旧日本銀行広島支店
広島市中区にある被爆建物 ウィキペディアから
広島市中区にある被爆建物 ウィキペディアから
旧日本銀行広島支店(きゅうにっぽんぎんこうひろしましてん)は、広島県広島市中区袋町にある、日本銀行のかつての営業所。
水主町にあった日銀営業所を業務拡大に伴い、1936年(昭和11年)9月にこの地に移転、1992年(平成4年)3月中区基町に移転するまで使用された。1945年広島市への原子爆弾投下で爆心地から380mと近距離にあったが倒壊を免れた、現存する被爆建物の一つ[2]。2000年7月市の重要文化財に指定され、同時に日銀から市へ無償貸与された。「広島原爆遺跡」として国の史跡に指定される予定。国の重要文化財に指定されれば日銀から市に無償譲与されることが決定している。
広島市における昭和初期を代表する建築物であり[3][4]、広島に現存する被爆建物の中でも抜群に保存状態がよい[2]。遺構として一般公開されており、広島市民局文化スポーツ部文化振興課に申し込めば芸術文化活動拠点としても利用できる[1]。西側が鯉城通りで袋町停留場そばにある。東隣に頼山陽史跡資料館がある。
建物見学自体は無料。2023年時点で3階と1階は貸出スペースとして公表されている[1]。地下1階に広島県人の移民に関する資料が常設展示されている[5]。
近代の広島市は日清戦争で広島大本営が置かれ日清・日露戦争共に兵站拠点となったことで軍都として急速に発展し、その中で日銀の業務が拡大していったことにより手狭となったため建設された[2]。設計者は長野宇平治と日銀臨時建築部[注 1]、施工は清水組[8]。構造は鉄筋コンクリート構造[1](鉄骨鉄筋コンクリート構造とも[9][10])。1936年(昭和11年)8月竣工、同年9月移転。
長野の最晩年の作品であり[3][4]、約10年前である1925年(大正14年)に三井銀行(帝国銀行)広島支店(のちの広島アンデルセン)を設計しており広島市内での銀行建築は2例目になる[8]。長野は日本銀行本店などいくつもの日本銀行本店・支店を設計しているが、広島支店は他の設計した日銀建物とくらべて正面の角柱がイオニア式である他はごくシンプルな外観、質実剛健というか堅牢さをイメージする作品となっている[8][7]。これは建築当時満州事変から日中戦争へと向かっていた時期であったため世相を反映して飾り立てなかったと推定されている[8]。外壁は花崗岩クラリット張[11][7]。
金庫はアメリカモスラー社製で竣工当時のものが無傷のままで残っている[12][11]。なお長野が先に設計した三井(帝国)銀行でもモスラー社のものが用いられており、そちらのほうが被爆に耐えた金庫として著名。
内部は長野が得意とする古典主義的(ルネサンス様式)意匠を凝らしている[4]。1・2階は吹き抜けで豪華なコリント式装飾が施された4つの角柱で支えていたが[8][4]、天井面の装飾とともに被爆でなくなっている[7]。2階の支店長室の床は寄木張り[5]、2階の応接室には大理石が用いられている[8]。2階の壁の一部には竣工当時から施されていた木目塗りが残っている[5]。他にも木目塗りがあるが戦後に施されたもの[5][13]。
以下、2006年(平成18年)2月時点の内部。
被爆当時も通常業務を行っていたが、1945年6月頃から防空対策も行っていた[10]。なお堅牢な建物であったことから軍部から特別な指示はなかった[16]。
在籍行員数は実動者85人(日銀公表)[10]、あるいは95人(原爆戦災誌)[9]。なお被爆当日は職域義勇隊として市内で建物疎開作業に従事していなかった[16]。日銀3階に勤務した広島財務局員数は不明。
1945年8月6日、被爆。建物は爆心地から約380mに位置していた[2]。建物正面左側角が爆心地方向になる[7]。
建物自体はその堅牢性から天井は落ちず倒壊を免れた[16][2]。3階は出勤していた財務局員が窓を開けていたため全焼[19][16][2][3]、2階の一部でも火災が発生していたが消火することができた[10]。1階と2階はよろい戸を閉じていたため地下金庫室とともに内部損傷は免れたものの、爆風によって1階・2階の窓は窓枠ごと破壊されている[16][10]。地下金庫室・倉庫共に無事だったが、エレベーター口から吹き込んだ爆風により金庫前の鉄格子が吹き飛ばされた[10]。そののちに店内で雨漏りが発生していたことから天井はまったく無傷ということはなかった[21]。
