。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった[2]。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである[3][4]。 四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
『書紀』の推古元年是歳条には「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあって、「是歳」が造営の開始を意味するものか完成を意味するものか定かでなく、めでたい「元年」を造営の年にしたものとも考えられている[5]。ただし、四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている。前期難波宮(難波長柄豊碕宮、現・大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦と見なされている。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことが分かる。四天王寺の創建瓦の中には、斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある。若草伽藍と四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者の文様がシャープであるのに対し、後者は瓦当笵に傷が見られる。このことから、若草伽藍の造営が先行し、同伽藍の造営が落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営の工房へ移動したことが分かる[6]。
四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である若草伽藍の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる。
当初の四天王寺は現在地ではなく、上町台地の北部に位置する玉造(JR森ノ宮駅付近)の岸上にあり、推古天皇元年(593年)から現在地で本格的な伽藍造立が始まったという解釈もある(鵲森宮の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったとするが、鵲森宮が元四天王寺の存在を示す根拠に挙げる「難波古絵図」には、石山(現・大阪城本丸)の東隣に「天王寺跡」が描かれており、天王寺跡と接する東の河川が現在の大阪城東外堀であることから「元天王寺」は現在の大阪城二の丸梅林付近に存在したこととなり社伝と矛盾している)。また、建立の動機も、丁未の乱で敗死した物部守屋とその一族の霊を鎮めるため、とりあえず守屋の最後の拠点の玉造の難波邸宅跡(元大阪樟蔭女子大教授今井啓一は鵲森宮が難波の守屋の宅跡と推測する[7])に御堂を営んだ6年後、荒陵の地に本格的な伽藍建築が造営されたのだとされる。現在四天王寺には守屋祠(聖徳太子の月命日22日に公開。物部守屋、弓削小連、中臣勝海を祀る)があり、寺の伝説には守屋が四天王寺をキツツキになって荒らしまわり、それを聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っており[8]守屋らの社を見下ろす伽藍の欄干に太子の鷹の止まり木が設置されているなどから、御陵社の意味合いを推察する向きもある。
山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な古墳があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の石棺が利用されていることはその傍証とされている。例えば、大阪市住吉区にある帝塚山古墳は、「大帝塚山」、「小帝塚山」と地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学校の敷地内にあったといわれている。また、東高津宮は、仁徳天皇の皇居であるとする1898年(明治31年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
現在の大阪市東淀川区豊里の東部は、元は西成郡天王寺庄村といった。四天王寺の建立予定地であったという伝承による。なお、8世紀の西成郡と隣接する東生郡の郡領は、吉士系で占められていたとする推察がある[9]。
20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある[10]。また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、孝徳朝創建説[11]、阿倍氏創建説[12]、難波吉士氏寺説[13]があり、加藤謙吉は孝徳朝以降の造営事業は「少なくとも四天王寺を豪族の私寺的なものとみることはできない[14]」とする。
四天王寺七宮(してんのうじしちみや)は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として近辺に造営された神社群である。大江神社、上之宮神社、小儀神社、久保神社、土塔神社、河堀稲生神社、堀越神社の7つで、これらの神社を産土神とする7つの集落が東成郡天王寺村となった。
伝承によれば、聖徳太子は四天王寺に「四箇院」(しかいん)を設置したという。四箇院とは、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つである。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園および薬局・病院に近く、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための今日でいう社会福祉施設である。施薬院、療病院、悲田院は少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られる。
法隆寺が飛鳥時代・奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対し、四天王寺は度重なる災害のため、古い建物はことごとく失われている。早くも平安時代の承和3年(836年)には落雷で初代五重塔が破損し、天徳4年(960年)には火災によって全山焼失している。
聖徳太子は日本仏教の祖として、宗派や時代を問わず広く信仰されてきた。太子の創建にかかる四天王寺は、平安時代以降、太子信仰のメッカとなった。また、四天王寺の西門が西方極楽浄土の東門(入口)であるという信仰から、浄土信仰の寺としての性格も加えていった。太陽の沈む「西」は死者の赴く先、すなわち極楽浄土のある方角と信じられ、四天王寺の西門は西方の海に沈む夕陽を拝する聖地として、多くの信者を集めた。現在も寺に伝わり国宝に指定されている『四天王寺縁起』は、こうした信仰を広めるのに大いに力があった。『四天王寺縁起』は伝承では聖徳太子の自筆とされ、寛弘4年(1007年)、金堂内で発見されたとするが、実際には後世の仮託で、発見時からさほど隔たらない平安時代中期の書写とするのが通説である。既述の「四箇院」のこともこの「縁起」に見えるものである。
