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広島市中区の町 ウィキペディアから
加古町(かこまち)、住吉町(すみよしちょう)は、広島県広島市中区の町名である。元安川と本川に挟まれたデルタにおいて、北の中島町と南の吉島地区の間に位置する。
この2町は第二次世界大戦後の町名変更まで「水主町」(かこまち)として1つの町にまとめられており、旧町名は広島藩の水軍要員として編成された水夫(水主/かこ)が集住していたことに由来する(加子町とも)。水主町は太田川上流の芸北地域と広島湾を結ぶ水運の分岐点として物資の集散地の位置を占めた町人町・中島組に隣接していたことから、藩の船屋敷・船作事所が設けられた。第7代藩主浅野重晟は別邸として水主町屋敷・与楽園を築いた。
藩政期を通じてこの地区はほぼ全域に町割がしかれて市街地化し、承応年間(17世紀後半)の洪水以降は南に向かって広島湾が埋め立てられ「水主町新開」となり、さらに「吉島新開」(現在の吉島地区)が開かれ「葭島」(吉島)と陸続きとなった。
明治期に入ってこの町には1877年公立広島病院(県立広島病院の前身)が設置、翌78年に広島県庁舎が移転してきた。両者はともに原爆被災までこの町に所在したため、隣の中島新町に一時市役所が置かれていたこともあわせ、戦前期における地方行政の中心地という様相を呈した(また広島監獄(現・広島刑務所)も1888年に吉島に移転するまで水主町に置かれていた)。古い武家町としての歴史と、また多くの役所・公共機関が所在していたことから、この町は戦前の広島では格式ある屋敷町として知られていた。
1945年8月6日の原爆投下に際しては爆心地から1km前後という至近距離にあったため、街並みや施設は一瞬のうちに倒壊炎上し、当時約2,100人とされる町民はもちろん、当日水主町での建物疎開作業のため動員されていた中学・高女の生徒からも多数の犠牲者を出した。水主町にあった市長公舎にいた当時の広島市市長粟屋仙吉も即死している。戦後、県庁はかつて陸軍兵器補給廠が存在していた霞町に移転(その後現在地の基町(現・中区)に移転)したためこの町は県政の中枢としての位置を失った(県立病院も宇品地区(現・南区)へと移転)が、政令市移行後に広島厚生年金会館(現・広島市文化交流会館)やアステールプラザなど文化施設が建設され、市民の文化活動の拠点としての役割を果たしている。
1965年4月の町名変更によって旧町名である水主町の北半は加古町(一部は中島町に編入)、南半は住吉町に分割された。
最寄りの電停として下記のものが町域から徒歩5~10分程度
加古町・住吉町エリアには吉島通り沿いに広島バス[1]のバス停(加古町・中島小学校前・住吉町)、国道2号(新広島バイパス)沿いに広電バス[2]の加古町バス停がある。
昼間時間帯における1時間あたりの運行本数は、24号線が6本(土日祝は4-5本)、3号線が6本、6号線が4本前後。
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