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日本の江戸時代から明治時代にかけての旗本、翻訳家、教育家 (1827-1898) ウィキペディアから
ジョン万次郎(ジョン まんじろう、旧字体:ジョン萬次󠄁郞、英語:John Manjirō、1827年1月27日〈文政10年1月1日〉 - 1898年〈明治31年〉11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての日本の旗本・翻訳家・教育家である。アメリカ合衆国を訪れた最初の日本人の一人であり[1]、日米和親条約の締結の際に通詞候補として江戸に召喚[2]。通訳・教授などでも活躍した。
アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称でも呼ばれた。帰国後は本名として中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次󠄁郞)を名乗った。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことによって広まったもので、それ以前には使用されていない。
万次郎は、文政10年1月1日(新暦換算:1827年1月27日)、土佐国幡多郡中ノ浜村(なかのはまむら)[注釈 1](幕藩体制下の土佐高知藩知行中ノ浜村。現在の高知県土佐清水市中浜〈なかのはま〉)[3]で半農半漁で暮らす貧しい漁師の家の次男として生まれた[4]。父は悦介(えつすけ)、母は汐(しお)という[4]。
万次郎が9歳のとき父が亡くなり[4]、また、母と兄が病弱であったため、幼い頃から働いて家族を養った。寺子屋に通う余裕がなかったため、読み書きもほとんどできなかった。10歳の頃、中浜浦老役の今津太平宅に下働きに出た[4]。重労働から脱走し、漁師になることを強く希望したため、母親の計らいで宇佐の筆之丞の元で漁師として働く事になったという[5]。
天保12年1月5日(1841年1月27日)早朝の宇佐浦(現・土佐市宇佐町)[6]、14歳になっていた万次郎は、足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだ[4]。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳。のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく筆之丞の弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)と、もうひとりの櫓係の寅右衛門(26歳)、そして炊係の万次郎(14歳)であった[6]。
ところが、万次郎達は足摺岬の南東15キロメートルほどの沖合で操業中、突然の強風に船ごと吹き流され、航行不能となって難破してしまう[6]。5日半(資料によっては10日間[4])を漂流した後、伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着し[4]、この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びた[4]。同年5月9日(1841年6月27日)[6]、万次郎達は、船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料として海亀を確保しようと島に立ち寄った際、乗組員によって発見され、救助された[4]。
しかし、その頃の日本は鎖国していたため、この時点で故郷へ生還する術はなく、帰国の途に就いた捕鯨船に同乗したままアメリカへ向かわざるを得なかった。1841年11月20日、ハワイのホノルルに寄港した折、救助された5名のうち万次郎を除く4名は、宣教師で、ハワイ王国の顧問であったジェリット・ジュットの計らいで当地で下船している[4]。寅右衛門はそのまま移住し、重助は5年後に病死、筆之丞(伝蔵)と五右衛門はのちに帰国を果たしている[6]。
一方、ただひとり万次郎は捕鯨船員となって船に乗り続け、アメリカ本土を目指すことになった[4]。これは、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られたためでもあるが、何より本人が希望した処遇であった。航海中の万次郎は、生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いている。また、航海中、アメリカ人の乗組員からは、船名にちなんで「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。
1843年5月7日、ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した[4]。当時この地は同国における捕鯨の一大拠点であった。この航海でグアム、ギルバート諸島、モーレア島、ホーン岬などを経由している。アメリカ本土に渡った万次郎は、ニューベッドフォードの隣町で船長のホイットフィールドの故郷であるフェアヘーブンで、エバニーザー・エーキン宅にしばらく預けられた後[7][8]、船長の養子のように一緒に暮らすことになる。
1843年(天保14年)にはオックスフォード・スクールでジェームズ・アレンから小学生に混じり英語を学んだ。船長が農場のスコンチカットネックに移った後、しばらく船長の叔母アメリアと住んでいたが、後に万次郎も移った。ここでスコンチカットネック・スクールに通い、1844年(弘化元年)にはフェアヘーブンのバートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。この年、船長はウィリアム・アンド・エライザ号で捕鯨に出た。民主主義や男女平等[9]など、日本人にとって新鮮な概念に触れる一方で、人種差別も経験した。
学校を卒業後は桶屋で働くなどしているが、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長の捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗る道を選ぶ。1846年5月16日にニューベッドフォードを出港[10]。1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していた。このとき、大西洋とインド洋を経由してホノルルに寄港しており、別れた漂流民と再会している。また、琉球の小島に上陸しているが、帰国は果たせなかった。
この航海でボストン、アゾレス諸島、カーボベルデ、喜望峰、アムステルダム島、ティモール島、スンダ海峡、ニューアイルランド島、ソロモン諸島、グアム、マニラ、父島、ホノルル、モーリシャスなどに行く。1849年9月、再びニューベッドフォードに戻り船長ウィリアム・ホイットフィールドと再会した後、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへスティグリッツ号で水夫として渡り、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数か月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。
そこで得た資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。1850年12月17日、知己であった宣教師で新聞を発行していたサミュエル・C・デイモンの協力もあり、上海行きの商船サラ・ボイド号に伝蔵と五右衛門と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。
