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袋町 (広島市)
広島市中区にある地名 ウィキペディアから
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袋町(ふくろまち)は、広島県広島市中区にある地名(住居表示)。丁目の設定はない。郵便番号は730-0036(広島中央郵便局管区)[1]。当地域の人口は556人[2]。
地理
広島市の中心部に位置する。東に並木通りを挟んで新天地、西は鯉城通りを挟んで大手町2丁目、南は中町(ただし南東角を切り欠いている)、北は本通に接する。
河川
かつて現在の鯉城通りの位置に西堂川があったが、路面電車開通とともに埋め立てられ、現存しない。
歴史
要約
視点
地名の由来
江戸時代にこの地で女性向けの袋(ハンドバッグ)を製作していたことに因む。七福神の中では大黒天が袋を持っており、縁起が良いとされている。なお袋のみならず、中身の扇、櫛、簪なども扱っていた。これが現在の本通商店街のルーツとなった[3]。
江戸時代まで
1657年(明暦3年)の大火の後にできた街である。北側が町地、南側が侍士屋敷地とされ、その境目は杉の木小路(現在の旧日本銀行広島支店から東に入る道の付近)であった。明暦の切絵図では、家数35軒、町間251mとされている。また天明の切絵図では40軒となっている。「知新集」によれば町間269m、人口538人(うち男性252人、女性286人)1872年に町地と侍士屋敷地、及び当時の中町、西魚屋町と鉄砲屋町の一部が合併し、現在の袋町となった[4]。
明治以降
1879年に広島区、1889年に広島市の地名となった。教育機関は、1876年に小町の就將館が当地に移転してきて桜川学校(現・広島市立袋町小学校)となった。1896年には数理学会(現・広陵高等学校)が、1905年には袋町女子高等小学校ができたほか、私立必正舎がこの地に開校した。1917年時点での戸数は285戸、人口907人[5]。
被爆の状況


原爆投下の際には、本通り・袋町地域ではその地域にいた人の87%〜90%が即死した[6]。また短時間で地域全体が猛火に包まれた。日本銀行広島支店(爆心地から南東に380m)では54名が死亡し、扉および窓は全て吹き飛んだ。被爆時窓が開いていた3階部分は全焼したが、1、2階部分は延焼を免れ、臨時の病室として救援活動に使用された。頼山陽史跡資料館(410m)[7]では建物の一部が焼け残り、クロガネモチの木が根のみを残し焼けた。袋町国民学校校舎(460m)では西側校舎のみを残し倒壊、児童・教職員227名は児童3名と教職員2名を残して死亡した。校舎の内部は全焼したが、残った西校舎を利用して1945年10月まで救護所が設置された[8][6]。広島中央電話局では勤務していた451名のうち[9]、約半数が死亡し[10]、生き残った人も全員が重軽傷を負った[6]。ビルは内部が全焼した[6]。(NTT西日本十日市ビルも参照)
第二次世界大戦後
1951年時点で世帯数66、人口269人であった。1965年には町名・町域の再編により旧袋町から一部が大手町1丁目 - 5丁目の一部に分割され、西魚屋町、中町、鉄砲屋町、下中町、新川場町、堀川町、三川町の一部が編入された。1980年には広島市が政令指定都市になったため中区の一部となった[5]。
人口の変遷
1657年(明暦3年) | ![]() 人口不明 |
天明年間 | ![]() ![]() 人口不明 |
知新集 | 戸数不明![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1917年(大正6年) | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
1951年(昭和26年) | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
2013年(平成25年) | 世帯数不明![]() ![]() ![]() ![]() |
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交通
鉄道
バス
「袋町」バス停に停車するバスは広電バス2号線・3号線・6号線・7号線・12号線急行と広島バス21号線の市役所前方面行きのみである[11]。地区の北西角に位置する本通バス停には、通過する全てのバスが停車する。
道路
施設
学校
公園
- 袋町公園(慰霊碑あり[12])
企業
金融機関
史跡
袋町出身の人物
ギャラリー
- 袋町小学校
- 袋町小学校平和資料館
- まちづくり市民交流プラザ
- 頼山陽史跡資料館
- 旧日本銀行広島支店
- 旧・富国生命保険ビル。現在は建て替えられている。
脚注
関連項目
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