門真市(かどまし)は、大阪府の北河内地域に位置する市。
大阪市に隣接し、そのベッドタウンを形成する衛星都市の一つであると同時に、大阪都市圏における都市雇用圏の中心にも含まれる。計量特定市に指定されている。パナソニックの本社所在地であり、同社の企業城下町でもある。
地名の由来は「潟沼(かたぬま)」や「門間(かどま / 船だまりや寺や神社の門前の土地を表す言葉)」から転じたなど諸説あり、室町時代初期までは「普賢寺荘」、室町時代末期には現在の名が使われ、戦国時代には「門真荘」と呼ばれた。
- 先史[1]
- 現市がある河内平野は紀元前20世紀以前は河内湾とよばれる海の中だった。紀元前15世紀頃の縄文時代後期になると、市域の陸地が一部顔を出すようになり、市西部の西三荘遺跡で期節的な生活が始まった。紀元前3世紀前後の弥生時代前期には定住生活が可能になり、古川遺跡では方形周溝墓群が、大和田遺跡では銅鐸が確認されている。
- 古代
- 8世紀の「古事記/日本書紀」によると仁徳天皇が河内湖へと流れる淀川の度重なる洪水被害から河内湖周辺のこの地方を守るために茨田宿禰(まむたのすくね)に命じ、茨田堤を築かせた。これは記録上、日本初の河川堤で、大規模な治水工事とされている。茨田宿禰はこの堤の守護神として茨田氏の先祖彦八井耳命(神武天皇の皇子)を奉祀し、それが市内にある宮野町堤根神社の起源となっている。境内には茨田堤跡が残されている。茨田堤の完成後、この地方の農地が急速に発展。市内には普賢寺古墳が築造された。また現黄梅寺付近に伊勢神宮に奉仕した斎宮が神宮からの帰途に立ち寄った茨田真手御宿所があったと伝えられている。
- 中世
- 平安時代後期になると、河内にも朝廷や寺院や神社などの荘園が作られていった。大和田庄・馬伏庄・岸和田庄(現在も地名として残っている)などは河内八箇所として経営された。
- 鎌倉時代・室町時代の頃にはほぼ全域農地として開拓され集落としての環境が整い、現在に近い環境が形成された。室町時代には室町幕府直轄地として「門真」荘という名が出てくる。
- 近世
- 京や大坂に近い事や立地の重要性により8割以上が江戸幕府の天領となった。代々譜代大名の永井氏がこの地を支配した。この時代になると古川の氾濫も収まり豊かな水郷農村として発達し、低湿地を生き抜く知恵として段蔵やバッタリが生み出され、江戸時代後期には菜種や木綿の栽培、蓮根栽培が活発化した。また江戸末期には、旧家・茨田家の茨田郡士(まったぐんじ)ほか多くの豪農が大塩平八郎の乱に加わった。
- 近代
- 蓮根栽培が石川県と岡山県から優良な種類を導入し改良を加えた結果、最高期に達し、「河内レンコン」の名が全国に広まった。1910年(明治43年)の京阪電車の開通により、まちは変化し、工場誘致など産業都市としての発展にも力を入れるようになった。
- 1933年(昭和8年)、松下電気器具製作所(現:パナソニック)が工場を建設し、以後は同社の企業城下町として発展した。
- 現代
- 1963年(昭和38年)、約6万人をもって市制を施行。1973年(昭和48年)1月29日に計量特定市に指定された。
- 高度経済成長期の大阪都市圏の拡大によって市の人口は急増、60年~65年には人口増加率178%を記録し、1970年代には約14万人にまで達した。しかしながらこの急速な人口増加は更なる都市化を促進する一方、農村農業を著しく衰退させ、かつて経験した事のない様々な都市問題を引き起こした。とりわけ近年は工場の海外移転による産業の空洞化に伴い、失業や犯罪の増加が進行した。今日においても、同市は大阪府内で最も貧しい都市のひとつであり、貧困・財政・犯罪といったさまざまな問題を抱えている。市はこれらの問題を改善する為に1971年(昭和46年)第一次総合計画を策定。以降、時代の変化に対応しながら計画を策定し、2010年(平成22年)からは第五次総合計画[2]を推進している。
