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長野県松本市にある公立高等学校 ウィキペディアから
長野県松本県ケ丘高等学校(ながのけんまつもとあがたがおかこうとうがっこう)は、長野県松本市県二丁目にある公立高等学校。
長野県松本県ケ丘高等学校 | |
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北緯36度13分55.9秒 東経137度59分7.44秒 | |
過去の名称 | 長野県松本第二中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 長野県 |
学区 | 第4学区 |
校訓 |
質実剛健であれ 大道を闊歩せよ 弱音を吐くな |
設立年月日 |
1923年 (長野県松本第二中学校) |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 |
普通科 国際探究科 自然探究科 |
学校コード | D120220200027 |
高校コード | 20173B |
所在地 | 〒390-8543 |
長野県松本市県二丁目1番1号 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
1923年(大正12年)4月17日 長野県松本第二中学校として開校される。1948年(昭和23年)4月1日 学制改革により、長野県松本第二中学校が長野県松本県ヶ丘高等学校に改称された。校名の県ヶ丘(あがたがおか)は、所在地である県(あがた)に由来している。1994年(平成6年)4月1日 英語科(1学級 定員40名)が設置され、普通科(7学級 定員280名)とともに2学科体制となる。
卒業生数は、創立90余年、旧制中学と新制高校とを合わせ2万7千名を越える[1]。 通称は「縣陵(けんりょう)」[2]。文化祭は「縣陵祭」と称する[3]。
本校の特色の一つとして、母校「愛のリレー」[4]があげられる。母校愛のリレーは、高校卒業三十周年を記念して、母校に図書券・施設整備等を寄贈し、併せて当該年次の同窓生による記念講演等を行なう事業である。1980年(昭和55年)にスタートしたもので、当時、長野県議会議員だった高校二回卒(県二会)の有賀正(前同窓会長・第12代松本市長)発案 によるものである。新制高校の卒業生から毎年、リレーして行こうと言う発想で、以来、途絶えることなく毎年行われている。
1980年(昭和55年)の第1回「母校愛のリレー」では、東大名誉教授の山田尚勇が「情報科学からみた教育の未来像」[5]と題して講演会を行った。2013年(平成25年)創立90周年の第35回では、映画監督の山崎貴が「私たちの見た夕日、君たちと見たい夕日」[6]と題してトークショーを行っている。
デザインは、旧職員井口良一によるもので、四つの頂点は、白雪を戴く峻烈な北アルプスや美ヶ原の連山をかたどる。1923年(大正13年)開校の年に制定された。現在の校章は1948年(昭和23年)に改訂されたものである[7]。
「若き我等」歌詞
一、風が十字に荒ぶれ狂う 信濃の直中松本平
此の地に身を置き 胸差し出だす
若き我等は体も強し 若き我等は心も強し
二、西に聳ゆる北アルプスに 朝日の輝き夕日のにおい
ふりさけ仰ぎて 光に生くる
若き我等は希みも高し 若き我等は理想も高し
応援練習は、例年、入学して2週間目火曜日〜金曜日の4日間に実施される。入学してから最初の一週間は各クラスで朝(1時限前の30分ほど)応援練習の基本動作の練習が行われ、新入生の各クラスから1〜2人の応援委員が選出されて、一定期間の朝練習の後に放課後の新入生全体練習が校庭で行われる[9]。
小説家の小嶋陽太郎[10]は、同窓会報の中で「非二十一世紀的伝統」と題し、伝統の応援練習についてこう記している。
「(前略)そして、その意味不明なオリエンテーションから数日後、地獄の応援練習を経て僕はようやく一人前の県陵生として認められたのでした。 この二十一世紀の世にあって、これほど非二十一世紀的な伝統が残っている高校、ほかにはなかなかないのではないでしょうか」[11]。
開校当時の初代校長小松武平 (1877 - 1930)による。小松武平先生は、旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)の第2代校長[13]、旧制諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)の第5代校長を経て、松本第二中学校(現松本県ヶ丘高等学校)の初代校長として赴任された。文字通り新しい学校つくりを目指しながらも現職のまま亡くなられ[14]、この「縣陵三大精神」を遺勲として遺している。