ちなみに、東隣の山陽記念館(現頼山陽史跡資料館)はこの建物が盾となったため全壊を免れている[22]。また銀行前では爆風により広電電車が脱線して東方向へ半回転し、全焼していた[19]。
行員のほぼ全員が店内や出勤途上や自宅等で被爆した[10]。日銀広島支店全体での被害者数は、日銀公表では死者37人負傷者15人[10]、広島原爆戦災誌では即死者29人(応召者5人含)その他の死亡者13人負傷者21人[16]。店内で被爆した行員の被害者数は、日銀『みたまやすかれ』(1977年刊)では行員8人が死亡[3]、原爆戦災誌では行員12人のうち即死5人重傷5人軽傷2人[16]。
広島財務局員の店内での死者数は12人[3]。9人は被爆により負傷し逃げられないまま焼死[19]、屋上で被爆したとされる女子事務員3人は隣の山陽記念館の屋根の上で死体として発見されている[19]。当時の行員によると、動くことが出来た人間がもう少しいたら3階の火災は止められたであろうと証言している[23]。
被爆当日は食堂などが負傷者の収容所となる[16]。3階以外は焼失しなかったこと、日銀支店という重要度から、生き残った行員は被爆後もその場から避難せず店内で作業に従事していた[16]。生き残った局員も日銀行員とともに救護作業を行っている[19]。
6日夜半から7日にかけ軍隊や近郊の警防団の手伝いもあり片付けを終え、日銀岡山支店の応援もあり8日には業務を再開した[16][2][3]。また、被災して営業が不可能となった市内の各金融機関のために、窓口を12区分し仮営業所を設置し各金融機関が通帳がなくても窓口で確認できれば支払いする「自由支払い」業務を開始している[24][16][3][25]。
財務局も当日に後片付けを終えて復旧した後、20日に一時的に可部税務署の一角に移っている[26]。復旧に伴い各金融機関の仮営業所は順次除かれ1946年春には全撤去された[27]。支店建物の復旧工事は同年11月完成している[28]。
1966年8月、敷地内に「日本銀行広島支店職員慰霊碑」が造られた[29]。1992年基町への移転と共にその慰霊碑も移設している[29]。
1988年日銀は中区基町に新築移転を決定[30]、1992年日銀は中区基町に新築移転したことにより、この建物は日銀によって処分が考えられていた[14]。
この頃、被爆50年目にあたり広島市は市内にある被爆建物を洗い直していた時期であり[31]、1994年広島市は旧日銀支店を被爆建物台帳に登録[3]、更に広島市を中心に建物を保存するよう要望が出していた[14]。そこで日銀は広島市へ売却する方向で進めようとするものの、広島市はその購入費用について高額であったため難色を示した[14][32]。逆に広島市が日銀・大蔵省および建設省に対し出した提案が「広島平和記念都市建設法に基づく贈与」であった[14]。日銀と市は協議の結果、文化財保護法に基づき国の重要文化財に指定されれば無償贈与、広島市指定重要文化財に指定されれば市が維持管理費を全額負担し固定資産税や都市計画税など租税免除する無償貸与、とする方針を決定した[14]。
2000年7月25日広島市指定重要文化財に指定、同月31日平和記念都市建設法に基づき使用貸借契約(無償貸与)を締結する[14]。
その後、市は市民や各種市民団体等からのアイデアや意見を集め、2001年2月学識経験者を中心に「旧日本銀行広島支店保存活用方策検討委員会」を設置、委員会からの報告書および浅利慶太や安藤忠雄ら著名文化人の提言を受け、2003年市は「建物全体を市民主体の芸術・文化活動発表の場として活用する」ことを決定した[14][33]。
2001年文化財としての公開も兼ねて暫定的活用を開始[14]、2005年被爆60年目の節目を迎えるにあたり常時開館を開始した[34]。常時開館に合わせて、表に木製の仮設スロープの設置を行った。
暫定で様々な展示が行われてきた。
国重文指定に向けて、市により改修されている。
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