嘉永4年(1851年)、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、翁長で牧志朝忠から英語で取り調べを受けたり、地元住民と交流した後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化などについて質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示した後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。
薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所などで長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリシタンでないことを証明させられたが、慣例として残っているのみで、描かれた絵はほぼ解読不能に等しく、何かよくわからないまま踏んだという。加えて、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受け、その際に中浜を同居させて聞き取りに当たった河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』(ひょうそんきりゃく)を記した。約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰り、母と再会することができた。
帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。
嘉永6年(1853年)7月8日にペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、7月25日に万次郎は幕府に召聘されて江戸へ行き(8月30日着)、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、幕府直参の御普請役として待機し[2]、江川は長崎で没収された万次郎の持ち物を返還させた。勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられている。
安政元年(1854年)、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。
1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。
藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。理由の1つには、中浜がアメリカ人と交友することをいぶかしがる者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは中浜万次郎1人だったため、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、老中の阿部正弘が中浜の米国帰還を懸念し、海防参与を務めていた水戸藩主の徳川斉昭もスパイ疑惑を持ち出し、オランダ語を介しての通訳の立場を失うことを恐れた蘭語通詞たちの反対もあって[11]、結局はペリーの通訳[注釈 2]の役目からは外された。なお、ペリー没後から29年目に、お雇い外国人だったウィリアム・グリフィスが『ペリー伝』を執筆し、中浜が「日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した」と記述したが確証がなく、グリフィスの空想とされる[12]。
万次郎は幕府が建造した西洋式帆船の君沢形を、西洋式の航海実習も兼ねて捕鯨に使用することを提案し、中浜万次郎が指揮する「君沢形一番」(同型艦は10隻)は安政6年3月(1859年4月)に品川沖を出港し小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により船は損傷し、航海は中止となった。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の1人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いがひどくてまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わってジョン・ブルックとともに船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との交友を日本人船員に訝しがられることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰路ホノルルではサミュエル・C・デイモンと再会した。帰国時に同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。
文久元年(1861年)には外国奉行・水野忠徳に同行し、小笠原諸島などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。中浜が小笠原付近に知識があり、当時小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた。ここでアメリカ人開拓者ナサニエル・セイヴァリーと再会している。後には君沢一番丸というスクーネル船で小笠原諸島近海でアメリカ式捕鯨を実験的に行った[13]。
文久2年(1862年)、豪商平野廉蔵の出資で買い取った外国船「壹番丸」で捕鯨を行う許可を幕府に提出し、出船を命じられる。翌年には父島在住の外国人6名を雇い、同船で小笠原諸島近海にて捕鯨を行い、鯨2頭を捕獲している。しかし、ここで先の外国人が逮捕されるホーツン事件が起こる(初めて外国人を逮捕した日本人になる)。江戸に帰航した後、再度捕鯨航海を企図するも政情不安のために幕府の許可が下りず、翻訳をしたり細川潤次郎などの士民に英語の教示を行ったりしている。
1864年から鹿児島赴任になり、薩摩藩の開成所の教授になる。また、1865年に長崎で薩摩藩が船舶5隻購入し、その交渉を行なっている。
慶応2年(1866年)、土佐藩の開成館設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と長崎・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」などを購入。
慶応3年(1867年)、薩摩藩の招きを受けて鹿児島に赴き、航海術や英語を教授したが、同年12月には武力倒幕の機運が高まる中、江戸に戻った。
明治維新後の明治2年(1869年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。
明治3年(1870年)、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣される。アメリカ経由で行く。8月28日に米外輪船グレート・リパブリック号で横浜発、9月23日にサンフランシスコ着、鉄道を利用して10月28日にニューヨークに行き、ここでフェアヘーブンにより、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会した。また身に着けていた日本刀を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗まれ行方不明になり、現在はレプリカが展示されている)。[要検証] 11月にロンドンに着くが、発病のため英蒸気船ダグラス号でスエズ運河を通り東回りで帰国。
帰国後に軽い脳溢血を起こし、数か月後には日常生活に不自由しないほどに回復するが、以後は静かに暮らす。時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、教育者としての道を選んだ。万次郎の雑記の断片から、老後(1888年)にも小笠原諸島近海で航海を行なっていた可能性がある[14]。
平成22年10月31日、茅葺木造平屋建ての生家が復元された。入場無料、年中無休、午前8時から午後5時まで。
子孫が3代に渡って同じ出版社から伝記を出しているが、4代目は別の出版社から出した。
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