「縣陵三大精神」は、縣陵出身者であれば、誰でも唱えることのできるものとして今も脈々と受け継がれている。
1933年(昭和8年)12月22日、松本第二中創立十周年記念事業の一つとして、「小松先生碑」(西田幾多郎書)が除幕された。現在、県ヶ丘高校本館前庭に立っている[15]。
1991年(平成3年)11月30日、生徒通用門正面に「三大精神」の碑(西川久壽男書)が建立され、旧制松本二中21回、高校1回卒業生らの手により除幕式が行われた[16]。
1929年(昭和4年)に旧制松本二中生美ヶ原遭難事故[17]が発生する。
学校行事である美ヶ原登山において生徒2名が遭難死した事故である。この登山では、本校からアクセスしやすい山城牧場から登り山城牧場へ戻る、というルートが計画されていた。だが、遭難した2人の生徒は美ヶ原山頂付近で他の生徒や教員と別れ、自宅のある浅間方面へ直接下る道へ入った。美ヶ原は小学生でも登山可能な山だが、時折目の前5m程しか見えなくなる激しい濃霧が発生することで有名だった。
2人はこの濃霧に巻かれ、道を見失う。夜になっても2人が戻らないことを心配した家族が学校に連絡、学校に救助本部がおかれるとともに、長野県警による捜索が開始された。しかしながら、数日後に武石峠近くの暗闇沢(現在の三才山トンネル付近)で2人の遺体が発見される。
この事故で、2人に引率教諭もつけずに単独行動を許した当時の教諭の責任が追及された。本校初代校長であり、当時校長の職にあった小松武平もバッシングを受け、そのストレスから体調を崩し、事故の翌年1930年(昭和5年)9月に没する。
美ヶ原にはこの2人の遭難慰霊碑がある。有名な登山家田部重治の登山記録には、この事故について「今や此所にこの指導標を見て、遭難の光景まざまざと眼前にあらわれるかの如き感を抱いた。」と書き残している[18]。
旧制松本第二中学の第一期生でもある元東京地裁判事の樋口和博は、「小松先生は学校の行事の美ヶ原登山で教え子が遭難したとき、吾が子を失った以上の哀惜と責任を感じて病気になり、その生徒達の名前を呼びながら亡くなられた。」とエッセイ『峠の落とし文』の中で記している[19]。
1950年(昭和25年)に、それまでの文化祭を「縣陵祭」と改称。この年の6月17日、18日の両日、演劇部、白虹会(美術部)、音楽部の文化総部員を始め、縣陵全校生徒有志たちがキャスト、スタッフを務めた「破戒」(島崎藤村原作、村山知義脚色)の舞台公演が行われた。2日間計4回の公演で松本市民延べ5300人が鑑賞した[20]。 以来、毎年6月第3週の金曜日から月曜日の4日間にわたり、主に文化系クラブやクラス発表など生徒会最大行事として開催されている[21]。
全校マラソン大会として1935年(昭和10年)に始まる。1939年(昭和14年)には、剛健競歩大会として16キロを走る。翌年には28キロとなる。戦時中の1943年(昭和18年)に一時休止となったが、1954年(昭和29年)5月4日、第1回強歩大会として実施(学校~波田小学校間24キロ)され今日に至る[22]。 現在は毎年10月に開催され、男子は32キロ、女子は27キロとなっている[23]。
平成28年現在、運動系クラブ56.1%、文科系クラブ45.4%、生徒クラブ加入率は101.5%となっている[25]。
1923年(大正12年)学校創立とともに創部されたサッカー部は、初代校長小松武平がサッカーを校技として採用し、入学者全員にサッカー靴の購入を義務づけ、さらに初代監督に東京高等師範学校主将だった松本寛次(広島一中・現広島県立広島国泰寺高等学校で野津謙を指導)を教頭として招聘するほどサッカー熱が高かった。しかし、全国大会に出場するようになったのは戦後からである。1955年(昭和30年)国体初出場、1962年(昭和37年)全国高等学校サッカー選手権初出場、1963年(昭和38年)サッカー選手権ではベスト8、1966年(昭和41年)インターハイでは3位と1960年代前半が言わば黄金時代[26]だった。
その後、1976年(昭和51年)に第55回全国高等学校サッカー選手権大会で二回目のベスト8進出を果たした。1990年(平成2年)第68回全国高等学校サッカー選手権大会では13年ぶり8回目の出場を果たしている[27]。