- 第五次総合計画はこれからの人口減少・成熟社会への移行等を背景に、将来都市像を「人・まち"元気"体感都市 門真」と定め、都市整備を軸に、教育の向上、地域力、防災・安全の強化、産業活性化等を公民競働によって目指す内容となっており、基盤となる財政の一層の健全化と共に取り組まれている[3]。なお計画期間は2010年(平成22年) から 2019年(平成31年)で、都市整備は古川橋駅-門真市駅周辺の北西部、大和田駅周辺の北東部、第二京阪道路沿道周辺の中部、門真南駅周辺の南部を中心に行われる。とりわけ北西部の「幸福町・垣内町・中町地区まちづくり」計画は統合中学校(門真市立門真はすはな中学校)・公園・広場・市立総合体育館の設置等、拠点地区整備や公共施設の再生を謳い新たな市の顔づくりとして位置づけられている。地域通貨「蓮」を発行していたが、2018年3月31日をもって発行を終了した。
- 2010年代に入ると門真市を本拠地として発展を遂げてきたパナソニックが会社の一部を東京へ移し始めた[4]。2022年4月には、パナソニックホールディングスに社名を変更し持ち株会社制度へ移行。家電製品や電設資材事業を担う最大の事業部門となるパナソニック株式会社は本社機能を東京へ移した[5]。三井不動産は、広大なパナソニックの工場跡地で商業施設・住宅(分譲マンション)・会員制倉庫型店舗(コストコ)・事業所(東和薬品)の4つの街区から構成される大規模複合街づくり型開発事業を展開[6]、企業城下町から大きく変貌を遂げることとなった。
守口市との合併協議
2005年(平成17年)度に、隣接する守口市と合併することが協議され、新名称は「守口門真市」と決定した(その他「松下市」の候補もあった)が、2004年9月にその合併をめぐる住民投票で、合併相手側の守口市の結果により事実上合併は消滅(反対派が投票の87%を占めた)、合併協議会は解散した(門真市の投票は投票率不足で不成立、開票されなかった)。
- 2012年(平成24年)門真市イメージキャラクター 元祖招き猫「ガラスケ」
- 2019年(令和元年)門真市シルバー人材センター マスコットキャラクター「シルバー蓮ちゃん」
- 2022年(令和4年)門真フィルムコミッション ゆるキャラ担当「ジェイキー と ずぼらちゃん」
市長
- 市長:宮本一孝(2016年7月24日就任、2期目)
財政
職員の削減や国民健康保険事業の収納率向上などの行財政改革の結果、一時期の危機的状況からは改善しているが、それを上回るほどの生活保護費の増加が目立つ。
- 平成24年度
- 財政力指数 0.69
- 標準財政規模 265億6267万円
- 普通会計歳入規模 575億8669万円
- 普通会計歳出規模 541億6265万円
- ・人件費 73億1456万円
- ・扶助費(生活保護費等) 192億0222万円
- ・公債費(借金の返済) 48億5714万円
- 経常収支比率 99.7%(減収補填債及び臨時財政対策債を除けば 109.6%)
- 健全化判断比率
- ・実質赤字比率 0.0%
- ・連結実質赤字比率 1.66%(府下で唯一計上されている)
- ・実質公債費比率 6.9%
- ・将来負担比率 46.2%
地方債等の残高
- 1 普通会計分の地方債 468億7860万円
- 人口一人当たり地方債現在高 36万6030円
- 2 特別会計分の地方債 458億2160万円
地方債等の合計 927億0021万円 (連結会計)
- 門真市民一人当たりの地方債等残高 72万3807円
- 平成18年度
- 財政力指数 0.75
- 標準財政規模 248億7974万円
- 普通会計歳入規模 439億4859万円
- うち市町村税(地方税) 187億4864万円
- 地方交付税 50億4019万円
- 地方債 23億2540万円
- 普通会計歳出規模 438億9955万円
- 人件費 104億1376万円
- 扶助費(生活保護費等) 135億1854万円
- 公債費(借金の返済) 47億9145万円
- 経常収支比率 103.1% きわめて硬直化している
- 実質公債費比率 13.0%
- 人口一人当たり地方債現在高 34万3481円 普通会計分の地方債のみ
- 人口1000人当たり職員数 6.97人 大阪府市町村平均 7.91
- 内訳 一般職員 880人(うち技能労務職 271人) 教育公務員 32人 (消防職は一部事務組合所属のため0名) 合計912名
- 市職員一人当たり平均給料月額 34万4200円 すべての職員手当てを含まない数字