院政期の上皇や法皇は四天王寺にしばしば参詣した。後醍醐天皇は上述の『四天王寺縁起』を自筆で筆写し、巻末に手印を捺している。これは「後醍醐天皇宸翰(しんかん)本縁起」として現存し、国宝に指定されている。平安から鎌倉時代の新仏教の開祖である天台宗の最澄、真言宗の空海、融通念仏の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などが四天王寺に参篭したことも知られている。
康安元年(1361年)には金堂が地震で倒壊し、後に復興したが、応仁の乱の際には大内政弘によって放火されている。
天正4年(1576年)5月3日には織田信長による大坂本願寺攻め、いわゆる石山合戦のうちの天王寺の戦いにより、天王寺砦(現・天王寺区生玉寺町)に駐屯する織田軍に火を掛けられて全焼している。その上、寺領を全て没収された。
天正12年(1584年)には金堂が再建され、復興の足掛かりとなった。文禄3年(1594年)から豊臣秀吉によって復興が行われると、単層の金堂が重層に改築され、その他の堂舎も再建された。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって大和国額安寺から五重塔が移築され、4代目の五重塔としている。また、庚申堂なども再建されている。翌慶長6年(1601年)10月には秀頼によって千石が寄進されている。
しかし、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣に巻き込まれ、11月6日に豊臣方によって放火された町の火が飛び火して全焼してしまった。
だが、徳川家康が復興に乗り出すと、その死後は息子の徳川秀忠により再建事業が進められ、元和3年(1617年)に準備に入ると元和4年(1618年)9月に釿始めが行われて本格的に再建が始められた。片桐貞隆、赤井忠泰、甲斐庄正房、小沢休務の4名が普請奉行に任じられている。こうして5代目五重塔や伽藍が復興され、その他の堂も江戸幕府の援助で再建されて元和9年(1623年)9月21日ようやく完成を見たが、享和元年(1801年)12月5日の落雷で五重塔や金堂を始めとして境内の東半分が焼失した。
大坂白銀町の町人淡路屋太郎兵衛が中心となって文化10年(1813年)に6代目五重塔や伽藍が再建された。しかし、文久3年(1863年)に聖霊院が焼失している。
明治時代になると神仏分離が行われ、四天王寺の鎮守社であった安居神社が分離・独立した。また、南大門の脇にあった十五社が和光堂という仏堂に改められている。廃仏毀釈も進められ廃絶する子院も出るなか、1871年(明治4年)に主要伽藍以外の境内地が上知令で国有化され、1873年(明治6年)に公園化されて新たに桜が植えられた。そんな中でも1879年(明治12年)には聖霊院が再建されている。
1901年(明治34年)5月31日には公園地から解除され普通の国有地に変更されたため、これ以上の公園化は食い止められた。
文化10年(1813年)に再建された伽藍は昭和期まで残っていたが、1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風でまず中門が倒壊し、そのために五重塔が強烈な風をまともに受ける形となった[15]。これによって当時は展望台ともなっていた6代目五重塔は金堂に倒れ掛かるようにして倒壊し、金堂も大被害を受けた。逃げ遅れた参詣者など15人が犠牲となっている。
7代目五重塔は1940年(昭和15年)5月22日に再建された。内部の壁画と柱絵は堂本印象により描かれ、屋根は銅瓦葺きであった。
しかし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で国宝の東大門や庚申堂の他、中心伽藍もろとも五重塔は焼失した。7代目五重塔はわずか5年の命であった。
1946年(昭和21年)に天台宗から独立して和宗を創設し、総本山となった。1948年(昭和23年)には国有地となっていた境内地が四天王寺に譲与されている。
1950年(昭和25年)9月3日、ジェーン台風により新たな金堂が崩壊する。逃げ遅れた参詣者2人が下敷きとなり1人が死亡している。この金堂は、18世紀に六時堂の北に建築された食堂を戦後に移築したものであった。収蔵されていた仏像は無傷のまま回収された[16]。
現存の中心伽藍は1957年(昭和32年)から再建にかかり1963年(昭和38年)に完成したもので、五重塔はこれで8代目となる。鉄筋コンクリート造であるが、飛鳥建築の様式を再現したものである。
1972年(昭和47年)6月23日、祈祷所「萬燈院」が火災に遭う。建物は椎寺にあった薬師堂を戦後に移築したもの。建物内にあった十一面観音像などは消火の放水で濡れたものの無事[17]。
2020年(令和2年)4月8日、大阪市が新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、閉鎖を決めた。期間は6月8日までである。同寺を閉鎖するのは創建以来初めてのことである[18]。
境内中央南寄りに回廊に囲まれた中心伽藍があり、その北に六時堂(六時礼讃堂)、東に聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)がある。境内西部の一画は四天王寺中学校・高等学校の校地となっている。境内の北側は、東方が庭園のある本坊、西方が墓地となっている。境内南端と東端の入口にはそれぞれ南大門、東大門が建つが、西の入口には門ではなく石鳥居が建ち、西大門はその鳥居をくぐった先(東)に建つ。南大門が本来の正門であるが、「極楽浄土の入口に通じる」と信じられた石鳥居からの参拝者も多い。
中心伽藍は南から北へ中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲したものとなっている。これらは第二次世界大戦後に再建され、1963年(昭和38年)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築だが、日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。設計は建築史家藤島亥治郎[19]。
※他に旧国宝建造物の(旧)東大門があったが、第二次大戦時空襲で焼失している。
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
四天王寺境内亀井水の白石玉手の霊水で練り上げ精製された線香。登録商標。
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