吉士
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吉士(きし)は、日本古代のヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)あるいは氏の一つ。「吉志」・「吉師」・「企師」とも表記される。
古代朝鮮において「王」・「首長」を意味する称号「於羅瑕」(「鞬吉支」)[1]が渡来人の称号として日本で用いられ、やがてそれが姓となり、また氏ともなったらしい。本居宣長の『古事記伝』によると、新羅の17等の京位(中央役人の官位)中の14位である、「吉士」に由来するとなっており、「稽知」、「吉之」、「吉次」とも表記されている(金石文によると、新羅の官位制は6世紀初頭には成立していた)。
渡来系氏族が多く、難波周辺を本拠としていた。この姓を持つ氏族としては
の3つの流れがある。
『日本書紀』巻第十三には、安康天皇によって誅された大草香皇子に殉死した難波吉師日香蚊(日香香、なにわ の きし ひかか)父子の話が見え(西暦に換算すると454年)[4]、巻第十四には雄略天皇がその「日香香」の子孫を捜し出し、「大草香部吉士」にした(同じく470年)[5]、とある。この記事は、難波吉士氏の一族が「草香部吉士」に改姓した、あるいは「草香部吉士氏」が「難波吉士氏」の分流として成立したことを示している。また同巻には、雄略天皇8年(464年)に「日本府行軍元帥」に任命された人物として難波吉士赤目子(なにわの きし あかめこ)が見える[6]。巻第十八、安閑天皇2年(535年)には、「難波吉士」が登場し、「屯倉の税(たちから=田租)を主掌(つかさど)らしむ」と記されている[7]。
巻第二十二には、推古天皇5年11月(597年)に新羅に派遣された「吉士磐金」(きし いわかね)[8]が同6年4月(598年)に帰国し、鵲2羽を献上したとあるが、そこには「難波吉士磐金」と表記されており[9]、聖徳太子没(622年)後の同31年(623年)に再度新羅に派遣された時には「吉士磐金」となっている[10]。さらに、巻第二十四の皇極天皇元年2月(642年)には、舒明天皇の弔使(とぶらい)の所に遣わされた「草壁吉士磐金」の名があり[11]、「吉士磐金」と同一人物と見ることができる。同様の事例として
以上のことから、「難波吉士」とは一族の名前ではなく、いくつもの氏族の集合体ではなかったのか、と考えることもできる[16]。
「吉士」姓一族については、敏達天皇6年5月(577年)、小黒吉士(おぐろのきし)が百済に派遣されており[17]、遣隋使・初期の遣唐使に任命されたものも数多い。「吉士」姓氏族は6世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島諸国(百済・新羅・任那)や中国の南朝・唐などの諸国へ使者として派遣され、これら諸国の使節の迎節も担当し、対外交渉の役割を担った。7世紀後半には他の氏族(西文氏や史姓の氏族)からも登用され、この方面での「吉士」の役割はなくなった。
天武天皇10年1月(681年)に大山上の草香部吉士大形(おおかた)が小錦下の位と「難波連」の氏姓を賜り[18]、同12年10月(683年)には「草壁吉士氏」が「三宅吉士氏」らとともに「連」の姓を与えられた[19]。同13年10月1日(684年)に八色の姓が制定され[20]、12月には上述の三宅連一族が「宿禰」姓を[21]、翌14年6月(685年)には難波連一族が「忌寸」の姓を授けられている[22]が、残りは「連」・「吉士」姓のままであった。
「吉士」は8世紀以降も摂津国東成(ひがしなり)・西成(にしなり)両郡の氏族として存続し、難波館(なにわのむろつみ)での外交儀礼を管掌した。『北山抄』によれば、阿倍氏に率いられ、大嘗祭(だいじょうさい)の際には、吉志舞を奏上した、という。『続日本紀』巻第二十六によると、天平神護元年閏10月(765年)、称徳天皇は道鏡に太政大臣禅師の位を授与したのちに、弓削寺に行幸して、唐・高麗の楽と「黒山企師部」の舞を演奏させた、という[23]。
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