- 職員給与費の状況 平均(普通会計分 年額) 給料 430万8825円 職員手当 119万8402円 期末・勤勉手当(民間のボーナス) 199万6317円
- ラスパイレス指数 97.8
- 門真市職員一人当たりの平均期末・勤勉手当支給額 210万4371円 (平成18年度)
- 門真市職員 平均定年退職金 2757万1千円 (2007年4月1日現在、59.28月)
地方債等の残高
- 1 普通会計分の地方債 449億3000万円
- 2 特別会計分の地方債 444億9700万円
- 主な内訳 公共下水道事業特別会計分 392億7400万円
- 3 関係する一部事務組合分の債務 1億1200万円
- 守口市門真市消防組合分 2億3700万円 (債務x負担割合)
- 4 第三セクター等の債務保証等に係わる債務 47億1300万円
- 門真市土地開発公社
地方債等の合計 945億5200万円 (連結会計)
- 門真市民一人当たりの地方債等残高 72万0537円
市議会
- 定数:20名[8]
- 任期:2023年(令和5年)5月1日 - 2027年(令和9年)4月30日
2023年5月1日時点での会派構成は以下の通り。
議員定数が18名となる議案が2022年に否決され、2023年の市議会議員選挙は定数20名で行われた。
- 定数:1名 (2015年(平成27年)の府議選より定数減)
- 任期:2023年5月1日 - 2027年4月30日
- 泰江征樹(大阪維新の会)
日本郵政グループ
(2012年12月現在)
- 門真郵便局(一番町) - 集配局。★
- 門真元町郵便局(元町)
- 二島(ふたしま)郵便局(桑才町=くわざいちょう)
- 門真沖町郵便局(沖町)★
- 門真下島(しもしま)郵便局(下島町)
- 門真宮野郵便局(宮野町)
- 門真巣本郵便局(巣本町)
- 門真上島頭(かみしまがしら)郵便局(千石西町=せんごくにしまち)★
- 門真下馬伏(しもまぶし)郵便局(江端町)
- 門真古川橋郵便局(幸福町)★
- 門真常盤郵便局(常磐町)
- 門真新橋郵便局(新橋町)★
- 門真月出(つきで)郵便局(月出町)
- ゆうちょ銀行
- 大阪支店 大阪モノレール門真市駅前出張所(新橋町)(ATMのみ/ホリデーサービス実施)
- 大阪支店 京阪古川橋駅内出張所(末広町)(ATMのみ/ホリデーサービス実施)
- その他各郵便局にATMが設置されており、★印の郵便局ではホリデーサービスを実施。
※門真市内の郵便番号は「571-00xx」(門真郵便局の集配担当)となっている。
人口
平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.02%減の130,368人であり、増減率は府下43市町村中28位、72行政区域中49位。
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門真市と全国の年齢別人口分布(2005年)
| 門真市の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 門真市 ■緑色 ― 日本全国
| ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 |
門真市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年)
| 141,041人
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1975年(昭和50年)
| 143,238人
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1980年(昭和55年)
| 138,902人
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1985年(昭和60年)
| 140,590人
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1990年(平成2年)
| 142,297人
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1995年(平成7年)