1968年(昭和43年)全国高等学校総合体育大会でベスト8、1970年(昭和45年)国民体育大会ベスト8などの好成績を残しており、この時代、前述のサッカー部と共に運動系クラブの代表格であった。
2007年(平成19年)全国高等学校総合体育大会登山大会で6位入賞、2013年(平成25年)全国高等学校総合体育大会登山大会で準優勝するなど近年好成績をおさめている。
1973年(昭和48年)に発生した火災により木造の北校舎以下7棟を消失した事を契機に校舎・施設等の鉄筋コンクリート化が進み、順次施設の拡充がなされている。火災後の一時期、1973年(昭和48年)4月から1974年(昭和49年)3月の1年間、旧信州大学人文学部校舎(現・あがたの森文化会館)を借用して平常授業が行われた経緯がある[28]。 現在の施設概要は以下の通りである[29]。
歴代 | 氏名 | 在職期間 |
---|---|---|
初代 | 小松 武平 | 大正12年1月~昭和5年9月 |
二代 | 土屋 弼太郎 | 昭和5年10月~昭和6年7月 |
三代 | 甲田 作衛 | 昭和6年7月~昭和10年9月 |
四代 | 佐藤 貞治 | 昭和10年9月~昭和12年3月 |
五代 | 潮田 正次 | 昭和12年3月~昭和15年3月 |
六代 | 丸山 亀之助 | 昭和15年3月~昭和18年7月 |
七代 | 浜本 勝治郎 | 昭和18年9月~昭和20年12月 |
八代 | 淡中 益郎 | 昭和20年6月~昭和22年3月 |
九代 | 羽生 功 | 昭和22年7月~昭和24年6月 |
十代 | 山田 実 | 昭和24年12月~昭和27年3月 |
十一代 | 平林 圭介 | 昭和27年3月~昭和34年3月 |
十二代 | 清水 次郎 | 昭和34年3月~昭和37年3月 |
十三代 | 高見沢 庄七 | 昭和37年3月~昭和39年3月 |
十四代 | 宮下 清計 | 昭和39年4月~昭和41年3月 |
十五代 | 山田 石男 | 昭和41年4月~昭和46年3月 |
十六代 | 生島 三男 | 昭和46年4月~昭和48年5月 |
十七代 | 栗田 寛 | 昭和48年5月~昭和51年3月 |
十八代 | 上條 勲 | 昭和51年4月~昭和53年3月 |
十九代 | 藤森 慎 | 昭和53年4月~昭和57年3月 |
二十代 | 市村 順太郎 | 昭和57年4月~昭和59年3月 |
二十一代 | 安江 昭祐 | 昭和59年4月~昭和63年3月 |
二十二代 | 小林 栄一 | 昭和63年4月~平成3年3月 |
二十三代 | 中村 節好 | 平成3年4月~平成5年3月 |
二十四代 | 佐藤 彦雄 | 平成5年4月~平成7年3月 |
二十五代 | 腰原 哲朗 | 平成7年4月~平成9年3月 |
二十六代 | 太田 喜幸 | 平成9年4月~平成13年3月 |
二十七代 | 青山 誠 | 平成13年4月~平成16年3月 |
二十八代 | 京田 伸吾 | 平成16年4月~平成19年3月 |
二十九代 | 青柳 淳 | 平成19年4月~平成21年3月 |
三十代 | 諏訪 繁範 | 平成21年4月~平成23年3月 |
三十一代 | 野村 貫之 | 平成23年4月~平成25年3月 |
三十二代 | 西牧 守 | 平成25年4月~平成27年3月 |
三十三代 | 永原 経明 | 平成27年4月~平成30年3月 |
三十四代 | 杉村 修一 | 平成30年4月~令和4年3月 |
三十五代 | 金井 繁昭 | 令和4年4月~ |
2022年、国公立大学に177名が合格している[30]。そのうち、地元の信州大学が50名を占めている。北海道大学、東北大学、名古屋大学、大阪大学などの旧帝大へほぼ毎年合格者を出しており、東京大学、京都大学の難関大学への合格者もいる。
私立大学へは毎年、早稲田大学、慶應義塾大学、上智大学、中央大学、明治大学、立教大学、法政大学や、関西圏の関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学など、いわゆるMARCHや関関同立などへ合わせて150名前後の合格者(延数)を出している。2013年度182名、2014年度176名、2015年度は102名が合格している。
旧制松本第二中学から新制松本県ヶ丘高校に変わって間もない1950年(昭和25年)当時は[31]、東京大学4名、北海道大学3名、東京工業大学1名のほか国公立大学へ99名が進学している。その内、信州大学へは62名が進学しており、当時から国公立大学合格者に占める信州大学の割合が高い。
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