| 140,506人
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2000年(平成12年)
| 135,648人
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2005年(平成17年)
| 131,706人
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2010年(平成22年)
| 130,282人
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2015年(平成27年)
| 123,576人
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2020年(令和2年)
| 119,764人
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総務省統計局 国勢調査より |
主な施設
教育
人口10万人以上の市ではあるが、市内に大学(短期大学を含む)や私立の高等学校・中学校はない。公立の小中学校は全校にエアコンが整備され、2013年4月1日時点で全校の耐震化工事が終了している。また、全中学校で給食(自校調理方式)が実施されている。
大学
先述のとおり、市内に大学(短期大学を含む)は存在しない。大阪府下の大学が存在しない市で人口は最多である。
名所・旧跡
- 願得寺(御堂町) - 本堂等は府指定有形文化財
- 常光寺(野里町) - 本尊・阿弥陀如来像、境内のイチョウは門真市保存樹(№10・№11)
- 黄梅寺(堂山町) - 茨田家の菩提寺
- 寿命院(幸福町) - 本尊・聖観音立像
- 宝蔵寺(城垣町) - 本尊・阿弥陀如来像
- 一休母堂(楠木正澄の娘)の墓(三ツ島)
- 昔この地が楠木氏の領地であったこと(楠木正澄の隠棲地)から言い伝えられている。
- 幣原兄弟の碑(一番町)
- 幣原坦・幣原喜重郎兄弟の生誕地跡に建つ顕彰碑。題字は吉田茂。
- 幣原家は元は石清水八幡宮の御幣をつくる家であったと云われ、門真一番村の庄屋であった。
- 赤穂義士・村松喜兵衛門の碑(下島町)
- 安井郁博士誕生の地(常称寺町)
- 森寿斎の墓(上島町)
- 喜左衛門の碑(桑才町)
- 西三荘遺跡(門真)
- 橋波口遺跡(本町)
- 普賢寺遺跡(幸福町、垣内町)
- 古川遺跡(御堂町、古川町)
- 大和田遺跡(常称寺町、宮野町、野里町)
- 三ツ島遺跡(三ツ島)
- 巣本遺跡(北巣本町)
祭事
- 門真まつり
- 門真国際映画祭
- 弁天池公園スプリングカーニバル
- 弁天池公園ふれあい感謝祭
- ラブリータウン古川橋
- 門真市ボランティアフェスティバル
- 門真市キッズカーニバル
鉄道路線
鉄道路線は北部と西部に偏在しており、中央部から東部と南部にかけては鉄道空白地帯になっている。北西部からはOsaka Metro谷町線大日駅(守口市)も近く、「大日」を冠した施設も散見される。
注釈
かつては河内平野の農村部に多く見られた農業用水の農業用の舟を通すための、小さなダム状の樋を使って、水位を高くして通すための仕組みでほとんど残っていないとされる。尚、スエズ運河と理論は同じ。
大塩平八郎の乱に連座し処刑された郷士、茨田郡士の家屋敷跡地。1969年に子孫が死去し廃絶。以降は門真市が継承し『茨田公園』として整備され、園内に記念碑が建つ。
楠木氏の住んでいた三ツ島の出自とされているが詳細は不明である。墓所と地元に伝わる碑が三ツ島(地下鉄長堀鶴見緑地線門真南駅北の児童公園内)にある。
子孫が寝屋川の真言道場に住んでいたが、明治初頭に道場が廃仏毀釈で廃寺となり、その後身である心願寺が門真に買収移転した際に菩提碑も当地に移ってきたため、直接的な接点は無い。
失業中に父が守口町在住だったことから身を寄せ、1923年(大正12年)大阪毎日新聞社勤務時代に、現在の京阪沿線沿いの平屋住宅(現在の西三荘駅南側)や守口市に住んでいた。
後見人や妻が住んでいたので移住。晩年を門真で過ごした。
ウィキメディア・コモンズには、
門真市に関連するカテゴリがあります。